第24話 遅くても、届く
猛吹雪に包まれた北方司令部の天幕は、雪まみれの猟師がもたらした悲報によって重苦しい空気に支配されていた。
試験場からほど近い村で、幼い子供が高熱を出して痙攣を起こしている。司令部に備蓄されている特効薬を今すぐ届けなければ、命に関わるというのだ。
しかし、外は一寸先も見えないほどの白魔の世界。通常の馬車や騎馬では、到底たどり着けない。
「救助は不可能だ。天候の回復を待つしかない」
司令部の将校が苦渋の決断を下した時、グロウ商会長のバルテスが冷酷に同調した。
「王都の最新鋭機である我が《白鷲》でさえ、この異常な深雪では身動きが取れずに立ち往生しているのだ。これは不運な天災だ。救えない命があるのも仕方がないだろう」
最高級の魔導具が動かないのだから、救助を諦めるのは当然だ。
王都の権威を笠に着たその傲慢な論理に、猟師は絶望して床に崩れ落ちた。
だが、その張り詰めた空気を切り裂くように、一人の令嬢が進み出た。
「その特効薬を、私に預けてください」
リナリア・ヴォルクハルト。
彼女は泥と煤で汚れた作業着のまま、将校たちを真っ直ぐに見据えていた。
「私たちの《雪燕》が、薬を届けます」
「馬鹿なことを!」
セドリックがすかさず嘲笑した。
「《白鷲》が雪に沈んだのだぞ! あんな農具の延長のようなガラクタが、この吹雪の中で動くわけがないだろう!」
「動きます」
リナリアは元婚約者の嘲笑を一蹴し、猟師から村の正確な位置を聞き出すと、特効薬の入った金属の箱をしっかりと抱え込んだ。
彼女の目には、吹雪への恐怖など微塵もない。前世で守れなかった命を、今世では絶対に手の届く範囲でこぼしはしないという強烈な意志だけがあった。
猛烈な地吹雪が吹き荒れる雪原へ、《雪燕》が押し出された。
操縦席にはノアが座り、後部の炉の前にリナリアが陣取る。そして一番後ろの座席には、厚手の外套を着込んだミラが、記録用のバインダーを抱きしめるようにして乗り込んでいた。
「ノア、頼むわね。ミラ、絶対に記録を絶やさないで」
「任せてください、親方!」
「はいっ、秒単位で数値を拾います!」
ガガッ、ガガガッ!
二基の《常火》が重い駆動音を上げ、辺境の濁り石が赤々と燃え上がる。
エッダが縫い上げた強固な防寒覆いが雪燕をすっぽりと包み込み、鉄の滑走板が深い新雪を容赦なく押し潰して前進を始めた。
外の景色は完全に白一色に塗り潰されていた。
極低温の環境下で、濁り石の魔力の波はかつてないほど荒れ狂っていた。炉の内部で圧力が急上昇し、暴走しかける。
だが、リナリアが手動で微調整を行う間もなく、拡大された『戻し輪』が余剰な魔力を瞬時に吸い込み、ぐるぐると循環させて冷却し、再び炉心へと送り込んでいく。
王都の魔導具なら安全装置が働いて強制停止するような悪条件の中でも、《常火》は決して火を落とさない。
「右前方に障害物! 雪の下に岩があります!」
風の音と地形の起伏から道を読んだノアが、《常火歩行補助具》で鍛えた左脚で力強く操縦ペダルを踏み込む。
滑走板の裏に刻まれた深い溝が雪をガッチリと噛み、横転事故の教訓を活かして極限まで下げられた重心が、車体を地面に吸い付かせるようにして鋭い旋回を成功させた。
やがて、白魔の視界の中に、黒い影が浮かび上がった。
それは、コースの中盤で雪に埋もれ、完全に沈黙している《白鷲》の無惨な姿だった。
純白の流線型装甲は雪に覆われ、誇らしげに輝いていた金細工も今はただ冷たく凍りついている。
王都の整えられた環境でしか動けない美しい鳥は、辺境の自然の前で完全に死に絶えていた。
《雪燕》は、その《白鷲》の横を、一定の低い駆動音を響かせながら通り過ぎていく。
速くはない。だが、遅くても、決して止まることはない。
泥臭い鉄と革の箱だけが、命を繋ぐために吹雪の奥へと進み続けた。
一時間後。
雪燕は、半分雪に埋もれた猟師の村へと到着した。
リナリアたちが小屋へ駆け込み、特効薬を飲ませると、高熱で苦しんでいた子供の呼吸はやがて穏やかなものへと変わっていった。
「ああ……神様、領主様……ありがとうございます……!」
泣き崩れる猟師と村人たちに見送られながら、リナリアは深く息を吐き出した。
どんなに泥臭くても、自分たちの作った魔導具が、今まさに一つの命を救ったのだ。
吹雪がわずかに弱まり始めた頃、《雪燕》は北方司令部の演習場へと帰還した。
待機していた将校たちが信じられないものを見るような顔で駆け寄ってくる。
天幕の中では、バルテスが忌々しげに舌打ちをし、セドリックが言葉を失って立ち尽くしていた。
リナリアは雪を払いながら天幕へ入り、王国調達監査官エルネストの前に進み出た。
彼女の背後から、ミラが両手でしっかりと抱えていた分厚い羊皮紙の束を差し出す。
「グランヴェル監査官。これが、先ほどの悪天候下における《雪燕》の連続稼働および、積載走行時の圧力変動データです」
エルネストは手袋を外し、その記録帳――後にE-07『雪燕稼働記録』として公的証拠となる書類を、丁寧に受け取った。
彼の灰色の瞳が、緻密な数字の羅列を素早く追いかけていく。
やがて彼は顔を上げ、将校たちや貴族たち、そしてバルテスに向かって、よく響く声で宣言した。
「極寒の深雪地帯における連続稼働、および救助物資の輸送完了を、この記録をもって公式に認定します。ヴォルクハルト工房製《雪燕》を、王国北方救援装備の特別採用候補として、王都へ報告書を提出します」
天幕が大きなどよめきに包まれた。
それは、辺境の泥臭い安物炉が、性能と記録という絶対的な事実をもって、王都の最高級品に完全勝利した瞬間だった。
数日後。
特別採用候補に選ばれた喜びに沸くヴォルクハルト工房で、リナリアは一人、新たな設計図と向き合っていた。
《雪燕》は確かに素晴らしい成果を上げた。
だが、ノアが語った言葉が、彼女の胸に引っかかっていた。
『親方。今回の猟師の村はまだ平地だったからよかったけど、もし俺の故郷の奥クレイン村みたいに、急な崖や岩場が続く山側の集落だったら、雪燕の滑走板じゃ登り切れません』
奥クレイン村。最も雪深く、王都に忘れられた村。
雪面を這う橇の構造には、どうしても地形による物理的な限界がある。
深い谷や切り立った崖を越えて、孤立した山村へ一刻も早く薬と治療師を届けるためには、地形の制約を受けない別の移動手段が必要だった。
「……雪面を走れないなら、山風に乗って滑空するしかない」
リナリアはペンを走らせる。
完全な飛行機を作る技術も魔力もない。だが、《常火》の熱で上昇気流を生み出し、山から山へと短距離を飛び移る滑空艇ならどうだろうか。
彼女の頭の中で、新たな山岳救急艇《暁鴉》の構想が少しずつ形になり始めていた。
工房の未来は明るく開けたかに見えた。
だが、その日の昼下がり。
王都から届いた定期便の新聞を読んだ父アランが、血相を変えて工房へ飛び込んできた。
「リナリア! た、大変だ!」
アランの震える手には、王都新聞が握りしめられていた。
そこには、目を疑うような巨大な見出しが黒々と踊っていた。
『辺境製安物炉の危険性露呈! 常火炉が爆発事故を起こし、民間人に多数の負傷者』
一瞬にして、工房の空気が凍りついた。




