第4話 足が勝手に沈む
レオンは翌朝、何事もなかった顔で朝食を取った。
白いテーブルクロス。銀の食器。薄く切られたパン。よく焼かれた卵。香草入りの腸詰め。王都屋敷の食事は、いつも整っている。
整いすぎていて、腹が立つ。
食卓には母はいない。母エリスは領地の本邸にいる。父の死後、王都に残るべきだと親族たちは言ったが、母は「領民への弔問を受ける者が必要です」と言って戻った。
正しい判断だ。
正しすぎて、寂しい。
食堂にはレオン、ガルド、そして家令のマルクだけがいた。
「本日のご予定でございます」
マルクが淡々と書面を読み上げる。
「午前、ロース卿による白槍流稽古。昼前、バルトレイ伯爵家より弔問返礼に関する使者。午後、王都槍術院より見学の申し出。夕刻、北区商会長との面談。夜、弔問状へのご返書」
「槍術院?」
レオンはパンを割りながら聞いた。
「はい。昨日の稽古をご覧になった方々より、白槍公のご子息の今後を案じる声が上がっているようで」
「案じる」
「表向きは」
ガルドが小さく咳をした。
マルクは涼しい顔のまま続ける。
「槍術院としては、基礎課程から改めて支援する用意がある、とのことです」
レオンは卵を口に運んだ。
味は悪くない。
ただ、急に砂を噛んでいるような気分になった。
「ありがたい話だな」
「お受けになりますか」
「保留」
「承知いたしました」
マルクはすぐに記した。
できる家令は、主君の苛立ちを余計に刺激しない。人間、無能も面倒だが、有能も逃げ場を奪うので面倒だ。
食後、レオンは稽古場へ向かった。
昨日の白砂の庭ではなく、屋敷内の板張りの稽古場。エドウィン・ロースはすでに待っていた。
「おはようございます、レオン様」
「おはようございます、ロース卿。本日もよろしくお願いいたします」
表の声。
礼儀正しく、落ち着いた声。
ガルドは壁際に控え、ニナは入口近くで稽古用具を整えている。昨日、白砂に残した石突の跡を消さなかったことで、彼女は庭番に怒られたらしい。後で謝るべきかもしれない。いや、謝るなら表で謝るべきか裏で謝るべきか。貴族というのは、謝罪にすら衣装がいる。くだらない。
「本日は、足運びを重点的に確認しましょう」
エドウィンが言った。
「槍の間合いは足で作ります。昨日の手合わせでは、踏み込みに迷いがございました」
「ご指摘、感謝いたします」
「白槍流の足は、乱れません。地を強く蹴らず、滑らず、焦らず。常に相手の正面に立つ」
相手の正面に立つ。
正面。
それが昨日、何度もレオンを負けさせた。
レオンは父の白槍を持って、構えた。
エドウィンは長い木槍を持つ。
「一歩、前へ」
レオンは踏み込む。
「止めて」
止める。
「膝が硬い。もう少し高く」
「はい」
「背がわずかに落ちています。白槍流では、槍先と視線を下げてはなりません」
「はい」
「もう一度」
繰り返す。
前へ。
止める。
戻る。
前へ。
止める。
戻る。
父の型は、直線の上にある。
真っ直ぐ立ち、真っ直ぐ進み、真っ直ぐ突く。
無駄がない。
美しい。
だが、体が気持ち悪いと言っている。
もっと沈め。
相手の正面に立つな。
穂先を見せろ。
本命は足だ。
その声を、レオンは押し殺した。
「今度は、私の踏み込みに合わせて退いてください」
エドウィンが構える。
「相手の槍が伸びる瞬間、その線を崩さずに半歩退く。逃げるのではなく、間合いを整えるのです」
「はい」
エドウィンが踏み込む。
レオンは退く。
白槍が軽く震える。
「遅い」
「はい」
「もう一度」
踏み込み。
退く。
「足が下へ逃げています。後ろではなく、下へ」
「はい」
まただ。
足が沈む。
勝手に。
退くのではなく、低くなる。
正面を外すためではなく、相手の足元を見るために。
「もう一度」
エドウィンが踏み込む。
今度は少し速い。
レオンは退こうとする。
だが、左膝が落ちた。
体が斜めになる。
穂先が高く残り、石突が床に近づく。
エドウィンの長槍が、レオンの肩の上を通った。
空を切る。
エドウィンの目が見開かれる。
レオンの石突は、相手の前足のすぐ横にあった。
ほんの少し動かせば払える。
払えば、エドウィンは倒れる。
老練な師範が、白槍公の息子に足を払われる。
想像した瞬間、レオンは手を止めた。
床に、石突が触れただけだった。
かつん、と小さな音。
稽古場が静かになった。
エドウィンは長槍を引いた。
「今の動きは」
声が硬い。
レオンは姿勢を戻した。
「申し訳ありません。足が滑りました」
滑っていない。
誰が見ても滑っていない。
ニナの目が、はっきりそう言っている。生意気な目だ。嫌いではない。
エドウィンはしばらくレオンを見ていた。
「白槍流では、あのように身を沈めません」
「以後、気をつけます」
「槍は高潔な武器です。地を這うように使うものではありません」
「はい」
高潔な武器。
この棒みたいな手槍を見て、よく言う。
レオンは微笑んだ。
「父の名に恥じぬよう、正しい足運びを身につけます」
エドウィンはわずかに安堵したようだった。
「それがよろしい。レオン様には、まず白槍公の型を正しく継いでいただかねば」
正しく。
またそれだ。
正しさは、だいたい誰かが自分の都合で置いた柵だ。近づくとよく分かる。木目が腐っている。
午前の稽古は続いた。
レオンは何度も足を沈めかけ、そのたびに戻した。
正面へ。
高く。
美しく。
遠く。
そして、勝てない姿勢へ。
昼前、エドウィンが退出すると、レオンは稽古場の戸を閉めた。
外に控えていた使用人たちも下げる。
残ったのはガルドとニナだけ。
レオンは白槍を床に投げた。
がん、と鈍い音がした。
「クソみてえな稽古だな」
ニナが一瞬で目を伏せた。
ガルドは平然としている。
「ロース卿は、正統を教えておられます」
「正統ってのは、負けるための作法か?」
「正面から勝つための作法です」
「正面から勝てる奴用のな」
レオンは肩を回した。
何度も止めたせいで、膝と腰が妙に重い。動きたい方向を無理に止めると、体の奥に苛立ちが溜まる。人間の体は正直だ。頭よりよほど信用できる。まあ、すぐ腹も壊すので万能ではないが。
「ニナ」
「はい」
「お前、さっきの見てどう思った」
「足は滑っていませんでした」
「そこじゃねえ」
「……払えたと思います」
「誰を」
「ロース卿を」
ガルドが低く言う。
「ニナ」
ニナは慌てて口を閉じる。
レオンは笑った。
「いい。続けろ」
「ですが、払えば問題になったと思います」
「なぜ」
「ロース卿は師範です。しかも白槍流の。正しい稽古の中で、若様が別の技で倒せば……白槍流が負けたように見えます」
「見えるんじゃなく、負けるんだろ」
ニナは答えに詰まった。
ガルドが口を挟む。
「若様。技には、場がございます」
「場ね」
「戦場ならば、倒せる技が正しい。しかし、稽古場では違います。特に、父君の喪が明けぬ今は」
「つまり俺は、場に合わせて負けろと」
「場に合わせて、勝ち方を選べと申し上げております」
レオンは少しだけ黙った。
言葉としては正しい。
腹立たしいことに。
勝つ技を持っているだけでは足りない。
その技を出してよい場所と、出してよい名前がいる。
また名前だ。
また包装紙だ。
「なあ、ガルド」
「はい」
「祖父は、どうやってこの技を使ってた」
ガルドの顔が固まる。
「若様」
「聞くぞ。今日こそ」
「大旦那様の武術は、当家では」
「語らないことにした話、だろ。昨日聞いた」
レオンは白槍を拾う。
「だが、体が勝手にやる。なら、語らなくても残ってる。だったら言葉で隠す意味はあるのか」
「あります」
ガルドは即答した。
「人は、名のあるものを恐れます。名のないものは、見なかったことにできる」
「泥狼の技と呼べば恐れる。足が滑ったと言えば見逃す。そういう話か」
「そういう話です」
レオンは声を出して笑った。
「ほんと、人間ってのは面倒だな。技より名前に斬られる」
ニナがぽつりと言った。
「でも、名前がなければ教えられません」
レオンは彼女を見る。
ニナは少しだけ怯えた顔をしたが、視線を逸らさなかった。
「続けろ」
「私は、今の動きが何なのか分かりません。見れば、なんとなく足を払う動きだとは分かります。でも、名前がなければ、覚える場所がありません。次に同じものを見ても、同じ技だと気づけないかもしれません」
レオンは黙った。
ニナの言葉は、思ったより深く入った。
名前は嘘になる。
だが、名前がないと残らない。
祖父の武術は、名を伏せられたから家の表から消えた。
父の白槍流は、名を与えられたから美しいものとして残った。
中身がどうであれ。
「……名前をつければ、泥も残るか」
レオンが呟く。
ガルドが険しい顔をした。
「若様」
「まだ何も言ってねえだろ」
「お顔が、すでに何か言っております」
「便利な顔だな」
「大旦那様も、そうでした」
また祖父。
レオンは白槍を見た。
「祖父は、俺に何か教えたか」
「幼少の若様に、正式な稽古はしておりません」
「正式な、ね」
レオンは笑う。
「じゃあ非公式には?」
ガルドは答えなかった。
レオンの記憶に、古い庭が浮かぶ。
領地の本邸。夏の夕方。父は王都へ行っていて、母は客を迎えていた。幼いレオンは庭の木陰で、祖父オルドを見た。
祖父はすでに老人だった。
だが、立ち方が奇妙だった。
背を丸め、膝を緩め、まるで転びそうに見える。手には短い棒。いや、槍だったかもしれない。穂先があった記憶は曖昧だ。ただ、白くはなかった。泥に近い色だった。
祖父の前に、若い兵がいた。
兵は祖父に向かって木剣を振った。
次の瞬間、兵は地面に転がっていた。
祖父は何もしていないように見えた。
ただ、足が少し沈んだ。
棒の先が、兵の足元にあった。
祖父は笑っていた。
歯の抜けた、行儀の悪い笑い方で。
そして幼いレオンに気づくと、人差し指を口の前に立てた。
父には言うな。
そういう顔だった。
思い出した瞬間、レオンの膝が勝手に緩んだ。
白槍が、掌の中で低くなる。
ガルドが一歩前に出る。
「若様」
「黙ってろ」
レオンは目を閉じた。
父の型ではない。
祖父の記憶。
棒。
足元。
笑い。
相手の胸を見るな。
顔を見るな。
剣を見るな。
足を見ろ。
踏み込んだ足は、もう逃げられない。
人間は胸を守る。
だから足をやる。
誰の声でもない。
だが、そう聞こえた。
レオンは白槍を構える。
穂先を高く。
これは見せる。
相手の目に渡す餌。
本命は石突。
低く、滑らせる。
足首の外側。
払うのではなく、置く。
相手が勝手に引っかかる位置へ。
レオンは一歩動いた。
床を、石突が擦る。
昨日より深い音。
板に黒い筋が残った。
ニナが息を止める。
レオンはもう一歩動く。
沈む。
白槍が、急に軽くなる。
いや、違う。
体と槍の距離が消える。
父の型では遠かった槍が、いまは近い。腕で持つものではなく、足の先から伸びている棒のように感じる。穂先は顔。柄は肋。石突は足。全部が別々に動く。
レオンは空の相手に向かって、穂先を見せた。
次に、石突を入れる。
低く。
速く。
床を打つ。
乾いた音。
その瞬間、扉の向こうで誰かが小さく声を上げた。
レオンは振り向いた。
使用人の少年が盆を持って立っていた。昼食の支度を知らせに来たのだろう。顔が青い。
ガルドがすぐに歩み寄る。
「下がりなさい」
「は、はい」
少年は逃げるように去った。
レオンは白槍を下ろした。
「見られたな」
「ただの稽古でございます」
ガルドは即座に言った。
「白槍流の?」
「白槍流の」
老人は、迷いなく嘘をついた。
レオンはその顔を見て、少しだけ笑った。
「お前も白く塗るのが上手いな」
「家に長くおりますので」
「最悪の返事だ」
ニナは床の黒い筋を見ていた。
「若様」
「何だ」
「今の、名前はあるんですか」
レオンは答えようとして、止まった。
名。
祖父の技としての名は知らない。
泥狼の何か。
そんな名で呼べば、ガルドは渋い顔をするだろう。エドウィンは否定する。王都貴族は嫌悪する。
だが、名前がなければ残らない。
レオンは床の筋を見る。
白槍の穂先は上にあり、実際に相手を落とすのは下の石突。
白い鳥が舞うように見せて、足元を落とす。
「白鷺落とし」
口から出た。
ニナが繰り返す。
「白鷺落とし」
「まだ仮だ」
「覚えやすいです」
「中身は足払いだぞ」
「でも、白槍流っぽいです」
レオンは笑った。
「だろうな」
ガルドが頭を抱えた。
本当に、頭を抱えた。
「若様。そのようなことを軽々しく」
「軽々しくじゃない。名付けは大事なんだろ」
「だからこそです」
「なら、なおさら綺麗な名にする。泥臭い技ほど、白い名前がいる」
ガルドは目を閉じた。
「旦那様が聞けば、嘆かれます」
「父上が最初にやったかもしれねえだろ」
沈黙。
それは、否定ではなかった。
レオンは白槍を槍掛けに戻した。
「午後の槍術院の見学は断れ」
「理由は」
ガルドが問う。
レオンは表の顔に戻る。
「父を喪ったばかりで、いまだ心身が整わぬため、改めて日をいただきたい」
「承知しました」
「裏の理由は?」
ニナが小さく聞いた。
レオンは彼女を見る。
少し驚いた。
この娘、案外いい度胸をしている。
「今見られると、面倒が増える」
「承知しました」
ニナは真面目にうなずいた。
それが少しおかしくて、レオンはまた笑いかけた。
午後、レオンは父の書斎に戻った。
白槍流の教本を開く。
余白に、昨日見つけた父の書き込みがある。
――実戦では、型を短くすること。
レオンはその下に、自分の字で小さく書いた。
白鷺落とし。
穂先を見せ、石突で足を取る。
殺さず、立たせず。
書いたあと、しばらく眺めた。
ひどい技だ。
ひどい名前だ。
綺麗な顔をして、やることは足払い。
白槍公の息子に、なかなかふさわしい。
レオンはペンを置いた。
窓の外では、王都の鐘が鳴っている。
人々は今日も父を悼み、白槍公の清廉さを語っているのだろう。父は美しかった。父は正しかった。父は白い槍のような人だった。
そう語られる父の槍で、レオンは足を払う技に名前をつけた。
悪いことをしている気がした。
同時に、初めて槍が少しだけ自分のものになった気もした。
その感覚が、いちばんまずかった。
夕方、ガルドが書斎に入ってきた。
「槍術院の見学は、日を改めることになりました」
「ご苦労」
「それと、バルトレイ家より使者が」
「ユーリスか」
「はい。昨日の手合わせについて、改めて励ましの言葉を届けたいと」
レオンは顔を上げた。
ガルドは手紙を差し出す。
封を開ける。
丁寧な文面だった。
昨日は急な手合わせで失礼した。レオンの今後に期待している。必要ならば長槍の基礎について助言できる。
最後に、こうあった。
――白槍公のご威名にふさわしい道を歩まれますよう。
レオンは手紙を閉じた。
「返事は?」
ガルドが聞く。
レオンは表の声で言った。
「温かいお心遣いに感謝いたします。父の名に恥じぬよう、今後とも精進いたします、と」
「裏では」
ガルドが珍しく聞いた。
レオンは笑った。
「次は足元見てろよ、長物野郎」
ガルドはため息をついた。
「決して書かぬよう」
「分かってる」
レオンは父の白槍流教本を閉じた。
その余白には、もう父の文字だけではない。
自分の文字がある。
父の型の下に、祖父の足を置いた文字。
白鷺落とし。
名前をつけてしまった。
名前をつけたものは、もうただの癖ではない。
技になる。
技になれば、教えられる。
教えられれば、広がる。
広がれば、いつか誰かがそれを正統と呼ぶかもしれない。
レオンは、その可能性を思った。
気味が悪かった。
少し楽しかった。
白槍公の息子は、その日、父の型に合わない自分の足を止めるのをやめた。
そして、泥に近い足払いへ、白い名前を与えた。




