第51話 ライネル・フォン・ベルガー
ライネルの故郷であるベルガー子爵領は、痩せた土地だった。
これといった産業もなく、人口も少ない。当然、抱えられる兵士の数もわずかだった。
それゆえ師団や大隊としての規模の軍隊を持てず、他の師団に加わるかたちで戦場に出ることが多かった。
ただ、ベルガー子爵家は軍人として優秀だったため、代々雇われ軍人として活躍していた。
ライネルの父グレッグも軍人として将軍付き副官となり、数々の戦場に出陣した。
しかし、ライネルが十五歳のときに、ベルガー子爵家に不名誉な出来事が起こる。
父グレッグが味方を見捨てて戦場から逃亡したのだ。
――父上は、本隊を救うための囮になっただけだ。
ライネルは、そう信じたかった。実際、グレッグ自身も軍法会議でそう主張したと聞いている。だが、タイミングがあまりに悪かった。結果だけを見れば、戦場から逃げ延びたグレッグと、その麾下の兵士たちだけが生き残ったという事実しか、世間には残らなかった。
グレッグは、これ以上ベルガーの名を汚さぬようにと、みずから責を負って隠居し、家督をライネルに譲った。子爵家そのものが取り潰されずに済んだのは、その決断のおかげでもあった。
ライネルはその後、士官学校に入学したが、しばらくは「ベルガー」を名乗ることを拒み、「ライネル」とだけ呼ばれることを望んだ。
士官学校を次席で卒業したのち、ライネルは各地の戦場を転々とし、中隊長、大隊長と着実に軍功を重ねていった。三十を超えた頃、彼の指揮下に、参謀としてカイル・フォン・ヴァルデンが加わる。
当時、カイルの父はまだ健在であり、ヴァルデン家の当主でもなかった。カイルは領地に戻ることなく、軍にとどまって己の力量を示すことに執心していた。
猛将ライネルと、知将カイル。
性質の異なる二人は各地で連戦連勝を重ね、その名を轟かせた。武勲を重ねるライネルには、いずれ将軍の座が用意されるはずだった。
だが、ある帝国との紛争で、二人は決定的に対立することとなる。
功を焦って先行しすぎた味方の中隊が、敵に包囲されかけたのだ。
ライネルは即座に救援を指示した。しかしカイルは、それに異を唱えた。
「どうせ間に合いません。救援に向かえば、味方の損害が増えるだけです。むしろ、この状況を利用すべきかと」
「見捨てろというのか」
「損害を増やせと?」
互いに一歩も譲らなかった。
ライネルは味方を見捨てることを断じて許さず、カイルは無為に損害を広げることを断じて許さなかった。
結局、カイルはライネルの命令を無視し、独断で兵を動かした。
救援は、間に合わなかった。
包囲された中隊は半壊に近い損害を出したが、戦全体としてはミラージュ侯爵軍の大勝利に終わった。
勝敗だけを見れば、カイルの判断は正しかったことになる。
――皮肉なことに、ミラージュ侯爵軍の中でも、ベルガー子爵家の兵にだけは、被害が一人も出なかった。
友軍を見捨てて生き延びた父。
そして今、見捨てまいとした自分の指揮下で、他家の兵だけが血を流し、ベルガー家の兵だけが無傷で残った。
結果だけを見れば、何一つ変わっていない。
命令に背いたカイルへの怒りはもちろんのこと、生き延びた側にいたライネル自身にも、いつしか陰口が向けられるようになった。用意されていたはずの将軍の座も、この一件でうやむやのまま立ち消えとなった。
その評判を聞きつけたのが、王国最大の兵力を誇るロシュフォール侯爵だった。
「腕は確かだが、曰くつき」というライネルの評は、他家からは将軍として迎えるのを敬遠されても、政治的な発言力に物を言わせて有能な人材を掻き集めたいロシュフォール侯爵にとっては、むしろ好都合だったのだ。
こうして、ライネルはロシュフォール侯爵に招かれ、その麾下の軍を率いる将軍となった。
誰もが陰で謗るなか、己を拾い上げてくれた恩義を、ライネルは今も忘れていない。ロシュフォール侯爵への忠誠が、他の誰よりも篤いのは、そのためだった。
◇
そして今、ライネルの忠誠は、まったく別のところから試されようとしていた。
執務室に戻ってきたライネル。
カレンは心配そうに話しかけた。
「閣下。顔色が悪いようですが……」
「問題ない。カレン、これから王都から出兵する。準備を整えよ」
「聖騎士団もすでに出兵したと聞きました。まさか、帝国軍が戻ってきたのですか?」
「いや。そうではない」
ライネルは苦渋の表情で声を絞り出した。
「アドリアン殿下、いや……陛下から、セレスティーヌ討伐の命が下った」
「は? 御冗談を」
「冗談ではない。聖騎士団は出兵ではなく逃亡だ」
「……セレスティーヌ卿の罪状は?」
「今回の帝国による王国侵略が、そもそもランカスター家による謀だったとのことだ」
「ロシュフォール侯爵は、この命令をご存じなのですか? ほとんどの兵は侯爵家の兵ですが」
「どこの兵であろうと王国兵だ。これは、ベルガーの名を賭けた戦だと思っている」
ライネルの言葉に、カレンが小さく目を見開いた。
「……本気で信じてるのですか?」
「俺が信じる信じないなど関係ない。陛下による『勅命』。それだけだ」
「……わかりました。ベルガー子爵家の士官としてどこまでも御供致します」
「すまない」
「それで、セレスティーヌ卿が逃亡するとしたら、メイルドック辺境伯領アルクリーズ城ですか?」
「陛下もアルクリーズ城に謀反の件で伝信竜を出してはいるようだが、メイルドック辺境伯はランカスター公爵家とのつながりが深い。それにご自身もセレスティーヌ卿の麾下に加わる血判状を出したほど、深く信頼を寄せている」
「では、メイルドック辺境伯も我々の敵に回るということでしょうか?」
「それはないとは思うが、セレスティーヌ卿の敵になるとも考えにくい。仮に入城されたら、我々だけで討伐するのは難しい」
カレンは少し考えてから、頷いた。
「おっしゃる通りかと」
「どのみち王都を完全に空にするわけにはいかない。よって機動力のない歩兵隊五千は王都防衛に残す。騎兵七千を以てセレスティーヌ軍を追撃する。早ければ明日には追いつくだろう」
「閣下。『セレスティーヌ軍』という名は非公式では?」
「失言だ……よし、出るぞ! 各兵に伝えよ!」
「はっ!」
◇
その日の夕刻、ルミナリアでは――
ロシュフォール侯爵邸の一室に、慌ただしく諸侯が召集されていた。
マーロンド伯爵、キース伯爵、エーベルバッハ子爵、そしてミラージュ侯爵と、その麾下のユリウス将軍である。
ミラージュ侯爵以外はアルテール平原の戦いを共に戦った顔ぶれであった。
上座に座るロシュフォール侯爵の手には、一枚の書状があった。
「――王太子殿下は、すでに『陛下』となられたようだ」
一同に、静かなどよめきが広がった。
「……ついに、確定でございますか」
マーロンド伯爵が、重い息を吐くように呟いた。
「陛下のご遺体は、まだ見つかっておらぬのだったな」
エーベルバッハ子爵が問う。
「王宮内には、それらしき痕跡もない。おそらくは、王都のどこかで――」
ロシュフォール侯爵は言葉を濁した。
「そしてもう一つ。セレスティーヌ卿とその一味が、王都から逃亡したとのことだ」
「な……!?」
「逃亡、でございますか」
エーベルバッハ子爵が困惑を隠せない様子で聞き返す。
「あれほどの功労者が、なぜ」
「ランカスター家による王家への反逆、とのことだ」
キース伯爵が鼻で笑った。
「今度は謀反ですか。次から次へと、お忙しいことだ」
いつもの調子の軽口だったが、誰も取り合わなかった。
『謀反』という一言の重さの前では、皮肉すら場違いに響いた。
沈黙を破ったのは、ミラージュ侯爵だった。
「王都の軍は、すでに動いているのですか?」
「うむ。ライネル将軍に追撃命令を出す、とだけ書かれていた。彼に預けた我が軍は一万二千。差配は任せてあるが、機動力のある騎兵で追撃するであろう」
ミラージュ侯爵は静かに顎に手をやった。
「では王都の守りは、歩兵のみということですな。しかしロシュフォール侯。相手はセレスティーヌ卿ですぞ。もはや侮れる将ではありません」
「確かにな。だが、聖騎士団の頭脳と言えるヴァルデン卿はいない。ライネルもセレスティーヌ卿と一騎打ちなど愚かなことはしないであろう。それに、アルクリーズの守備兵やダミアン卿率いる紅蓮騎士団などは、説得の余地があるかもしれん」
ミラージュ侯爵は、得心したように頷いた。
「なるほど……聖騎士団を叩くには、確かに好機ではありますな。して、ヴァルデン卿の処遇は?」
「まだ何も聞いておらぬ。今回の件への関与も含め、査問を受けることになるのではないか」
そう言うとロシュフォール侯爵は一同を見渡した。
「私は、キース卿と共に王都へ向かう」
マーロンド伯爵が驚いたように問い返す。
「侯爵閣下、直々にでございますか?」
「新王が立ったばかりの今、王都の守りが薄いままでは示しがつかん。それに――新体制の骨格を固めるならば、今この時をおいて他にあるまい」
ロシュフォール侯爵の口元に、微かな笑みが浮かぶ。
その一言だけで、その場に集った者たちは、揃って察した。新王の御代における王国宰相の座――それが、この男の狙いであることを。
傍らに控えていたキース伯爵もまた、心得たとばかりに一礼した。新王への根回しに、これほど都合の良い先陣役はいない。
「マーロンド卿、エーベルバッハ卿。両名はこのままルミナリアに残り、後方の統制を頼む」
「承知いたしました」
ミラージュ侯爵が静かに問うた。
「私の軍はいかがいたしましょう」
「セレスティーヌ卿が、必ずしもアルクリーズへ向かうとは限らん。もし読みが外れれば――」
「城塞都市ベルモスでございますな」
「うむ。念のため、貴殿の軍はユリウス将軍に預け、ベルモス方面へ進めておいてくれ。万が一の場合に備えてな」
ミラージュ侯爵は深く頷いた。
「承知いたしました。ユリウス、頼むぞ」
「はっ」
かくして、ルミナリアの諸侯たちは、それぞれの持ち場へと散っていった。
誰も、まだ気づいていなかった。
この会議の裏で、もう一つの『勅命』が、ルミナリアの片隅に密かに届いていたことに。




