act.59 エルフの姉と、甘い香りの誘惑
「マスター、そろそろ約束の時刻でございます」
数回のノックの後、マキナの声が聞こえる。それほどまでに集中していたのか、いつの間にかエーミールとの約束の時間が迫っていたようだ。
「ああ、すぐに行く」
宿は一応三日先まで借りてはいるが、荷物を残すのはさすがに不用心だろう。それにかさばるような大荷物があるわけでもないので、身支度にも時間はかからない。ひとしきりの準備をした後、そう言えばさっきの騒動はどうなったかと、窓から外を見下ろす。
どうやら騒動の主はすでにいなくなっているようだ。見える範囲では、出店の準備をしている店主らしき男と、宿屋に向かって歩いてくる白衣を着た人影が見えるだけである。
「エーミールか?」
白衣が目につき、真っ先に彼を連想させたが、おそらくそうではない。なぜならその影の背格好は、イグナールたちとそう変わらないように見えるからだ。だが、エーミールの関係者であることは間違いないだろう。
イグナールは部屋を出て、待機していたマキナと合流し、階段を下りた。
宿の外に出ると、モニカとヴィクトリアがすでに準備を整え、待っていた。彼女たちを取り囲んでいた男たちは、さすがにもういない。宿屋前の通りを軽く見渡してみるが、エーミールの姿はまだない。
「エーミールはまだのようじゃのう」
「ああ、そうみたいだな」
そこで先程二階の窓から見えた白衣の人物を発見する。遠目で気が付かなかったが、どうやら女性であり、エーミール同様に長く尖った耳の存在からエルフのようだ。彼女は忙しなくキョロキョロと辺りを見回し、何かを探しているように見える。
「すみません」
おそらくエーミールの関係者であろう彼女に声を掛ける。もしも全くの人違いだった場合、少し恥ずかしいことになるが、彼女の特徴からしてそんなことにはならないだろう。
「え、は、はい……」
近くで見るエルフの彼女はエーミールとよく似ている。きっと淡いエメラルドを思わせる髪色がそうさせているのだろう。だが、短く切り揃えられていた彼とは対照的に腰まで届くほどに長く、あまり手入れされていないのか、いたる所で髪が跳ねている。伸ばしているというよりも、ただ自然の成り行きに任せて勝手に伸びているという印象の方が強い。
髪同様の色をした目はたれ目がちで、おっとりした優しい雰囲気を漂わせている。さらにそんな印象を強める大きな柔らかそうな山……イグナールは非常に失礼だと思い目を逸らそうと努力はするが、吸い込まれるように視線が集中してしまう。
(これでは昨日の輩共と変わらないではないか……)
ただ声を掛けただけなのに、少し怯えた挙動の彼女に尻込みするイグナール。先程まで凝視してしまっていたことも相まって、謎の罪悪感が生まれてくる。
「俺たちはここでエーミールとの約束をしていた者なんだが……エーミールの知り合いかな?」
端々に幼さを残した彼女――部分的には十二分に大人なのだが――は、エルフの中では少女かもしれないが、人間で言うならばイグナールたちの倍以上は生きているに違いない。なので、彼女のこの態度は子供特有の人見知りではなく、引っ込み思案な性格ということなのだろう。
「は、はい……私は……エーミールの姉の、えっと……リーダルトです!」
まるで勇気を振り絞ったと言わんばかりの精一杯な自己紹介。初めて近くで見たとき、どことなくエーミールに似ていると感じたのは同じエルフだからと思ったのだが、なるほど姉弟ならば納得である。しかし、内面の方は弟とは正反対だな、とイグナールは思った。
「それでリーダルトさん、エーミールはまだ来てないのかな?」
「えっと、私は先に寄る所があったので、エーミールには先に行ってもらったのですが……まだ着いていないようで、探していたのです」
モニカが優しく話しかけると、リーダルトの緊張が少し解けたのか、先程までのオドオドとした態度が随分とマシになっている。もしかすると男であるイグナールだから、あんな態度になってしまったのだろうか。女性に好まれるとは言わないが、少なくとも悪漢には見えない容姿はしていると思うのだが……今度モニカに聞いてみようとイグナールは考える。
「俺が部屋から外を覗いたときは見当たらなかったな……そうだ」
イグナールは窓から見たとき、出店の準備をしていた店主のことを思い出した。彼が準備をしていた出店からは、今や美味しそうな匂いが漂い、どこからともなく出てきた人々に囲まれつつある。
「すみません」
店の近くまで寄り、店主に話しかける。
「はいよ! 食後に、おやつに、甘ーいパイはいかがかね?」
どうやら店主はどこかしらの店からここまで、パイの出張販売をしに来ているらしい。店に近づくことによって甘いパイの香りが鼻腔をくすぐる。朝にたらふく食べたため腹は減っていないはずなのだが、イグナールの腹の虫が「パイを寄越せ」と叫びだす。
後ろを向くと、マキナを除く女性陣も、腹の虫にせっつかれたのかパイを欲しいと目で訴えかけている。これはしょうがない、店主から話を聞くのならパイを買わないのは失礼にあたるだろう。
そんな大義名分を頭に浮かべ、切り分けられたパイを四つ貰った。甘味とは人を惑わせる魔性のアイテムである。
読んで頂きありがとうございます!
この作品を「良かった!」「続きが気になる!」と思ってくださった読者様は
ブックマーク登録や下にある『☆☆☆☆☆』を『★★★★★』に評価して下さると励みになります!




