第3話 名門の失敗作
王都には、人を褒めるための庭と、人を値踏みするための庭がある。
アルヴァイン家の王都屋敷にある槍庭は、後者だった。
白砂を敷いた楕円の稽古場。周囲には低い石段があり、見物人が座れるようになっている。壁際には季節外れの白薔薇が植えられ、槍掛けには儀礼用の長槍が等間隔に並んでいた。
美しい庭だった。
つまり、失敗した人間がとても目立つ場所だった。
レオンは白槍を手に、庭の中央へ進んだ。
昨日の稽古で肩に入った痛みは、まだ残っている。手首も少し重い。だが、そんなものは表に出せない。今日は弔問の延長として開かれた、若手貴族たちとの「慰問稽古」だった。
慰問。
便利な言葉だ。
父を亡くしたばかりの次期当主を励ます名目で、実際には、白槍公の息子がどれほどのものかを見る。優しさの皮をかぶった査定。貴族社会というのは、だいたい包装紙から腐っている。
「レオン様。本日は無理をなさらず」
エドウィン師範が横に立ち、穏やかに言った。
「いえ、父の名を継ぐ者として、皆様のお心遣いに応えたいと思います」
レオンは丁寧に微笑んだ。
石段には、数人の若い貴族が座っている。いずれも騎士家や武門貴族の子息たちだ。昨日の葬儀では泣きそうな顔をしていた連中が、今日は生き生きとしている。人間、他人の未熟を見る時だけ妙に健康になる。
その中央に、ユーリス・バルトレイがいた。
長身で、金髪。王都槍術院の若き秀才。父親は東部の大貴族で、本人もすでにいくつかの試合で名を上げている。きれいな顔に、きれいな長槍。なるほど、世間が好きそうな若者だった。腹立たしいほど分かりやすい。
ユーリスは立ち上がり、優雅に礼をした。
「白槍公のご子息と手合わせできるとは、光栄です」
「こちらこそ、バルトレイ卿。未熟な身ですが、胸をお借りします」
「どうぞ、お気になさらず。今日の場は、あくまで慰問ですから」
言葉は丁寧だった。
目は笑っていた。
ガルドは壁際に立っている。ニナは槍掛けの近くで、予備の木槍を持っていた。表向きは道具係。実際には、彼女の目だけがレオンの足元を見ている。
ユーリスは訓練用の長槍を取った。
長い。
まっすぐ。
美しい。
白砂の庭によく映える槍だった。
一方で、レオンの白槍は短い。刃も細い。庭の中央に出ると、余計に頼りなく見えた。
石段の上で、誰かが小さく笑った。
「本当に、あれが白槍公の槍か?」
「思ったより短いな」
「手槍ではないか。決闘には不向きだろう」
「白槍公は、あれでどう戦っておられたのだ?」
聞こえている。
聞こえているが、聞こえていない顔をする。
それも貴族の仕事だ。耳を腐らせずに腐った言葉を流す技術。白槍流より難しいかもしれない。何の役にも立たないが。
「では、一本」
エドウィンが合図した。
ユーリスが構える。
白槍流とは別系統の、王都槍術院式。長槍を大きく使い、間合いで圧する型だ。姿勢は高く、踏み込みは深い。穂先が、まっすぐレオンの喉元へ向けられる。
レオンは父の型で構えた。
背筋を伸ばす。
穂先を相手の胸へ。
左足を半歩引く。
白槍流の基本。
違和感が、もう笑えるほどはっきりしている。
短い。
やはり短い。
ユーリスの長槍はこちらに届く。こちらの槍はまだ届かない。父の型で正面から構えれば、こちらだけが不利になる。
では、足を沈めればいい。
祖父の足。
白砂を擦る低い動き。
昨日の夜、体が勝手に取った姿勢。
レオンの足が、わずかに下がりかける。
だが、止めた。
ここで使うな。
ここは王都の庭だ。石段には貴族がいる。師範がいる。父を知る者たちが見ている。
ここで泥を出せば、父の槍はまた汚れる。
汚れる?
では、今握っているこれは本当に白いのか。
「始め」
エドウィンの声。
ユーリスが踏み込んだ。
速い。
長槍の穂先が、真っ直ぐ来る。
レオンは受ける。
柄に衝撃。
短い手槍では、受けた位置が近すぎる。手首が押し込まれ、肩が軋む。昨日と同じだ。いや、ユーリスの方が若いぶん、力がある。
返し突き。
届かない。
ユーリスは半歩退くだけで避けた。
「よい反応です」
ユーリスが笑う。
「しかし、惜しい。少し短いですね」
「槍が、ですか」
「いえ」
彼は穂先を下げずに言った。
「間合いの理解が」
石段で小さな笑いが起きた。
レオンは微笑んだ。
「ご指導、痛み入ります」
胸の奥で、別の声が言う。
その長い棒がなけりゃ、お前の間合いなんざ足一本で崩れる。
出すな。
まだ。
二合目。
ユーリスは上段から穂先を落とすように突いてきた。
レオンは横へ払う。
白槍の柄が軽すぎる。いや、軽いのではない。父の型で使うと軽さが逃げる。相手の槍を大きく払うには、この手槍は向いていない。
受けきれない。
レオンは一歩下がる。
ユーリスの追い突きが来る。
さらに下がる。
白砂が靴の下で滑る。
背後が近い。
庭の端だ。
観客から見れば、完全に押されている。
「レオン様、無理はなさらず」
誰かが言った。
優しい声だった。
優しい声で、人はよく相手の負けを決める。
レオンは息を整えた。
ユーリスがまた踏み込む。
今度は、フェイントが混じっている。喉元へ来ると見せて、肩へ流す突き。長槍の穂先が白く揺れた。
父の型なら、受けて返す。
だが、返せば遅い。
祖父の足なら、沈んで懐へ入れる。
相手の前足を払える。
槍の柄を足首に引っ掛けられる。
転ばせられる。
できる。
だが、しない。
レオンは父の型で受けた。
遅れた。
ユーリスの木槍が、レオンの右肩を打った。
鋭い痛み。
白槍が手から浮く。
落とさなかった。
だが、構えは完全に崩れた。
「一本」
エドウィンが告げる。
石段から拍手が起きた。
礼儀正しい拍手だった。つまり、負けた側を慰めるために音量を調整された拍手だった。こういう拍手は、普通の嘲笑より腹にくる。
ユーリスは槍を引き、丁寧に礼をした。
「失礼いたしました」
「見事な一突きでした」
レオンも礼を返す。
「勉強になりました」
ユーリスは微笑む。
「白槍公のご子息ならば、すぐに追いつかれるでしょう」
その言葉は、励ましの形をしていた。
中身は違う。
今のお前は追いついていない。
そう言われている。
「励みます」
レオンは答えた。
声は穏やかだった。
手は、白槍の柄を少し強く握っていた。
第二本。
エドウィンは少し迷ったように見えたが、止めなかった。
慰問稽古とはいえ、一本で終わればそれはそれで噂になる。白槍公の息子は一合で折れた、と。貴族社会は血を流さない代わりに、噂で人を削る。実に文明的で最悪だ。
「始め」
ユーリスは今度、最初から圧をかけてきた。
長槍の利点を使い、レオンを間合いの外へ追い出す。穂先が顔、胸、肩へと細かく揺れる。すべて本命に見える。すべて受けるには、白槍は短い。
レオンは下がる。
また下がる。
見物人の一人が呟いた。
「白槍公とは、ずいぶん違う」
聞こえた。
ユーリスにも聞こえたのだろう。彼の口元が少し上がった。
次の突き。
レオンは受け損ねる。
木槍が脇腹を打った。
息が止まる。
「二本」
エドウィンの声。
拍手。
また、礼儀正しい拍手。
レオンは槍を杖のようにして立った。
肩と脇腹が痛い。息を吸うと胸が鳴る。
ニナが水を持って近づこうとした。
レオンは目だけで止めた。
来るな。
今来ると、余計に負けたように見える。
ニナは足を止めた。
ガルドは一言も発しない。
第三本。
「レオン様、続けられますか」
エドウィンが問う。
レオンは微笑んだ。
「もちろんです」
裏の声が、喉元まで来ている。
もちろんじゃねえよ。普通に痛えよ。あの長物野郎、あとで足元に穴でも掘ってやろうか。
出さない。
表の顔を崩すな。
白槍公の息子は、負けても清廉でなければならない。
父なら、どうした。
父なら、きっと美しく負けなかった。
父なら、この短い槍をどう使った。
父なら。
その問いが、突然、少しずれた。
父は本当に、この場で父の型を使っただろうか。
「始め」
ユーリスが来る。
長槍の突き。
速い。
美しい。
正しい。
レオンは受ける。
いや。
受けるふりをした。
体が少し沈む。
足が白砂を噛む。
穂先を相手の顔前へ残す。
石突が低く滑る。
ユーリスの前足が見えた。
踏み込みの直後。体重が乗っている。ここを払えば、きれいに転ぶ。膝裏まで入れれば、立ち上がれないかもしれない。
できる。
白槍が、やれと言っている。
体が、もう知っている。
レオンは石突を止めた。
寸前で。
代わりに、父の型へ戻そうとした。
その一瞬の迷い。
ユーリスの木槍が、レオンの胸を打った。
今度は強かった。
レオンは後ろへ倒れた。
白砂が舞う。
背中が地面に当たる。
空が見えた。
王都の空は、腹立たしいほど青かった。
「三本」
エドウィンが告げる。
少し間を置いて、拍手が起きた。
今度は、同情が混じっていた。
同情。
笑われるより面倒なやつだ。笑いなら殴り返せるが、同情は殴るとこちらが悪者になる。人類が発明した中でも、なかなか陰湿な拘束具だと思う。
ユーリスが近づいてきた。
手を差し出す。
「お怪我は」
レオンはその手を取らず、自力で立ち上がった。
「問題ありません」
「無理をなさらず。白槍公のご子息といえど、まだお若い」
「ご配慮、感謝します」
レオンは礼をした。
「今日は、良い勉強になりました」
「それは何より」
ユーリスは声を潜める。
周囲には聞こえない程度に。
「ただ、ひとつだけ。あの槍は、あなたには少し難しいのでは?」
レオンは顔を上げた。
ユーリスは微笑んでいる。
「白槍公だからこそ、あの短槍でも美しく戦えたのでしょう。あなたは、まず普通の長槍から始めた方がよろしいかと」
親切。
助言。
侮辱。
よく混ぜてある。
なかなか器用だ。料理なら吐く。
レオンは穏やかに微笑んだ。
「ご忠告、胸に留めます」
「ええ。名門には、名門にふさわしい道がありますから」
ユーリスは一礼し、観客席へ戻った。
若い貴族たちが彼を迎える。
誰かが笑いながら言った。
「さすがバルトレイ卿」
「三本とも鮮やかだった」
「白槍公のご子息には、少し荷が重かったか」
レオンは白槍を拾った。
柄についた白砂を払う。
槍は軽い。
だが、さっき足元へ滑らせかけた瞬間だけ、やはり妙に重心が合った。
この槍は知っている。
自分が、どこを打つべきかを。
そのことが、レオンには腹立たしかった。
稽古は、そこで終わった。
エドウィンは励ましの言葉を並べ、若い貴族たちは礼儀正しく帰っていった。ユーリスは最後まで完璧に礼を崩さなかった。だから余計に嫌だった。性格の悪さは、礼儀と相性が良すぎる。
夕方、庭に残ったのはレオン、ガルド、ニナだけだった。
白砂には、長槍の踏み跡と、レオンが倒れた跡が残っている。
それと、もう一つ。
途中で止めた石突の跡。
ユーリスの足元へ向かって、低く伸びた一本の線。
ニナはそれを見ていた。
「言いたいことがあるなら言え」
レオンが言うと、ニナは少し迷った。
「……なぜ、途中で止めたんですか」
ガルドが鋭く見る。
「ニナ」
「構わない」
レオンは白槍を肩にかけた。
「見えてたか」
「はい」
「払えば勝てたと思うか」
「少なくとも、バルトレイ卿は転んでいました」
「膝は?」
「角度によります」
レオンは笑った。
「いい目だな」
ニナは顔を伏せる。
「申し訳ありません」
「褒めてる」
「余計に困ります」
ガルドが咳払いした。
「若様。あそこで使わなかったのは、正しい判断です」
「そうか?」
「貴族たちの前で、あの技を見せれば、噂はさらに悪くなります」
「三本取られても噂は悪くなるけどな」
「それでも、父君の名は傷つきませぬ」
レオンは白砂に残った石突の跡を見た。
「父君の名、ね」
声が低くなる。
「俺が負ければ、父上の名は傷つかない。俺が勝てば、父上の名が傷つく。ずいぶん便利な家名だな」
「若様」
「つまり俺は、父上のために負けるのが一番きれいってことか」
ガルドは黙る。
ニナも黙る。
レオンは笑った。
今度の笑いは、だいぶ行儀が悪かった。
「ふざけんな」
白薔薇の枝が風で揺れる。
「俺は父上の供え物じゃねえ。白い棚に飾られるために生きてるわけでもねえ」
ガルドが静かに言う。
「では、次は使われますか」
レオンは答えなかった。
白槍の石突を、白砂に軽く落とす。
とん、と乾いた音がした。
「使えば、勝てる」
「おそらく」
「勝てば、汚れる」
「おそらく」
「負ければ、笑われる」
「それも、おそらく」
「なら」
レオンは白槍を見た。
細い刃。
傷だらけの柄。
白く塗られた、棒に近い手槍。
「勝ち方に名前をつけるしかねえな」
ガルドの眉が動く。
「名前、ですか」
「貴族は名前が好きだろ。泥臭い足払いでも、《白鷺落とし》とか呼べばありがたがるかもしれねえ」
「若様」
「冗談だよ」
レオンは清廉に微笑んだ。
その顔で言う。
「半分は」
ニナがまた、笑いそうになって口を閉じた。
ガルドは深くため息をついた。
「大旦那様も、そのようなお顔をなさいました」
「祖父が?」
「悪いことを思いついた時に」
「ひどい言い草だな」
「事実でございます」
レオンは白槍を持ち直した。
今度は父の型ではない。
足を沈める。
穂先を見せる。
石突を低く置く。
ユーリスの長槍を想像する。
あの澄ました顔。長い間合い。美しい踏み込み。膝裏。足首。袖口。手首。
壊せる場所が、いくつも見える。
レオンは途中で動きを止めた。
「ニナ」
「はい」
「お前、明日の朝から庭を掃け」
「いつも掃いています」
「俺の石突の跡は消すな」
ニナが顔を上げる。
「残すのですか」
「残せ」
レオンは白砂に伸びた一本の線を見る。
「次にどこまで入れば足を払えるか、測る」
ガルドが目を閉じた。
「若様」
「何だ」
「旦那様がご覧になれば、たいそう嘆かれたでしょう」
「そうかもな」
レオンは少しだけ、空を見た。
青い空。
父がもう見ていない空。
「でも、この槍を残したのは父上だ」
白槍の柄を握る。
掌に、また古い窪みが合った。
「文句があるなら、化けて出りゃいい」
もちろん、表ではそんなことは言わない。
翌日、王都には穏やかな噂が広がった。
白槍公のご子息は、まだ若く、槍の才はこれかららしい。
名門の重圧は重い。
父の偉大さを思えば、無理もない。
皆、優しい顔でそう語った。
誰も言わなかった。
白砂の庭に、倒された青年の跡とは別に、相手の足元へまっすぐ伸びる黒い線が一本残っていたことを。
レオンだけが、その線を覚えていた。
ニナも覚えていた。
ガルドは、覚えたくなさそうな顔で覚えていた。
白槍公の息子は、その日、名門の失敗作として笑われた。
そして同じ日、失敗作でなくなるためには、父のように勝ってはいけないのだと知った。




