第1話 王都陥落
王都の西、ウィンドル平原は薄い朝靄に包まれていた。
風一つない静寂の中、一万二千のローゼンベルク王国軍が整然と隊列を組み、西へ向けて陣を構えていた。
黒髪の女性士官が、馬上から隣の少女へと話しかけた。
「セレス様。遂に初陣ですね。緊張しておられますか?」
「ええ、少し」
白銀の鎧と深紅の外套をまとった少女は、馬上で小さく返事をした。
腰まで流れる銀髪が朝日にきらめき、蒼い瞳は真っすぐ前だけを見据えている。
その少女の名はセレスティーヌ・フォン・ランカスター。
半年前、王国史上最年少で聖騎士団長に就任したばかりだった。
そして十八歳の誕生日を迎えたばかりの彼女の姿は、まるで神話に出てくる戦女神のように見えた。
セレスは黒髪の女性士官に尋ねた。
「ミリア、帝国軍の兵数は一万という報告でしたね」
ミリアと呼ばれた聖騎士団の副官が答える。
「はい。率いる総大将は勇猛で知られる帝国軍第一騎士団ディートハルト将軍とのことです」
遠くに、第一騎士団の黒い帝国旗が揺らめいている。
セレスはその旗を見つめ、静かに息を吸った。
「わかりました。では、いきましょうか……」
そして、澄んだ声が戦場に響き渡った。
「全軍、前進開始!」
号令とともに、一万二千の軍勢が動き出す。
無数の蹄が大地を踏み鳴らし、地響きが平原を震わせた。
ローゼンベルク王国軍とグランゼイド帝国軍。
双方の距離がじわりじわりと近づいていく。
ミリアが声を上げた。
「敵が来ます!」
「ええ、わかっています。士気が高い我が軍が負けるはずはありません」
セレスの声には、わずかな逸りがあった。
それを察したミリアが、諭すように続けた。
「兵力はこちらが勝っています。ここは無理をせず、厚みを持たせた陣形であたり、敵の動きを探りましょう」
セレスは副官の助言を受け流した。
「いえ、ここは正々堂々と中央突破をします。私は士官学校時代、演習で無敗だったのです」
「セレス様、実戦は演習と違います。それに、敗れれば王都は丸裸になります。失敗は許されないのです」
セレスは振り返り、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「そんなに心配しなくても大丈夫です、ミリア。戦女神の導きが、私たちに勝利をもたらしてくれます。さあ、今こそ正義を成しに行きましょう!」
その揺るぎない笑顔に、ミリアは一抹の不安を拭えなかった。
「お待ち下さい。セレス様」
セレスは白銀の剣を高く掲げながら叫んだ。
「突撃!」
号令と共に、中央の騎馬隊が一気に駆け出した。
『銀光』の異名を持つセレスの剣技は凄まじく、目の前の帝国兵を次々と倒していく。
その武勇に、味方の兵士たちの士気は跳ね上がる。
「セレス様へ続け! 帝国軍を蹂躙せよ!!」
セレスの騎兵部隊の後ろに続く兵士の一人が叫んだ。
王国軍の突撃は瞬く間に敵の前衛を食い破った。半刻が経過しても進撃は止まらず、敵の防衛線は紙切れのように引き裂かれていく。
「勝てる……! 我らが聖騎士団の敵ではない!」
「このまま本陣まで突き進め!」
兵士たちの間から、そんな声が次々と上がる。
歓声を上げ、盲目的に敵を追う兵士たちの後ろで、ミリアはセレスの剣技に感心すると同時に、嫌な予感を覚えていた。
(おかしい……あのディートハルト将軍が率いる帝国軍の中央が、ここまで脆く崩れるはずがない)
ミリアは戦場全体を見渡した。
よく見れば、敵の陣形は崩壊しているのではなく、一定の距離を保ちながらきれいに後退している。
(それに、もう半刻近く戦っているのに、敵の抵抗が最初から変わらない)
まるで、こちらの勢いを利用しているかのようだった。
ハッとしてミリアが左右の戦線、その遥か向こうへと視線を走らせた瞬間、血の気が引いた。
帝国軍の左右の部隊が、じわじわと前進しながら大きく回り込もうとしていた。
(罠だ……! 中央で深く引きずり込み、左右から包囲するつもりだ!)
だが王国軍はさらに速度を上げ、敵陣の奥深くへと突き進んでいく。前線から届く勝鬨に、後方の兵たちも勝利を確信していた。
「待ちなさい! 全軍止まって! 左右を見なさい、包囲されつつあるわ!」
ミリアが喉を潰さんばかりに叫ぶ。だが勢いに乗ったセレスたちの耳に、その声は届かない。
前線で悲鳴が上がった。
突出した部隊に対し、敵が左右から挟撃を開始する。横合いから突き立てられる槍、容赦なく振り下ろされる斧。逃げ場を失った騎士たちが、次々と泥の中に沈んでいく。
「退け! 突出した部隊から順に後退させて!」
指示は届かず、混乱した兵士たちが同士討ち寸前の混雑を生む。馬を失った騎士が徒歩で敵中を彷徨い、次々と斬り倒されていく。
(このままでは、ここで全滅する……!)
ミリアは即座に決断した。
「全軍、突入! 混戦に引きずり込んで!」
後方に残っていた部隊を一斉に押し上げ、勝利を捨ててあえて戦場を混戦に陥らせる。その隙を突き、馬を飛ばしてセレスの元へ駆け寄った。
「王都西門まで退いて迎撃しましょう。このままでは囲まれます!」
セレスは呆然と立ち尽くしていた。白銀の鎧は返り血を浴び、顔は紙のように蒼白だ。
「なぜ……なぜこのようなことになったの? 戦女神の加護は……?」
「セレス様。ご無礼を!」
ミリアの掌が、セレスの頬を強く引っ叩いた。
「いい加減、目を覚ましてください。周囲の現実に目を向けてください!」
弾かれたように顔を上げたセレスの瞳に、残酷な光景が映る。帝国軍に蹂躙される聖騎士団。「助けて」と手を伸ばした兵士が、敵の馬に踏みつぶされる。
「王都西門まで退きます。良いですね?」
セレスは、もはや言葉を返すことさえできず、ただ無言で深く頷いた。
◇
王都西門まで後退した聖騎士団だったが、そこに安息はなかった。
「敵を王都に入れないで!」
ミリアが叫ぶ。しかし、その命令は空しく響くだけだった。聖騎士団の兵たちは完全に士気を失っていた。
逃げ惑う市民。燃え上がる街並み。帝国軍の騎兵が濁流のように王都へとなだれ込んでいく。
「王都内に敵が……!」
ようやく我に返ったセレスが、小さく呟いた。
ローゼンベルク王国建国以来、一度たりとも許さなかった外敵の侵入だった。
出立時に彼女を送り出した輝かしい歓声は、今や逃げ場を失った人々の悲鳴へと変わっていた。
「セレス様! お逃げください!」
セレスは襲い来る帝国兵を次々と斬り伏せる。だがそれは、広大な火災に水を撒くような、絶望的な抵抗でしかなかった。
「まだです! 私は王都を守る聖騎士団長なのです!」
「今は生きて撤退することが最優先です!」
ふと路地へ目を向けると、帝国兵に襲われる市民の姿があった。セレスは反射的に敵兵を斬り伏せ、倒れた人々へ駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
返事はない。重なり合うように横たわる人々は、苦悶に歪んだまま白く冷え切っていた。その濁った瞳が、なぜだか自分を責めるように映った。
(……ごめんなさい)
崩れ落ちそうな主君の姿を見て、ミリアは決意を込めて声を張り上げた。
「聖騎士団、一旦王都を離れるわよ! ――生き残って再起を図りなさい!」
残存兵とセレスを引き連れ、王都を脱出した。帝国軍は追撃せず、王都の占領へと向かっていた。
◇
夕闇が平原を包み込む頃、一行は王都近郊、南の森へと逃げ込み、急造の野営地を張った。
残存兵力は僅か三千。その大半が負傷しており、木々の間には呻き声だけが低く響いている。
焚き火の音だけが聞こえる、静まり返った夜。
炎に照らされた漆黒の髪を揺らしながら、ミリアは、地面をじっと見つめ続けるセレスの傍らに立った。
「なぜ、私の進言を退けてまで、中央突破を選んだのですか?」
セレスは顔を上げなかった。
「……私は、ヒルデガルドのようになりたかった……」
戦女神の生まれ変わりと言われた、百年前の英雄『聖女将軍ヒルデガルド』。
その名を呟いた少女の肩は、夜露のせいか、それとも深い後悔のせいか、小さく震えていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、虚飾の少女セレスティーヌが、徹底した現実主義の軍師カイルに導かれ、「本物の将」へと脱皮していく骨太な本格戦記ファンタジーです。
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この物語は、じっくりと積み重ねる構成でお届けしていますので、一気読みしていただくと、より楽しんでいただけるかもしれません。




