第13話 使えない手なんてない
厳しい冬の冷え込みが本格化し、廃工房には辺境の村々から《常火暖房炉》の注文が途切れることなく舞い込んでいた。
だが、工房の活気とは裏腹に、生産の要である工房長ガスパルは、作業台の前で深く重い溜息をついていた。
「……くそっ。まただ」
ガスパルが苛立たしげに放り投げたのは、加工の途中で深く傷がついてしまった鉄の部品だった。
それは、炉の安全を守るための心臓部である『逃がし爪』だ。ほんのわずかな寸法の狂いも許されない精密な部品だが、彼の手元が狂い、使い物にならなくなってしまったのだ。
「親方、申し訳ねえ。この老いぼれの腕じゃ、もう細かい調整は無理だ」
ガスパルは自嘲気味に、右腕を強く握りしめた。
彼の右腕には、若い頃に魔獣から仲間を庇って負った痛々しい古傷がある。
普段の鍛冶仕事ならばごまかしも効いた。だが、連日の急ピッチな作業による疲労と、厳しい冬の寒さが古傷を疼かせ、彼の右腕は意思に反して微細な震えを繰り返していた。
「頭の中には長年の勘があるんだ。どこをどう削れば完璧な爪になるか、分かってる。なのに、この使い物にならねえ腕が、言うことを聞きやがらねえ」
ガスパルは悔しそうに顔を歪めた。
職人にとって、自分の思い描いたものを形にできないことほど辛いことはない。彼は責任感から、自ら現場を退く覚悟すら固めようとしていた。
リナリアは床に落ちた不良品を拾い上げ、指先でその傷の深さを確かめた。
「ガスパル。あなたは自分の手を、使えない老いぼれだと言いましたね」
「事実だろ。こんな震える手じゃ、不良品を増やすだけだ。力仕事ならまだしも、命に関わる部品は任せられねえよ」
リナリアは、前世の町工場時代を思い起こしていた。
長年現場を支えてきたベテランの職人が、加齢や怪我で身体の限界を感じて辞表を出してくる。それは、会社にとってどんな機械の故障よりも大きな損失だった。
彼らの頭の中に蓄積された『現場の知』は、何十年もかけて培われた宝だ。身体が追いつかないなら、辞めさせるのではなく、会社が道具を用意して補えばいい。
「王都の高度な治癒術を使えば、その腕を昔のように治せるかもしれません。お金なら、工房の売り上げから出せます。そうしたいですか?」
リナリアが尋ねると、ガスパルは少し驚いた後、鼻で笑った。
「冗談言うな。王都の高位神官様なんざ、俺たち平民には縁のねえ世界だ。それに……この傷は俺の歴史そのものだ。消し去りてえとは思わねえよ」
「なら、今のあなたの希望はなんですか?」
「……俺の希望?」
「ええ。治すのではなく、今のその腕で、何をしたいですか」
ガスパルは作業台の上の使い込まれた金槌とヤスリに目を落とした。
「俺は……最後まで、自分の手でこいつらを振るいてえ。若い連中に口で教えるだけじゃなく、俺の手で、最高に綺麗な部品を削り出してやりてえんだよ」
それは、誇り高き職人としての偽らざる本心だった。
リナリアは深く頷いた。
「分かりました。なら、治すのではなく、その手の歴史ごと支える道具を作りましょう」
リナリアが考案したのは、小型の《常火》ユニットを背中に背負い、そこから魔力駆動のワイヤーと関節具を右腕に這わせる『常火補助具』だった。
失われた機能を補う義手ではない。あくまでガスパル自身の右腕に外付けし、震えを抑え込んで微細な力の調節を補助するための道具だ。
しかし、硬い機械を直接腕に巻き付ければ、すぐに擦れて血が滲んでしまう。
ここで名乗りを上げたのは、革職人の未亡人エッダだった。
「ガスパルさんの腕の形に、寸分違わずフィットさせないと、補助の力が逃げてしまいます。それに、傷跡に負担をかけないように柔らかく包まないと」
エッダは上質な革を使い、ガスパルの右腕の筋肉の動きを阻害しない、しなやかで強固な固定帯とグローブを縫い上げた。彼女の丁寧な手仕事が、無骨な機械と人間の身体を優しく繋ぎ合わせたのだ。
そして、最も困難だったのが、ガスパルの意志と機械の動きを同期させることだった。
記録係のミラが、山のような羊皮紙を抱えてガスパルの腕を観察し続けた。
「ガスパルさんの手の震えの周期は、疲労が溜まると一分間に約四十回になります。これに合わせて、常火の魔力の波を逆のタイミングでぶつければ、震えを完全に打ち消せます」
ミラは失敗帳の隅に新たな計算式を書き込み、炉の出力の微細な調整値を叩き出した。
リナリアの設計、エッダの革細工、ミラの計算。工房の総力を結集して、ガスパルのためのただ一つの補助具が組み上がった。
完成した《常火補助具》を右腕に装着したガスパルは、おっかなびっくりといった様子で指先を動かした。
背中の小さな《常火》がガガッと低い音を立てて起動する。
「なんだこりゃ。腕が……勝手に動くわけじゃねえな」
「はい。あなたの意思で動かすんです。補助具は、あなたがヤスリを重いと感じた分だけ力を貸し、腕が震えようとする分だけそれを逆の力で押さえ込みます」
リナリアが説明すると、ガスパルは作業台に向かい、いつものヤスリを握った。
先ほどまでプルプルと不規則に震えていたヤスリの刃先が、空中でピタリと止まった。
ガスパルは目を丸くし、それから目の前の鉄の塊に向き合った。
シュッ、シュッ。
心地よい、一定のリズムの金属音が工房に響き渡った。
ガスパルの長年の勘が、補助具の助けを借りて、再び正確に鉄を削り出していく。
彼の手の動きには何の迷いも、震えもなかった。
やがて、寸分の狂いもない、見事に滑らかな曲線を描く『逃がし爪』が完成した。
「……信じられねえ。俺の頭の中にある形が、そのまま手から出てきやがる」
ガスパルは震える声で呟き、自らの右腕を見つめた。
そこにあったのは、老いて身体の限界を嘆く可哀想な男の顔ではない。最高の道具を手に入れて仕事の喜びを取り戻した、現役の職人の顔だった。
工房のあちこちから、職人たちの安堵の息と歓声が上がった。
「これで工房の戦力は完全に元通り……いえ、それ以上ですね、技術長」
リナリアが微笑むと、ガスパルは照れ隠しのように鼻を擦った。
「へっ。こき使う気満々じゃねえか、親方」
感動的な場面ではあったが、リナリアにとってこれはあくまで工房の生産力を回復するための合理的な投資だ。
ガスパルが最前線に復帰したことで、《常火》の製造ペースは再び跳ね上がり、工房の経営はより強固なものになった。
職人たちが再び活気を取り戻して作業に戻ろうとした、その時だった。
「あの……」
工房の入り口から、遠慮がちな声がした。
立っていたのは、奥クレイン村の出身で、領地の配達を手伝ってくれている十六歳の少年、ノアだった。
魔獣の被害で片脚に障害があり、いつもは明るく振る舞って痛みを隠している彼だが、今は真剣な眼差しだった。
ノアは、ガスパルの右腕で力強く動く補助具を食い入るように見つめ、それからリナリアへと視線を移した。
「領主様。俺のこの脚にも……そういうものを、作ってもらえないでしょうか」




