第2話 父の型が合わない
翌朝、レオンは父の槍術を学び直すことになった。
白槍流師範、エドウィン・ロース。
王都でも名の知れた槍術家であり、父アルベルトの旧友でもある。背は高く、姿勢がよく、口髭の形まで左右対称だった。人間、ここまで整っていると逆に信用しづらい。整理された棚に限って、奥に変なものを隠している。
エドウィンは稽古場に入るなり、深々と礼をした。
「レオン様。本日より、改めて白槍流の基礎をお伝えいたします」
「よろしくお願いいたします、ロース卿」
レオンも礼を返した。
背筋を伸ばし、声は静かに。昨日の弔問客に向けたものと同じ、清廉な若君の声だ。
「父の名を継ぐ身として、未熟を恥じております。どうか遠慮なくご指導ください」
「ご立派なお心がけです」
エドウィンは目を細めた。
「白槍公も、お若い頃は同じように己に厳しい方でした」
「父上のようになれるとは思いません。ただ、少しでも近づければと」
言葉は滑らかに出た。
横で控えていたガルドが、ほんの少しだけ眉を下げた。たぶん笑いをこらえている。腹立たしい老人だ。
稽古場の奥には、昨日と同じ槍掛けがある。
式典用の長槍が三本。訓練用の木槍が数本。そして、父の白い手槍。
エドウィンは当然のように、長い訓練用木槍を取った。
「まずは基本の構えから確認いたしましょう。白槍流の本質は、間合いの清浄さにあります」
「間合いの清浄さ」
「はい。相手を乱さず、己も乱れず、正中から制する。白槍流は、野卑な殺傷術ではありません。相手に己の敗北を悟らせる槍です」
綺麗な言葉だった。
綺麗すぎて、どこか遠い。
エドウィンが構える。
長槍は、彼の手に自然に収まった。左足を半歩引き、背筋を伸ばし、穂先を相手の喉元へ置く。柄の角度、肩の開き、視線の高さ。すべてが整っている。
確かに、美しい。
絵になる。
壁に掛けても売れそうだった。戦場では知らないが。
「では、レオン様」
レオンは父の白槍を手に取った。
エドウィンが少しだけ目を動かす。
「そちらをお使いに?」
「父の槍ですから」
「……なるほど」
エドウィンは微笑んだ。
それは礼儀正しい微笑だった。つまり、何かを隠すための微笑だった。
レオンは見逃さなかった。
「不都合が?」
「いえ。ただ、基礎稽古には長槍の方が適しております。白槍流の型は、本来、戦場槍を基準としておりますので」
「父は、この槍を使っていたのでしょう?」
「もちろんです。白槍公は、いかなる槍でも白槍流の理を体現されました」
いかなる槍でも。
便利な言い回しだ。
レオンは槍を握った。
昨日と同じ軽さ。昨日と同じ短さ。昨日と同じ、掌に合いすぎる柄の窪み。
エドウィンと向かい合う。
「では、基本一式を」
「承知しました」
レオンは構えた。
昨日、何度も試した父の型。
背筋を伸ばす。左足を引く。穂先を高く置く。目線は相手の胸から喉。白槍流の基本姿勢。
違和感。
やはり、槍が短い。
構えた瞬間、間合いの外側が薄くなる。相手の長槍は自分に届く。こちらの穂先はまだ届かない。なら踏み込む必要がある。だが踏み込めば、相手の懐へ入りすぎる。
この槍は、白槍流の教本の形を嫌っている。
「突き」
エドウィンの声。
レオンは突いた。
穂先が空を裂く。
エドウィンは軽く身を引くだけで避けた。
「もう少し肩を抜いて」
「はい」
「手首で急がず、腰から」
「はい」
「踏み込みが浅い」
「はい」
言われるたびに直す。
直すほど、槍が遠くなる。
「突き」
また突く。
届かない。
「突き」
また突く。
戻しが遅い。
「突き」
また突く。
今度は踏み込みすぎて、柄が詰まる。
エドウィンの木槍が、レオンの胸元で止まった。
「そこまで」
レオンは息を吐いた。
汗がこめかみを伝う。
エドウィンは困ったように微笑んでいた。
「焦る必要はございません。白槍流は一朝一夕に身につくものではありませんから」
「父は、何歳でこの型を」
「十二歳には、すでに見事なものを」
「そうですか」
レオンは微笑んだ。
清潔な微笑み。喪中の若君にふさわしい、少しだけ寂しげなもの。
「では、私は六年ほど遅れているわけですね」
「レオン様」
「冗談です」
冗談ではなかった。
ガルドが壁際で、黙っている。
ニナ・ファルクは稽古場の外にいた。
まだ従騎士見習いの少女だ。平民出身で、レオンの馬の世話や稽古道具の管理を任されている。年はレオンより三つ下。細く、日焼けして、いつも邪魔にならない場所に立っている。
だが、目だけはよく動く。
彼女は稽古場の扉の隙間から、父の槍とレオンの足を見ていた。
「では次に、受けから返しへ」
エドウィンが木槍を構える。
「白槍流は、受けに留まりません。相手の勢いを正面から受け止め、その乱れを最小限に返す。無駄のない、美しい流れです」
美しい。
またそれだ。
レオンは白槍を構えた。
エドウィンの突きが来る。
速い。
レオンは受ける。
柄に衝撃が走る。短い手槍では受けの距離が近すぎる。木槍の力が体に直接入ってくる。
返す。
間に合わない。
エドウィンの石突が、レオンの肩に軽く触れた。
「遅い」
「はい」
「槍を腕だけで扱っておられます。白槍流では、槍は体の延長です」
「承知しました」
腕だけではない。
むしろ、体が違う動きをしたがっている。
正面から受けるのではなく、横へ外れろ。
槍で止めるのではなく、柄を滑らせろ。
相手の突きを見ず、足を見ろ。
そんな声が、身体の奥から上がってくる。
祖父の声ではない。
祖父の言葉をはっきり覚えているわけではない。
ただ、庭の土の上で見た、低い足。丸まった背中。白槍公の父とは思えない、獣じみた動き。
あの動きだけが、体のどこかに残っている。
「もう一度」
エドウィンの突き。
レオンは受ける。
衝撃。
返す。
遅れる。
「もう一度」
突き。
受け。
返し。
遅い。
「もう一度」
突き。
受け。
今度は、体が勝手に半歩沈みかけた。
レオンは無理に止めた。
肩に木槍が入った。
鈍い痛みが走る。
「そこまで」
エドウィンが槍を引いた。
「大丈夫ですか」
「問題ありません」
レオンは微笑んだ。
喉の奥で、別の言葉が出かけた。
問題だらけだよ、目のついた案山子め。
言わない。
言ったら負けだ。何に負けるのかは知らないが、たぶん礼儀とかいう面倒な獣に食われる。
「レオン様」
エドウィンは、少し声を柔らかくした。
「白槍流は、血で継ぐものではありません。日々の鍛錬、節度、心の澄明さによって身につくものです」
「はい」
「焦りは槍を濁らせます」
「はい」
「白槍公も、常にそう仰っていました」
レオンは父の白槍を見た。
白く磨かれた刃。
黒ずんだ柄。
濁っているのは、どちらだ。
「父は」
レオンは静かに言った。
「この槍で、同じ稽古を?」
エドウィンの微笑が、ほんのわずかに硬くなった。
「白槍公は、若い頃から多くの槍を扱われました」
「この槍で?」
「……実戦では、こちらを好まれたと聞いております」
「稽古では?」
「基礎は、長槍で」
レオンは心の中で笑った。
やっぱりな。
声には出さない。
「ありがとうございます。よく分かりました」
「何がでしょう」
「父の基礎に、私はまだ届かないということです」
エドウィンは満足したようにうなずいた。
「その謙虚さがあれば、必ずや」
レオンは礼をした。
「本日はここまでにいたしましょう」
稽古は終わった。
エドウィンが退出した後、稽古場にはレオンとガルドだけが残った。扉の外にニナの気配がある。
レオンは槍を床に置いた。
そして、喪服の袖をまくった。
「……長ぇ」
ガルドが眉を上げる。
「何がでございますか」
「話が」
レオンは肩を回した。
「心の澄明さだの、槍は体の延長だの、節度だの。槍で殴られるより眠かったぞ」
「ロース卿は名師範です」
「名師範だろうな。長槍なら」
レオンは白槍を足先で軽く転がした。
刃が細く光る。柄が床に触れて、ごつりと鈍い音を立てる。
「これ、あの型で使う槍じゃねえだろ」
「若様」
「違うか?」
ガルドは答えない。
「昨日から変だと思ってた。父上の型で構えると間合いが死ぬ。突きゃ届かねえ。踏み込めば近すぎる。受けりゃ衝撃が体に来る。長槍の型を短くしただけじゃ、この槍は使えねえ」
「基礎は大事にございます」
「基礎で死んだら世話ねえよ」
レオンは槍を拾い上げた。
今度は父の型では構えない。
足を少し開く。
左足を引きすぎない。
背を丸める。
穂先は相手の顔の高さに置く。ただし本命ではない。白い刃は見せ札。相手の目をそこへ置かせる。
石突を床に近づける。
昨日と同じ。
体が勝手に知っている。
レオンはゆっくりと、仮想の相手へ向かって動いた。
踏み込まない。
沈む。
穂先を軽く振る。
相手が上を見る。
その間に、石突が足元へ入る。
払う。
床を低く擦る音。
昨日より滑らかだった。
ガルドの顔が曇る。
「どこでそれを」
「覚えてねえよ」
レオンは吐き捨てるように言った。
「体が勝手にやる」
「ならば、なおさらおやめください」
「なぜ」
「それは白槍流ではありません」
「知ってる」
「それは」
ガルドは言葉を切った。
レオンは老人を見る。
「泥狼の技か?」
稽古場の空気が、一段重くなった。
扉の外で、ニナの呼吸がわずかに乱れた。
ガルドはゆっくりと目を伏せた。
「その名は、軽々しく口にされませぬよう」
「祖父の名だろ」
「大旦那様の二つ名です」
「なら、なおさら家の話じゃねえか」
「家が、語らぬことにした話です」
レオンは笑った。
「便利だな、家ってのは。語りたいことだけ語れて」
「若様」
「父上はこれを使ったのか」
レオンは白槍を持ち上げた。
「この短い棒みてえな槍で、あの長槍の綺麗な型をやってたのか。それとも、俺が今やったみたいに足を払って、手を絡めて、相手を転がしてたのか」
ガルドは、また黙った。
レオンは一歩近づいた。
「黙るなよ。昨日からそればっかりだ」
「私の口からは」
「父上の名誉のためか」
「若様のためでございます」
「じゃあ余計に信用ならねえな」
レオンは槍を肩に担いだ。
白い穂先が、稽古場の灯りを受ける。綺麗だ。綺麗に見える。だから余計に腹が立つ。
「父上の槍術を学べば、この槍が使えると思った」
ガルドは顔を上げない。
「でも違う。父上の槍術じゃ、この槍は死んでる。あの師範殿の言う通りにやれば、俺は試合場じゃ立派に負ける。戦場ならもっと早く死ぬ」
「白槍流を軽んじてはなりません」
「軽んじてねえよ」
レオンの声が低くなる。
「軽んじてねえから、腹が立ってんだ。父上の名で伝わってるものと、父上の槍に残ってるものが違う。どっちかが嘘をついてる」
扉の外で、床がわずかに鳴った。
レオンは振り向いた。
「ニナ」
扉がゆっくり開く。
ニナが顔を出した。
「申し訳ありません。掃除道具を取りに」
「最初から聞いてただろ」
「……はい」
正直だ。
貴族ならここで三つくらい言い訳を重ねる。平民出身の方が、時々よほど品がある。まったく社会というのは設計が雑だ。
レオンは白槍を下ろした。
「お前、今のどう見えた」
「今の、とは」
「俺がやった変な足払いだ」
ニナは少し迷った。
ガルドが口を挟む。
「若様、従騎士見習いに」
「黙ってろ、ガルド。俺は今、長い話を聞きたくない」
ニナはレオンの足元を見た。
「……相手が、胸を守ろうとしたら転ぶと思いました」
「なぜ」
「穂先が顔の前に出るので、そっちを見ると思います。そうしたら足元が見えません」
「続けろ」
「石突が低いので、足首か膝裏に入ります。受けようとしても、槍が短いから近い。長槍だと思って間合いを取る人ほど、たぶん遅れます」
レオンは笑った。
今度は声に出た。
「ほら見ろ。見習いの方が分かってる」
ニナは慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません」
「謝るな。正しい」
レオンは白槍を片手で回した。
穂先ではなく、柄の重さを見る。
「これは突く槍じゃねえ。いや、突けるが、それだけじゃない。払う、絡める、押さえる。刃より柄だ。石突が重いのも、たぶん偶然じゃない」
ガルドは苦い顔をした。
「そこまでお気づきなら、お分かりでしょう。だからこそ危ういのです」
「危うい?」
「白槍公の槍は、人々にとって清廉の象徴です」
「実物が棒でも?」
「象徴とは、そういうものです」
「ひでえ話だな」
「家とは、そういうものです」
レオンは少し黙った。
それから、表情を戻した。
背筋を伸ばす。
口元に、薄く礼儀正しい微笑を乗せる。
「では、ガルド。明日からもロース卿には来ていただきましょう」
「若様」
「私は父の白槍流を正式に学ばねばならない。父の名を継ぐ者として、基礎を疎かにはできません」
ニナが目を瞬かせる。
ガルドは、何かを察した顔をした。
「そのお顔で悪巧みをなさるのは、おやめください」
「悪巧みとは心外だな」
レオンは穏やかに言った。
「私は、父の教えを学びたいだけだ」
そして、少しだけ声を落とす。
「どこまでが飾りか、確かめるためにな」
ガルドは深いため息をついた。
「旦那様がご存命なら、頭を抱えられたでしょう」
「父上が頭を抱えたかどうかは知らねえ。ただ、この槍を選んだのは父上だ」
レオンは白槍を見た。
「なら、槍に聞く。師範よりは正直そうだ」
ニナが小さく笑いそうになり、慌てて口を閉じた。
レオンはそれを見逃さなかった。
「笑ったな」
「笑っていません」
「嘘が下手だな。貴族には向かない」
「従騎士でよかったです」
「そうだな。貴族なんて包装紙を食う連中だ。腹を壊すぞ」
「若様」
ガルドの声が低くなる。
「表ではお控えを」
「分かってるよ」
レオンはまた清廉な声を作った。
「我が身の未熟を恥じ、明日よりも父の御技に励みます」
それから、すぐに顔をしかめる。
「吐きそうだ」
ニナが今度こそ笑った。
ガルドも、ほんの一瞬だけ目元を緩めた。
その夜、レオンは一人で父の書斎に入った。
父の机は、葬儀の日のままだった。
整理された書類。封蝋の残った手紙。領地からの収支報告。白槍流の教本。父らしい、整いすぎた部屋。
レオンは教本を開く。
美しい図が並んでいる。
正面突き。
受け流し。
返し突き。
白鳥の構え。
雪月の間。
どれも長槍向きだ。
どれも父の手槍には、少しずつ合わない。
ページをめくる。
最後の方に、書き込みがあった。
父の字だった。
小さく、几帳面な字。
――実戦では、型を短くすること。
それだけ。
他には何もない。
レオンはその文字を指でなぞった。
型を短くする。
ずいぶん上品な言い方だ。
本当は、足を払え、膝を打て、柄を使え、相手の視線を騙せ、という意味ではないのか。
父は、どこまで知っていた。
どこまで隠した。
どこまで、自分を白く塗った。
机の上には、父が使っていた白い手袋が置かれていた。汚れ一つない。指先まで清潔で、まるで誰も傷つけたことがない手のようだった。
レオンは自分の掌を見た。
白槍の柄の窪みが、まだ残っている気がした。
父の型は合わない。
だが父の槍は、別の何かに合う。
そしてその何かは、自分の体の中にある。
レオンは教本を閉じた。
「……面白くなってきやがった」
その声は、父のものではなかった。
白槍公の息子としては、あまりに行儀が悪い声だった。
けれど、誰もいない書斎でだけ、その声は妙に自然だった。




