第40話 波乱の予兆
帝国司令部の会議室では、誰も口を開こうとしなかった。
皇帝崩御も一大事である。
しかし将軍たちの頭を占めていたのは、その直後に本国から下された『全軍撤退』という信じ難い命令だった。
沈黙に耐えかねたように、エルム・クロウが小さく息を吐いた。
「将軍方。それで、どうなさるおつもりでしょう。その命令に従うだけの合理的な理由が、私には見えません」
その言葉に、真っ先にザイデンが顔を真っ赤にして色めき立つ。
「貴様、無礼にも程があるぞ! 皇后陛下に異を唱える気か!」
「ということはザイデン閣下は撤退をなさると?」
「そ、それは……」
ザイデンは返す言葉を失った。
一時はザイデンと共にエルム・クロウへ嫌味を浴びせていた将軍たちも、今では執拗に噛みつく彼を、冷ややかな目で見つめていた。
ベルクマンが苦渋の顔で口を開く。
「しかし、皇后陛下は、いったい何をお考えなのだ。ここフルーランシュや王都を放棄すれば、この数ヶ月の戦果はすべて水泡に帰す。軍を動かしたことのない御方には、お分かりにならないのも当然かもしれんが……」
「ベルクマン閣下」
エルム・クロウは、ベルクマンの言葉を遮るように告げた。
「遠回しな言い方は、いたずらに時間を費やすだけです。私は元より王国の人間ですゆえ、何のしがらみもございません。故に、ここにある誰もが口にできない不敬な正論を具申したいと思いますが、お許し願えますか?」
「……言ってみろ」
「マリウス第二皇子はまだ即位していません。よって皇后陛下は『皇太后』陛下でも摂政でもございません。撤退命令は軍令ではございません」
「……そのことなら、言われずとも分かっている」
ベルクマンが低く唸る。
将軍たちが沈黙し、苦悩していた理由はまさにそこだった。皇后の命令は軍令ではない。突っぱねることは法的には可能だ。
だが、もし第二皇子マリウスが帝位に就けば、その命令を退けた事実だけは残る。
彼らが恐れているのは戦ではなく、その後の政治であった。
「皇后陛下が欲しいのは、将軍方という後ろ盾です。将軍方だけが帝都へ戻れば、それだけで皇后陛下への忠義は示せます。ですが、一つだけ腑に落ちない点があります。なぜ皇后陛下は、将軍方だけでなく『全軍』に帰還を命じられたのでしょう。皇帝陛下の崩御とは別に。何か帝都で急変が起きようとしているのでしょうか?」
「……それは」
ベルクマンをはじめ、他の将軍たちも無言のままだった。
「試すような真似をして申し訳ございません」
エルム・クロウは静かに視線を巡らせる。
「皇后陛下は――ジークフリード第一皇子殿下を恐れているのですね?」
会議室にいた将軍たちは互いに視線を交わした。
誰もが同じ結論へ辿り着いていた。
だが、それを口にする者はいない。
皇后を敵に回す覚悟も、第一皇子を敵に回す覚悟も、誰一人持ち合わせてはいなかった。
やがてベルクマンが重々しく口を開く。
「……エルム・クロウ」
「はい」
「貴殿が平然と言ってのけたおかげで、こちらも腹が決まった。」
ベルクマンは会議室に集う将軍たちをゆっくり見渡した。
「兵は半数を残す。帝都へ戻るのは我々だけだ。」
ひとまずの結論を出すと、ベルクマンはこの会議の主導権を握っていた亡命者を見つめた。
「エルム・クロウ。貴殿はどうする?」
「私はここでマクシミリアンの回復を待ちます」
「そうか」
納得のいかないザイデンが横から口を挟む。
「閣下、よろしいのですか? この女をこのような要所に残しては……」
「ザイデンよ。帝都へ帰還する準備を始めよ。――各々、支度にかかれ」
将軍たちは無言のまま席を立ち、会議室を後にした。
やがて残ったのは、ベルクマンとエルム・クロウの二人だけだった。
彼にも一つの思惑があった。
マクシミリアンの実父であるカシュタイン子爵は、あの第一皇子ジークフリードが唯一「先生」と呼んで敬意を払う人物だ。
そして、そのマクシミリアンは、なぜかこのエルム・クロウという女を深く信頼している。
皇位継承の行方が定まるまでは、敵にも味方にもなり得る者への布石は、一つでも多い方がいい。
「ベルクマン閣下。失礼な物言いですが、ジークフリード殿下か仮に帝都にお戻りになるとして、なぜそこまで警戒なさるのでしょう?」
「あのお方は一万を超える直属軍を持つ。半数は征服した小国の兵や傭兵だ。普通なら烏合の衆となるはずだが、奴らは異様なほど第一皇子へ忠誠を誓っている」
「しかし、だからと言って……」
「万が一、だ。帝国人同士相打つなど、想像したくもない。おそらく帝国の重臣たちによる話し合いになるであろう」
「……」
「どうした?」
「まさか、私にそこまでお話し下さるとは」
「ふ……そうだな。今の話は忘れろ」
エルム・クロウは、ふと王都に残る一人の将軍を思い浮かべた。
「ところで、王都のディートハルト将軍は、どう決断なさるでしょうか?」
「……あやつにとっても、身を切るような苦しい決断になるだろうな」
◇
ローゼンベルク王国王都ローゼリア。
エルム・クロウが離れて以来、占領政策は思うように進んでいなかった。
帝国の軍人たちは、市民への飴と鞭の使い分けが上手くできず、とりわけ商人たちからの陳情は日を追うごとに増えていた。
帝都から伝信竜が到着したときは、新たな政務官が赴任する報せかと期待したが、まったく予想だにもしない内容であった。
木筒から書状を取り出し、その内容を読み終えた男は、静かに目を閉じた。
第一騎士団将軍、グスタフ・フォン・ディートハルト。
帝国最強の一角と謳われる男は、小さく息を吐いた。
「姉上は……何を考えておられる」
側に控える副官シュナイダーが、おそるおそる口を開いた。
「第一皇子殿下への備え……ではないでしょうか」
「そんなことは分かっている! だが、王都を放棄し、ベスティア領をも放棄し、我々がこの数ヶ月の間に積み上げてきた戦果をすべて捨てろというのか。ありえん、到底受け入れられるか!」
しかしシュナイダーには、それが本心だけで発した言葉ではないことが分かっていた。
帝国の歴史上、皇位継承争いに敗れた者で、天寿を全うできた者は一人もいない。
直接剣を交えた敗者だけではない。
自ら身を引いた者も、先帝に後継として選ばれなかった者も、数年のうちに必ず「病死」や「不慮の事故」という形で歴史の表舞台から消し去られてきた。
ディートハルトの姉である現皇后が、必要以上にジークフリードを警戒し、なりふり構わず牙城を固めようとする恐怖の理由を、ディートハルト自身も痛いほど理解していたのだ。
シュナイダーは、深く息を吸い、尊敬する上官へ力強く告げた。
「閣下。どうか兵の半数を連れ、直ちに帝都にお戻りください。この王都の維持など、残された我ら第一騎士団の精鋭五千もあれば、王国の弱兵どもを相手にするには十分すぎるほどにございます」
「それに、フルーランシュにいるベルクマン将軍も全軍帰還させるとは思えませぬ」
第一騎士団と第二騎士団は、長年互いに競い合ってきた。だが、その実力だけは認め合っていた。
ディートハルトは、ベルクマンなら同じ判断を下すだろうと思いながら、小さく呟いた。
「そうだな……」
「フルーランシュから睨みをきかせていれば、王国軍も大軍で王都を攻めてはこれますまい」
シュナイダーの言葉は半分願望であった。
ディートハルトはしばし目を閉じ、やがて小さく息を吐いた。
「……すまない、シュナイダー。留守を頼む」
帝国軍の半数が王国を去る。
本来ならば、それは王国にとって歓喜すべき報せのはずだった。
だが、その帰還命令が、やがて王国までも大きな混乱へ巻き込むことになるとは、この時まだ誰一人知る由もなかった。




