第39話 孤狼の帰還
ベスティア領最大の都市フルーランシュ。
かつて王国の総督が政務を執っていた館は、今や帝国占領軍の司令部として接収され、その会議室には重苦しい沈黙が立ち込めていた。
以前の軍議では、王国からの亡命者であるエルム・クロウへ、生え抜きの将軍たちが容赦ない皮肉や嫌味を浴びせる光景が常であった。
だが、アルテール平原での手痛い敗戦は、彼らの心からそんな余裕を根こそぎ奪い去っていた。
約二万の兵を失い、宿将エルンスト・フォン・ベルクマンすら敗北を認めざるを得なかった今、会議室に響くのは互いを責める声ではなく、次にどう戦うべきかを模索する沈黙だけだった。
上座に座るベルクマンが、静かにエルム・クロウへ視線を向ける。
「マクシミリアンが負傷したそうだな」
「……はい。私の不徳の致すところです。申し訳ございません」
「いや、責めるつもりはない。で、容態は?」
「出血の多さに反して、幸いにも急所は外れていたようです。現在はフルーランシュの医療施設で治療を受け、容態は安定しております」
「そうか……」
ベルクマンが短く頷いた、その時だった。
ブルーノ・ザイデンだけは、いまだに敗戦の熱を冷ましきれずにいた。
アルテール平原で最も甚大な損害を被った彼は、敗戦の屈辱を未だ呑み込めず、その視線だけは鋭くエルム・クロウへ向けられていた。
「貴殿が中途半端な夜襲など仕掛けたせいで、セレスティーヌ軍とやらを前線へ押し上げるきっかけになったのではないか!?」
その一言で、会議室の空気が一気に張り詰めた。
だが、ベルクマンは軽く眉をひそめ、低い声でそれを制した。
「やめろ、ザイデン卿。敵の兵糧の大半を焼き払ったからこそ、敵軍はフルーランシュへの追撃を断念したのだ。そもそもセレスティーヌが前線へ出てきたとしても、我が軍の兵力が勝っていたことに変わりはない」
そこで一度言葉を区切り、ベルクマンは自嘲気味に続けた。
「私を含め、我々は純粋な実力で敗れたのだ。それは認めねばならん」
総大将であるベルクマンにそこまで言われては、ザイデンも反論の言葉を持たない。
これ以上の追及が見苦しい責任転嫁でしかないことは、本人が一番理解していた。
「くっ……」
ザイデンは苦々しく舌打ちすると、それ以上は固く口を閉ざした。
「では、今後の方針だが――」
ベルクマンが話を切り出そうとした、まさにその瞬間だった。
勢いよく扉が開き、一人の伝令が転がり込むように会議室へ飛び込んできた。
「一大事にございます!!」
血の気を失い、ガタガタと震える伝令の顔を見ただけで、その場の全員がただ事ではない異変を悟った。
「どうした」
ベルクマンの鋭い問いに、伝令は途切れ途切れの声で答えた。
「こ、皇帝陛下が……崩御されました」
「「なっ!?」」
会議室がどよめく。
いつも冷静なベルクマンですら、その声を震わせた。
「いったい……どういうことだ」
「昨日、にわかに胸の痛みを訴えて床に就かれ……今朝、そのまま息を引き取られたとのことです」
「宮廷の医師どもは何をやっていたのだ!」
ザイデンが机を叩いて怒鳴り散らす。
だが、その場でただ一人、まったく表情を変えない者がいた。エルム・クロウである。
「それで、皇位継承の件は決まっているのかしら?」
「お、お前……!」
ザイデンが目を剥く。
しかし、ベルクマンは静かに手を上げてザイデンを止めた。
「待て、ザイデン。彼女の言う通り、最も重要なことだ」
ベルクマンに促され、伝令は小さく首を横に振った。
「いえ……ベルトルト宰相の元へも、皇帝陛下の公式な遺言状は届いておりません」
「正式な遺言を残す時間すら、なかったということか……」
ベルクマンが苦渋をにじませて呟く。
「ただ……既に皇宮では皇后陛下が、実子である第二皇子マリウス殿下の即位を強く主張されているもようです」
重苦しい沈黙が再び会議室を包み込んだ
やがて、ベルクマンが低く口を開く。
「どちらにせよ、この本国の混乱を王国側に知られるわけにはいかん。我々は当面、この地を動かず現状維持を貫くべきか……」
だが伝令はさらに顔を曇らせた。
「それが……皇后陛下より、全軍に対して直ちに帝都へ帰還せよとの命令が下されております」
「王都を占領しているディートハルト卿の第一騎士団にもか?」
「おそらく……すべて、にございます」
その一言で、会議室から音が消えた。
純粋な軍人たちは、誰一人として言葉を発することができない。
帝国最大の危機は、王国ではなく――帝都で始まろうとしていることを。
◇
グランゼイド帝国北部国境を越えた先――フィオルヴェルデ王国領。
激しく雪が降りしきる中、帝国軍は国境砦を蹂躙していた。
外套を羽織った一人の男が、帝国兵を従え、砦の中を悠然と歩いている。
「ば、化け物め……っ!」
物陰から飛び出した数人の敗残兵が、一斉に男へと斬りかかった。
男は一歩も退かず、その全てを流れるような剣筋で斬り伏せた。
雪原に鮮血が散り、倒れた兵たちの呻きだけが響く。
その圧倒的な武を見せつけられたフィオルヴェルデの守備兵が、恐怖のあまり悲鳴を上げた。
「こ、降伏する! 命だけは見逃してくれ……!」
「……」
男は何も答えない。
次の瞬間、冷徹に振るわれた剣が、その兵の首筋を容赦なく断ち切った。
男は剣についた血を、冷たい雪へと一振りして払う。
「皆殺しにしろ。一人も生かすな」
「は、はっ!」
命令を受けた帝国兵たちは、弾かれたように慌てて散っていった。
男は煙を上げる砦を一瞥すると、退屈そうに呟いた。
「……実に退屈だな。あとは任せた」
何の感傷も抱くことなく砦を後にした彼の前へ、一頭の早馬が雪煙を巻き上げながら駆けてくる。
「ジークフリード皇子殿下! 皇子殿下はいらっしゃるか!」
「ここにいる。どうした?」
「帝都ライヒェンバッハから緊急の報せが届いております!」
「帝都からか……。今度はどこだ?」
「いえ、遠征の命ではございません! 皇帝陛下が……崩御されました!」
「……そうか」
「至急、帝都へ戻るようにとのことです」
ジークフリードは灰色の雪空を見上げ、小さく息を吐いた。
「退屈は終わりか」
「で、殿下!?」
「冗談だ。しかし義母上は、今頃第二皇子を担いで動いているはずだ。こんなに早く俺のもとへ報せが届くとは意外だな」
「はっ。正規の伝信竜によるものではございません。カシュタイン子爵から密かに届けられた報せです」
その名を聞いた瞬間、ジークフリードの声音がわずかに柔らかくなる。
「なるほど。先生からか」
懐かしむように目を細めたのも束の間、その眼差しはすぐ戦場の将へと戻った。
「この砦は放棄して構わん。全軍、これより帝都へ帰還するぞ」
「よろしいのですか?」
「必要になったら、またいつでも奪い取ればよい。そもそも、俺を帝都から遠ざけるための口実に過ぎん遠征地だ。いっそすべて叩き壊してしまっても構わんさ」
ジークフリードは馬へ跨ると、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば弟弟子は、面白い女と一緒にいると聞いたが」
「はっ。王国から亡命してきた者だと聞いています」
「一度会ってみたいものだな」
そう言って笑みを浮かべると、ジークフリードは手綱を引いた。
第一皇子直属軍は雪を蹴立てながら、帝都ライヒェンバッハへの帰路についた。




