第2話 虚像の少女
セレスティーヌは、幼い頃から変わっていた。
五歳の時。
他の貴族令嬢たちが花を摘み、刺繍を楽しむ中。
彼女だけは、父親の書庫に忍び込んでいた。
胸に抱いていたのは、古ぼけた革装丁の本。
それは『聖女将軍ヒルデガルドの生涯』――。
百年前、この国を救った伝説の英雄の伝記だった。
「お父様」
六歳のセレスが尋ねた。
「ヒルデガルド将軍は、本当に戦女神の生まれ変わりなのですか?」
ランカスター公爵は、娘の小さな頭を優しく撫でた。
「そうだとも。舞うように駆ける馬上での姿は神々しく、彼女の進軍は敵の士気を砕き、戦場では奇跡が起きたという」
「わたしもなりたい」
彼女は熱っぽく言った。
「ヒルデガルドみたいになりたいの!」
「お前は公爵家の女の子だぞ」
公爵は苦笑した。
「貴婦人になってくれれば、それでよいのだ」
しかし、セレスの願いは消えなかった。
七歳にして剣の稽古を始め。
十歳で騎士見習いと互角に戦うまでに成長した。
母親が病で亡くなった、十二歳の冬。
彼女は決断した。
「お父様、士官学校に行かせてください」
「馬鹿なことを!」
公爵は激怒した。
「公爵家の令嬢が軍人に? ありえない!」
「ですが母上は言っていました。『自分の道を選ぶ自由を持ちなさい』と」
公爵は沈黙の中で、妻の言葉と娘の瞳に宿る意志を天秤にかけた。
「……わかった。好きにするがいい」
これ以降、公爵が彼女を遮ることは二度となかった。
だが、それは父としての譲歩ではない。
公爵の眼裏では、娘の放つ熱き意志さえもが。
家名を高めるための『駒』へと書き換えられていた。
翌年の春。
セレスティーヌは、国内最難関の王立士官学校に入学した。
規定の年齢に達する前での、特例の入学。
公爵家令嬢という特別扱いは、そこには一切存在しない。
男子学生と同じ、泥にまみれる厳しい訓練。
しかし、彼女の才能はすぐに開花した。
座学は常にトップクラス。
実技でも抜群の運動神経を発揮し、三年次には剣術大会で男子学生をことごとく打ち破った。
美しい銀の髪をなびかせ、圧倒的な剣技を見せつける彼女。
いつしか周囲は、畏怖を込めてこう呼ぶようになった。
――『銀閃のセレスティーヌ』。
同級生たちは、惜しみない称賛を送った。
「君は天才だ」
しかし、彼女の心は別のところにあった。
講堂の壁に飾られた、大きな肖像画。
白銀の鎧を纏い、深紅の外套を翻す一人の女性――。
伝説の英雄、ヒルデガルド・フォン・シーデルランド。
一介の騎士から伯爵にまで登り詰めた、彼女の憧れだ。
「聖女将軍……」
セレスは、いつもその前で立ち止まった。
「私も、あんな風になりたい」
しかし、指揮官としての彼女の才覚は、あまりに不自然な勝利の上に成り立っていた。
部隊演習で、セレスは一度も負けなかった。
卒業年度の大演習でも、見事な優勝を飾った。
だが、もし戦いを知る者が注視していれば、気づいたはずだ。
対戦相手の動きはなぜか鈍く、その戦術も、あまりに単調なものばかりであったことに。
十七歳の夏。
彼女は士官学校を首席で卒業した。
通常なら小隊長か、家柄を考慮しても中隊付の副官として経験を積むのが通例であった。
だが、セレスティーヌだけは『完全なる例外』だった。
「セレスティーヌ・フォン・ランカスター。お前を聖騎士団長に任命する」
国王の言葉が響いた瞬間、会場は割れんばかりの歓声に包まれた。
女性初。
王立士官学校、首席卒業。
凛々しくも麗しき公爵令嬢。
そして――史上最年少での、聖騎士団長就任。
並べ立てられた輝かしい肩書きの数々に、人々は熱狂し、新たな英雄の誕生を確信した。
当然、ランカスター公爵による根回しの結果であった。
加えて公爵は高名な画家に、娘の肖像を何枚も描かせた。
それらは各地に掲示され、民衆の目に焼き付いていく。
峻烈な剣撃で敵陣を切り裂き、降り注ぐ矢を剣の一閃で叩き落とすセレスの勇姿。
一度も経験したことのない「大勝利の場面」が、事実として塗り替えられていく。
公爵家としての役割分担も、すでに父によって決められていた。
一つ下の妹、ルチアが社交界で姉の不在を埋める。
「舞踏会より戦場が好きなんて、お姉様は変わっているわ」
十四歳のルチアは、大人びた口調でそう言った。
セレスは、自分の代わりに社交を担ってくれる妹に感謝した。
聖騎士団長としての日々が始まると、セレスは国民の期待を一身に背負うこととなった。
実戦経験ゼロの少女。
しかし街に出れば、人々は彼女を「現代の戦女神」と讃える。
そして残酷なことに。
セレス自身もまた、その虚飾を疑うことはなかった。
事の発端は、一か月前に遡る。
北東国境で帝国軍の大規模な侵攻が確認されたのだ。
王国主力は五万の兵を挙げて、国境付近のベスティア領へ防衛に向かった。
「セレスティーヌ」
ランカスター公爵は、厳かな声で呼びかけた。
「お前は王都防衛の任に就け」
「……ですが、父上」
セレスは食い下がった。
「私は主戦場へ行くべきではありませんか?」
「いや」
公爵の目には、暗い光が宿っていた。
「これは王命だ。王都には老弱の兵と女子供が多い。それを守るのが、お前の使命だ」
公爵は考えていた。
娘を危険な最前線から遠ざけつつ、『王都防衛』という華々しい肩書きを与えれば家名の名声を保てる。
なにより、建国以来、王都が敵に攻められたことなど一度もない。
実戦など、まず起きないだろう――と。
「……承知いたしました。最前線でこそ我が剣を振るうべきと考えておりましたが、戦えぬ者たちを守るのも真の騎士の務め。その命、謹んでお受けいたします」
しかし。
公爵の計算は、脆くも崩れ去ることになる。
帝国軍は主力が国境を押し上げる裏で、一万程の兵を密かに西方から迂回させていたのだ。
「国王陛下!」
内務卿の報せは、あまりにも衝撃的だった。
「帝国別動隊が、王都西側のウィンドル平原に接近中との報告が……!」
宮廷は、一瞬で騒然となった。
首都防衛軍に残っているのは、予備役の老兵と、訓練を始めたばかりの新兵のみ。
唯一、戦力として頼れるのは――セレスティーヌ率いる聖騎士団、一万二千のみであった。
「戦女神のご加護があらんことを!」
市民は、彼女に全ての希望を託した。
王都ローゼリアは、構造的に籠城には向いていない。
さらに聖騎士団は騎兵が中心だ。城に閉じこもるより、平原で機動力を生かす方が理にかなっていた。
国王から下されたのは、野戦による迎撃命令。
もはや、ランカスター公爵にはその王命に従う以外の道は残されていなかった。
王都の戴冠式広場には、隙間もないほどの民衆が集まっていた。
「セレスティーヌ様なら、必ず守ってくれるはずだ!」
「まさに聖女将軍様、いや、戦女神の再来だ!」
浴びせられる声。
少女はその期待の重みに震えながらも、同時に、胸の奥で熱い使命感を燃やした。
「皆様に約束します。この私が、必ずや王都を守り抜いてみせましょう!」
地を揺らすような喝采が沸き起こる。
その光景はまさに、幼い日に憧れた『伝記』のワンシーンそのものだった。
――しかし、今。
王都郊外の薄暗い野営地で、セレスティーヌは泥と血にまみれ、絶望に打ちひしがれていた。




