第19話 転んだなら、転ばない形にする
白銀の雪原に、激しい金属音と真っ白な雪煙が舞い上がった。
王国北方救援装備の採用試験に向けて開発中だった輸送橇《雪燕》の試作機が、無惨にも斜面で横転し、冷たい雪の中に沈黙している。
深い雪道で薬や食料、そして人を運ぶための魔導具。それが、試験を前にして無惨な姿を晒していた。
リナリアは、二基直列で配置された《常火》の圧力変動を間近で記録するため、操縦士であるノアの後部座席に同乗していた。
横転の瞬間、エッダが縫い上げた強固な革の安全帯のおかげで、機体外へ放り出されることこそ免れた。しかし、重い鉄の塊が雪に叩きつけられた衝撃で、身体が大きく揺さぶられ、視界が激しく明滅した。
「親方! ノア!」
後方から、試走を見守っていたガスパルたちの悲鳴のような叫び声が聞こえる。
リナリアが雪まみれになりながら、なんとか身体を起こそうと安全帯に手をかけた時のことだった。
誰よりも早く、深い雪原を凄まじい速度で駆け抜けてきた影があった。
王国調達監査官、エルネストだった。
彼は、常に泥や埃を避けてきた、その隙のない監査官の軍服が雪にまみれることも厭わず、ひしゃげた防寒覆いを力任せに引き剥がした。
「リナリア嬢!」
彼が身分や役職を忘れ、思わず名前で呼んだことに、リナリアは目を丸くした。
エルネストは雪の中に膝をつき、リナリアの身体を包み込むようにして引き起こす。
その手は、いつも公平な記録のためのペンを握る手ではない。彼女の頭や首、肩に怪我がないかを、震える指先で必死に確かめていた。
「どこか痛むところは? 頭は打っていませんか」
「だ、大丈夫です。腕を少し打ち付けただけで……ノアも無事です」
リナリアが答えると、運転席に逆さまにぶら下がっていたノアも、「俺の脚もピンピンしてます!」と元気な声を上げた。
エッダの仕事が、二人を致命傷から完璧に守り抜いたのだ。
リナリアは我に返ると、慌てて座席の下に落ちたバインダーを探そうとした。
「それよりも、機体の傾斜データと、横転時の炉の圧力記録を確認しないと……」
「記録は後です。今は、あなたが先です」
エルネストの強い声が、リナリアの言葉を真っ向から遮った。
間近で見つめてくる彼の灰色の瞳には、冷徹な官僚としての機械的な光はない。一人の人間としての、痛切な焦燥と安堵が入り混じっていた。
「あなたが無事でなければ、どんな優れた記録も意味を成さない。……立てますか」
差し出された彼の手は、凍てつく雪原にあって、ひどく温かかった。
リナリアはその手に引かれて立ち上がりながら、胸の奥で、常火炉の熱とは違う、静かで確かな熱が広がっていくのを感じていた。
怪我の手当てを終え、数人がかりで工房に運び込まれた《雪燕》を前に、すぐさま原因究明の会議が始まった。
失敗を隠さず、次の正解への土台とする。それがこの工房の絶対のルールだ。
「なぜ転んだのか。機体を見て、一つずつ事実を確認しましょう」
リナリアの号令で、職人たちがひしゃげた橇を取り囲む。
リナリアは、前世で輸送トラックの過積載やバランス崩れによる横転事故の記録を分析した経験を総動員し、機体を指差した。
「重い炉を二基も積んでいるのに、全体の重心が高すぎました。それに、試験用に積んだ模擬の物資を上の段に固めてしまったせいで、斜面での遠心力に耐えきれなかったんです」
ミラの計算帳簿と照らし合わせ、明確な数字として設計のミスを指摘する。
さらにリナリアは車体下部に潜り込み、曲がってしまった鉄の滑走板を撫でた。
「それから、雪の噛み方です。この幅広の板では、深い雪に沈み込まないようにすることはできても、旋回時に雪をしっかりと掴んで踏ん張ることができませんでした」
問題点はすべて出揃った。
しかし、それをどう解決し、形にするかは、リナリア一人の頭脳では導き出せない。
前世の彼女は、すべてを自分が背負い込み、現場の声を拾いきれずに潰れた。今世では、同じ轍は絶対に踏まない。
リナリアは一歩下がり、泥と雪にまみれた作業着のまま、平民である職人たちに向けて深く頭を下げた。
「私の設計が甘かったせいで、ノアを危険な目に遭わせました。申し訳ありません」
貴族の令嬢が、自分たちの非を認めて平民に頭を下げる。
その光景に、工房の空気が一瞬だけピンと張り詰めた。
「転んだなら、転ばない形にするしかありません。どうか、現場を知るあなたたちの意見を聞かせてください。どうすれば、この雪燕は雪道を踏みしめて走れるようになりますか」
顔を上げたリナリアの瞳には、職人たちへの絶対的な信頼があった。
ガスパルが、古傷のある右腕の補助具をガガッと鳴らしながら一歩前に出た。
「頭を下げるこたぁねえよ、親方。俺たちが作ってんだ、俺たちが直す。……滑走板の幅を広げるだけじゃダメだ。板の裏に、雪を切り裂いて噛むための鋭い溝を数本、真っ直ぐに深く刻み込んでやる」
「操縦席の感覚だと、曲がる時にどうしても外側に引っ張られました。積荷を一番下の床板のすぐ上に配置すれば、もっと雪に張り付くように走れるはずです!」
ノアが身振り手振りで、現場の生きた感覚を伝える。
「なら、積載用の固定帯の配置をすべて下部へ作り直します。重心が下がる分、炉を雪の冷気から守るための防寒覆いも、形を変えないと」
エッダがすぐに革の裁断図を描き始める。
「左右の滑走板の幅と、新しい重心位置。それに必要な摩擦係数、すぐに計算し直します!」
ミラが新しい羊皮紙を広げ、猛烈な勢いでペンを走らせる。
誰一人として、失敗を嘆いて足を止める者はいない。
この工房には、もう「王都の下請け」という卑屈な空気は微塵もなかった。全員が、自分たちの知恵と腕で王国一の輸送機を作るという、一つの目標に向かって燃え上がっていた。
その一部始終を、工房の入り口で静かに見守っていた人物がいた。
領主である辺境伯アランだ。
彼は、借金に苦しみ、王都の顔色ばかりを窺っていたかつての自分を恥じるように、真っ直ぐな目で娘とその職人たちを見つめていた。
「リナリア」
アランが声をかけると、職人たちが驚いて姿勢を正した。
「見事な現場だ。領主として、お前たちのその結束と技術に心からの敬意を表する。この《雪燕》の開発費は、すべて領の特別予算から私が責任を持って捻出する。王都の試験で、辺境の意地を見せてこい」
「お父様……!」
リナリアの顔がパッと明るくなり、工房内に大きな歓声が響き渡った。
資金の裏付けも取れ、職人たちの結束もかつてないほど強固になった。
雪燕の改良は、さらに熱を帯びて加速していく。
だが、王都の巨大な利権は、彼らが完成の喜びを味わうまで待ってはくれなかった。
翌日、王都からの定期便で届いた新聞の一面が、再び辺境の工房に冷や水を浴びせることになる。
『グロウ商会、王国採用試験に向けた新型雪上魔導車《白鷲》を発表。比類なき美しさと、圧倒的な高出力』
そこには、王都の最新技術の粋を集めた、華やかで美しい高級機の姿が描かれていた。
レティシア・グロウが広告塔として微笑むその新型機が、ついにその全貌を現そうとしていた。




