第35話 王道
朝の冷たい空気を切り裂き、アルテール平原の前線へと向かって、セレスたちの本隊が猛烈な速度で駆け抜けていく。
激しい蹄の音が響く中、その正面からセレスティーヌ軍所属の伝令兵が馬を飛ばして近づいてきた。
伝令兵は手綱を引いて方向を変えると、セレスたちの軍馬の速度に合わせ、必死に併走しながら前線の最新戦況を叫んだ。
「――報告! 昨日、先行した紅蓮騎士団分隊らは、予定通り最右翼のエーベルバッハ子爵軍との合流を果たしております!」
「わかった。我が軍の本隊もこのまま右翼へと合流する。……他に前線の変わりは?」
手綱を握り、馬を並走させながらカイルが鋭く問いかける。
「は、それが……! 我らがエーベルバッハ子爵軍と対峙している帝国軍の左翼部隊ですが、ブルーノ・ザイデン将軍の第三騎士団から、宿将エルンスト・フォン・ベルクマン将軍の第二騎士団へと入れ替わりました!」
「――そう来たか」
伝令の言葉に、カイルは小さく眉をひそめた。
その様子に、馬上で揺られるセレスが不安の滲む横顔を向ける。
「大丈夫でしょうか……?」
「相手は今回の戦いで一番手強い宿将だ。我々が到着するまでは、フィリックスたちも苦戦を強いられるだろう。だが、あのベルクマン将軍を退ければ、戦況は一気にこちらへ傾く。急ごう、セレス」
「はい!」
セレスは強く頷き、愛馬の腹を蹴ってさらに速度を上げた。
◇
エーベルバッハ子爵軍は、完全に泥沼の苦戦を強いられていた。
前日の戦闘でザイデン将軍率いる第三騎士団の猛攻を受け、すでに千名近い兵力を失っていた。カイルたちが差し向けた紅蓮騎士団の分隊が合流したことで、総兵力としては辛うじて一万以上を維持している。
対するベルクマン第二騎士団は、一万二千の健在な兵力をほぼ無傷で残していた。
数だけの比較なら、いまだほぼ互角。しかし、最前線にそびえ立つ一人の怪物の存在が、その天秤を大きく傾けていた。
鉄砕のドルクハルト・イェーガー。
彼が振るう大剣の前に、王国軍の兵士たちは文字通り塵のように吹き飛ばされていく。ドルクハルト個人が放つ圧倒的な「武」の熱狂は味方の帝国兵を奮い立たせ、逆に王国軍の兵士たちには、逃れられぬ死の恐怖として急速に伝染していった。
「くそっ、なんなんだ、あの熊みてえな野郎は! なんとかしねえと、前線から一気に崩れるぞ!」
遠目で戦場を蹂躙する大躯を睨みつけ、フェリックスが忌々しげに吐き捨てた。
フェリックス率いる紅蓮騎士団は、本来なら苛烈な「初撃」と「追撃」でこそ真価を発揮する強襲部隊だ。しかし、この乱戦の中ではルーク率いるアルクリーズ兵と協力し、泥臭い防戦を強いられる展開となっていた。
「おいルーク、いっちょ俺が仕掛けてくるわ」
長斧槍を担ぎ直そうとしたフェリックスの肩を、ルークが慌てて掴んだ。
「お待ちください、フェリックス殿! あれは……『鉄砕のドルクハルト』です。真正面からぶつかるのは無謀すぎます!」
「――なるほどな、あいつが……」
フェリックスの動きが一瞬、ピタリと止まった。
帝国内でも鳴り響くその悪名を知らぬわけではない。だが、フェリックスはすぐに不敵な笑みを浮かべ、ルークの手を優しく撥ね退けた。
「しかし、味方が無駄に殺されていくのを、黙って見てられるほど俺の気性は優しくねえんだわ!」
フェリックスは愛用の長斧槍を鋭く突き出し、群がる帝国兵の胸を貫き、返す刃で横一線に薙ぎ払った。返り血を浴びながら、一直線に怪物の元へと突き進む。
「ほう。少しは骨のある奴が残っていたか」
迫り来るフェリックスの気配を察し、ドルクハルトが血塗れの大剣を肩に担ぎながら、獰猛な笑みを浮かべた。
「おい、熊野郎! 俺はセレスティーヌ軍紅蓮騎士団団長、フェリックス・フォン・ダミアンだ! その首、俺が貰い受ける。勝負願おうじゃねえか!」
「セレスティーヌ軍、か……面白い。おい、お前たち、手出しは無用だ」
ドルクハルトが低く咆え背後の帝国兵を制すと、周囲の兵たちは一斉に距離を取った。
本来の戦場であれば、数の暴力を以て確実に敵の将を討ち取るのが兵法の定石である。しかし、戦場には稀に、理屈を超えた「個の武」が空間を支配する瞬間がある。
ドルクハルトとフェリックス、二人の強者が放つ独特な殺気の渦に呑まれ、敵味方の兵士たちは武器を構えたまま、息を呑んでその一騎打ちを見守るしかなかった。
(大剣か。リーチは俺の方が上だ。先手必勝!)
フェリックスは心の中で吠えると同時に地を蹴った。その自慢の長斧槍から、目にも留まらぬ鋭い突きが炸裂する。
だが、ドルクハルトは微動だにせず、巨大な黒鉄の大剣を盾のように傾けてその一撃を受け流した。
「そうするのはわかってんだよ!」
フェリックスは即座に槍を引き戻すと、流れるようなフェイントから、がら空きになったドルクハルトの脇腹へと刃を滑らせる。確実に捉えた――そう確信した瞬間、強烈な金属音が戦場に響き渡った。
火花が散る。大剣の腹が、完全にフェリックスの刃を拒んでいた。
(……見切っただと!?)
驚愕に目を見開くフェリックスを見下ろし、ドルクハルトが不敵に口元を歪める。
「いい腕だな、若造」
直後、暴風のような袈裟切りがフェリックスを襲った。
かろうじて長斧槍の柄で受け止めたものの、信じられないほどの質量が腕を襲う。悲鳴を上げる大木のように、自慢の得物の柄が中央から真っ二つに叩き割られた。
「さらばだ」
武器を失い、完全に体勢を崩したフェリックスの頭上へ、ドルクハルトが容赦なく大剣を振り下ろす。死の影がフェリックスの眼前に迫った、その時だった。
「フェリックス殿!!!」
狂気的な金属音が再び弾けた。
横から決死の覚悟で飛び込んできたルークの剣が、ドルクハルトの凶刃を辛うじて弾き、フェリックスの命を繋ぎ止める。
ドルクハルトは、割り込んできたルークを酷薄な瞳で見下ろした。
「なんだ。一騎打ちではなかったのか?」
「くッ……!」
大剣から伝わる圧倒的な重圧に押し潰されそうになりながら、ルークは歯を食いしばって剣を支え続けるしかなかった。
「つまらん、興が覚めたな。セレスティーヌ軍の将と思い期待したが、結局はその程度か」
吐き捨てるように言うと、ドルクハルトはさらに腕の力を込める。大剣を押さえているルークの剣がじりじりと顔に近づいていく。
「フェリックス殿! ここは一度退きましょう!」
限界を察したルークが悲痛な声を張り上げる。
その様子を冷ややかに見つめていたドルクハルトは、ふっと大剣を引き、退屈そうに首を振った。
「なんだ、もう終わりか。では、俺も付き合うのをやめにしよう。――皆の者、こ奴ら全員すり潰せ 」
ドルクハルトの号令が下された瞬間、周囲を取り囲んでいた帝国兵が一斉に武器を構え、地を蹴った。帝国軍の勢いに呑まれかけた、まさにその時だった。
「――待ちなさい!」
凛とした女性の声が戦場に響き渡った。
猛烈な勢いで土煙を巻き上げながら、白銀の鎧と深紅の外套をまとった女性に率いられた一団が前線へと突入してくる。セレスたちの本隊が、ついに間に合ったのだ。
愛馬の足を止め、戦況を鋭く見据えた少女は、大剣を携える巨漢へと真っ直ぐに視線を向けた。
「帝国軍ベルクマン第二騎士団所属、ドルクハルト・イェーガー殿とお見受けします」
ドルクハルトは、突如現れたその美しい闖入者を興味深げに見つめ返した。
「いかにも。……貴殿は?」
「私はセレスティーヌ軍軍団長、セレスティーヌ・フォン・ランカスター。――『銀光のセレスティーヌ』です」
名乗られたその名に、ドルクハルトは小さく笑みをこぼした。
「ほう、女軍団長とは聞いていたが、まさかこのようにあどけない少女だったとはな」
大物然としたその態度に気後れすることなく、セレスは手綱を握る手に力を込め、毅然と言い放った。
「不服ですか?」
「いや」
ドルクハルトは血塗れの大剣を再び肩に担ぎ直し、獰猛な瞳を細めた。
「戦場に来たからには、老若男女など関係ない。ただ、どちらが強いか。それだけだ」
敵の圧力を正面から受け止めながら、セレスは白銀の愛刀を天高く引き抜いた。
「『鉄砕のドルクハルト』殿! ――私と一騎打ちを所望します!」
ドルクハルトの口元が、愉悦に歪む。
「……よかろう」
その光景をすぐ後ろで見ていたカイルは、内心で冷静に戦況を計算していた。
(さすがだセレス。一騎打ちを申し出るとは、これは好都合だ。その間にエレフィン弓兵隊のピンポイント攻撃でドルクハルトを無力化できる)
カイルは首を巡らせ、側に控えるエミールに声を潜めて命じた。
「エミール、ルナたちエレフィン弓兵隊をすぐに呼んでこい。ドルクハルトの死角から一斉に射掛けさせる」
激しい戦塵の音に紛れたその指示が、聞こえたわけではなかっただろう。しかし、背後で動こうとするカイルの意図を察したように、セレスは前を向いたまま鋭い声を飛ばした。
「カイル! 手出しは絶対に許しません!」
「おい! セレス!」
カイルは思わず声を荒らげ、馬を一歩進めた。
「今まで俺が教えてきたことを忘れたのか! 戦場では、どんな手段を使ってでも勝つことこそが最重要なのだ。ここでまた、あの戦女神を演じるつもりか!?」
だが、セレスは振り返らなかった。凛と背筋を伸ばしたまま、静かだが確固たる 意志の籠もった声を返す。
「――わかっています。でもカイル。その『勝利のための手段』を、私が選んではいけないのでしょうか?」
「……!!」
カイルは息を呑み、言葉を失った。
勝利という目的のために、手段を選ばない冷徹さを教えたのは自分だ。しかしセレスは、その卑怯な手段を拒み、自らの命を懸けた一騎打ちという「手段」を軍団長として選択した。
動けないカイルの隣に、もう一騎の軍馬が並ぶ。副官のミリアだった。
漆黒の髪を風に揺らしながら、彼女は戦場を見据えたままカイルに声をかけた。
「カイル。貴方、セレスの治める国を作りたいって言ったわね?」
「ああ、そうだ! だからこそ、こんなところで彼女を失うわけにはいかないだろう!!」
カイルが焦燥を滲ませて声を荒らげる。
しかし、ミリアは表情を変えず、本質を射抜くような言葉を静かに突きつけた。
「それはセレス様の国なの? ――それとも、貴方の国じゃなくて?」
「っ……」
胸元を鋭利な刃で刺されたような衝撃が、カイルを襲った。動揺を打ち消すように、カイルは隣の女騎士を鋭く睨みつける。
「ミリア! お前は平気なのか!? セレスに命を捧げたと、そう誓ったのではないのか!」
「その通りよ」
「では、なぜだ! セレスの剣技は確かに天才的だ。だが、お前だっていくつもの戦場を駆け抜けてきたから分かるはずだ。あのドルクハルトの『武』は別物だ。まともに戦えば、セレスに勝ち目はないぞ!」
必死の説得を試みるカイルに対し、ミリアはすぐに言葉を返さなかった。
ただ、その横顔を見たカイルは息を呑む。ミリアは、自身の唇を肉がちぎれんばかりに強く噛みしめ、そこから一筋の鮮血を流していた。彼女とて、恐怖と狂おしいほどの葛藤に身を焼かれているのだ。
滲む血を拭いもせず、ミリアは張り裂けそうな声を絞り出した。
「分かってるわよ……そんなこと、言われなくたって分かってるわ! でもね、カイル。貴方のそのやり方で、生き残ったセレス様は……それはもう、私たちのセレス様ではないわ」
「ミリア……」
「セレス様をただの飾り物の女王にするつもり? 彼女の心を殺して生き残らせることが、貴方の言う『国を作る』ってことなの?」
叩きつけられたミリアの魂の叫びに、カイルは今度こそ完全に突き動かされ、手綱を握る手が小刻みに震え始めた。
その張り詰めた沈黙を切り裂くように、正面の怪物が低く地響きのような声を放った。
「セレスティーヌ・フォン・ランカスター殿。貴公が良ければ 、馬から降りて身一つで勝負せぬか?」
ドルクハルトは、乗っていた軍馬の背から音もなく飛び降りた。その巨躯が地面に降り立つと、それだけで周囲の空気が重くなったかのような錯覚さえ覚える。
セレスは迷うことなく、しなやかな動作で愛馬から地上へと降り立った。
白銀の鎧を朝の光に輝かせ、ドルクハルトと対峙する。
「ドルクハルト殿、わかりました。そのほうが、互いの真の実力が測れますから」
手綱から手を離し、白銀の愛刀を改めて両手で正しく構え直す。
もはや、カイルが裏から手を回す余地はなかった。敵味方すべての兵士が見守る中、平原の真ん中で、二人の命を懸けた間合いが急速に狭まっていく。




