第60話 黒烏の一夜
皇宮の廊下に隣接する待合所。
窓の外では陽が傾き始め、まだ会議の緊張が解けきらない空気が漂っていた。
エルム・クロウたちは柔らかなソファに腰掛け、ジークフリードの帰りを待っていた。
廊下の向こうからジークフリードが近づいてきた。
マクシミリアンは弾かれたように立ち上がり、駆け寄りながら声をかけた。
「殿下! どうなりましたか?」
「……負けたな」
マクシミリアンは自分の首まで懸けられていたことを思い出し、顔が青くなった。
エルム・クロウは、怒りの色を見せないジークフリードの様子を探るように見て言った。
「約束を守りませんでしたね?」
ジークフリードが大評議室で纏っていた殺気はなぜか消えていた。
「『会議の間はお前の言うことを聞く』か? 半分は守ったぞ」
エルム・クロウはため息をついた。
「半分ですか……では、この首を差し上げるわけにはいきませんね。残りの半分はマクシミリアンの首で、どうぞご自由に」
「だから、俺の首まで勝手に差し出すな」
「お前、本当に面白い奴だな。元王国人」
「その『元王国人』という言い方なんとかなりませんか?」
「そうだな。たしかエルム……ん? 『知恵の黒烏』か。偽名だな」
「……」
マクシミリアンがここぞとばかりに言った。
「殿下、彼女の名はエレノア・クロムウェルです」
「マクシミリアン!」
「まあよい。本人がそう呼ばれたくないのだろう。では、エルム・クロウ、帰るとしよう。詳しい話はそこでしてやる」
◇
カシュタイン子爵の邸宅に戻ると、ジークフリードは食堂の席に着くなり、事の顛末を三人に伝えた。
カシュタイン子爵は静かに言った。
「殿下がそれでよろしければ、私からは言うことはありませぬ」
マクシミリアンも頷いた。
「残念ではありますが、殿下と共に王国進攻に臨みたいと思います」
エルム・クロウは言った。
「……それで、殿下はせめて帝国元帥の座をお受けしたのでしょうか?」
「宰相のベルトルトはそのつもりだったらしいが……」
「まさか断ったのですか?」
ジークフリードは苦笑した。
「奴らの掌で踊るのが嫌でな。『黙れ』の一言で終わらせてやった。おかげで、うやむやになった。いざとなったら『俺の国を作る』と捨て台詞も吐いてきたがな」
エルム・クロウはそれを聞いて考え込んだ。
「……」
「それに俺は元帥でなくても、俺の軍団を率いて暴れることができれば問題ない」
エルム・クロウは、まだどこか思考の外にいるような声で答えた。
「……わかりました」
食事を終え、話がひと段落したのを見計らい、カシュタイン子爵が柔らかな声をかけた。
「クロムウェル殿」
「子爵様。その呼び方は……それにマクシミリアン、さっき思ったのだけど私の姓を調べたの?」
「侍女に『聖騎士団にいた』って言ったらしいじゃないか」
「……うかつだったわ」
子爵は苦笑した。
「まあ、よいではないか。どうも『エルム・クロウ』というのは私には呼びにくくてな。この邸宅内だけでも許してはくれぬか?」
「……承知しました……ただ、クロムウェルの姓はあまり好きではありません。できれば『エレノア』とお呼び下さい」
「承知した。エレノア殿」
「どうだ。毎日宿通いも大変であろう。今宵くらいは我が邸宅で休んでは? 来賓用の部屋もまだ余っているし」
「そんな。着替えも持参しておりませんし……」
「領地に残してきた妻の寝間着をお貸ししよう。背丈も同じくらいだからな」
「子爵様!?」
子爵は戸惑うエルム・クロウをよそに、さっさと侍女を呼んだ。
「お呼びでしょうか? 旦那様」
「そこの彼女……エレノア殿に妻の寝間着を用意してくれ」
「『エレノア』殿?……あ、はい。承知いたしました」
侍女は一瞬戸惑ったが、子爵がそう呼ぶ女性が目の前のエルム・クロウだと気づき、頷いた。
侍女たちは、最初はエルム・クロウを得体の知れない女性士官と思って警戒していたが、この数日間のやりとりですっかり心を開いていた。
帝国の女性たちにとって、歴史があり、優雅で文化的な王国の流行は興味深いものだった。
もっとも、エルム・クロウ自身はそうした流行にさほど関心があるわけではなく、詳しい知識を持っているわけでもない。それでも王国出身の彼女から聞く話は、侍女たちにとって十分に刺激的だった。
そんな侍女たちに、エルム・クロウは半ば拉致されるようにして、来賓用の部屋へ連れていかれた。
◇
その夜。
あてがわれた客間は、彼女が慣れ親しんだ質素な宿とは比べ物にならないほど広く、天蓋付きの寝台や、磨き上げられた鏡台までが備え付けられていた。
エルム・クロウはなかなか寝付けず、窓辺に腰掛け、月を見ていた。
「こんな豪華な寝間着で、こんな豪華なベッド。本当に久しぶりだわ……」
ジークフリードに『なぜ帝国に来たのか?』と問われたのを思い出す。
カシュタイン子爵家で過ごした数日は、思いのほか心地よかった。今日、初めてこの屋敷に泊まることになったが、それが妙に嬉しく感じられてしまった。
「何をやってるのかしら……」
こんなことでは、王国への復讐心が弱まってしまうのではないか。
エルム・クロウは、窓際のテーブルに置いた義手を見つめた。
自分が命を懸けて積み重ねてきたものよりも、見た目や血筋を選んだ王国。
その象徴として聖騎士団長に据えられたのが、セレスティーヌ・フォン・ランカスターだった。
「あの子、そういえばドルクハルトに勝って、ベルクマン将軍を退けたのね……」
エルム・クロウは、それを認めることを拒むように呟いた。
「……いいえ。きっとカイルたちがいたからだわ」
そう考えれば、セレスティーヌ自身の実力を認める必要はない。
だが、頭に浮かんだのは、かつての後輩たちの顔だった。
カイル。ミリア。フェリックス。
彼らのことを思い出すと、不思議と王国への復讐心は湧いてこなかった。
ふと窓の外を見ると、庭を囲う柵の外に人影が見えた。
敷地外の歩道を単に歩いているのではない。明らかに不審な動きをしていた。
よく見ると荷馬車の後ろから次々と人が降りている。
そして、数人が柵に手をかけてよじ登ろうとする。
(間違いない……刺客だわ)
エルム・クロウは急いで義手をつけ、剣を手に取ると、足音を殺して部屋を出た。
三人に伝えるべきか……
明かりをつけ、警戒していることを見せれば、退いていくか?
いや、荷馬車が一台とは限らない。気づかれたとわかれば、寝込みを襲うのをやめ、数による制圧か、放火に切り替えてくるかもしれない。
そうなれば、侍女たちは間違いなく殺されるだろう。
エルム・クロウは暗闇の中、月明かりを頼りに一階の厨房の横の勝手口に静かに向かった。
夜の邸宅は静まり返り、自分の呼吸の音だけが妙に大きく聞こえた。
もう刺客は庭内に入っているだろう。
案の定、勝手口の外に複数の人の気配がした。
(入ってきたところを不意打ちするか……いや……)
エルム・クロウは勝手口の横に剣を立てかけ、扉を開けた。
そこには、フードを目深にかぶった二人の男がいた。
エルム・クロウは、二人に自然な口調で声をかけた。
「待っていたわ。入りなさい」
二人の男は驚いたように顔を見合わせた。
「貴様。何者だ?」
男たちは警戒し、腰の剣に手をかける。
エルム・クロウは両手を広げ、呆れたように言った。
「貴方たちの依頼主に頼まれて、先に潜入していた者よ。約束の時間より随分遅かったのね」
「なんだと? そんな話、聞いてないぞ。本当か?」
エルム・クロウは鋭い口調で、指示するように言った。
「詮索している時間はないわ。それより、逃走経路にはきちんと人を配置しているでしょうね?」
そのリーダー然とした雰囲気に押され、男たちは答えた。
「お、おう。南の正面の門と北の裏門に四人ずつだ」
「私が必要だと伝えた人数は用意できたの?」
「もちろんだ。荷馬車四台で三十人」
「は? 全然足りないじゃない。ふざけないで!」
「いや……しかし、宰相閣下は三十人と……」
「文句を言ってやりたいところだけど、今さら仕方ないわね。任務後、すぐに離れられるよう、御者役は残したのでしょうね?」
「もちろんだ」
(御者役で四人、見張り役が八人。実質、邸宅内への突入は十八人ってところね)
「三人は二階の寝室にいるわ。東側の部屋が来賓用、西側が子爵たちの部屋よ」
「そんなことは百も承知だ。主力は直接バルコニーから突入する予定だ」
「なるほど。そこまで調べがついているのね。人が足りないなんて言ってごめんなさい。貴方たちなら大丈夫そうね」
「いや、俺たちにとって『念には念を』は正しい考えだ。気にするな」
そう言って、二人はエルム・クロウに背を向け、厨房のほうへ静かに移動しようとした。
エルム・クロウは、立てかけておいた剣を拾い、素早く鞘から抜いた。
一人の首を切りつける。
もう一人が振り向くより早く、その胸を貫いた。
二人の男が、声を上げる間もなく崩れ落ちる。
エルム・クロウは血を払うように剣を振り、静かに呟いた。
「『念には念を』って、何かしら?」
二階から、窓ガラスの割れる音が響き、エルム・クロウは顔を上げた。
「人が多い分、思ったより雑なやり方なのね」
そして、わずかに口元を緩める。
「まずは二人。邸宅内には、あと十六人ってとこね……三人に期待するわ」




