(8)
淑生舎の戸は開かれたままで御簾が下ろされていた。ほのかな灯光が透けて見えるが、相変わらず人の気配は感じられない。金鵄は周囲に気を配りながら御簾をかいくぐった。
部屋の隅で燈台の炎が揺らめく。燭光に照らされた室内には一人の女が座していた。桃白色の長い髪を垂らした背を金鵄に向けている。
違和感とも言えるざわつきが、そのとき金鵄の心にわいた。
つと局の主の肩が揺れ動いたため、金鵄は膝をつき、軽く頭を垂れた。
「お迎えにあがりました、姫」
即答はない。常のこととはいえ、手応えのなさに金鵄はむらむらとした。
「わたくしはいずこへも参りませぬ」
まもなくか細い声が漏れた。揺るぎない女の意志に金鵄は憤った。
「もはや貴王の心があなたに向かうことはないというのに、ですか? あなたはどれほど己が身を虐げれば気がすむのです」
女が黙する。金鵄は女に歩み寄った。
「花陽――」
「それはわたくしの名ではございませぬ」
弱々しい吐息に込められた針のごとき答えに、金鵄は目をみはった。
腐臭が、鼻をついた。
「わたくしが母よりもらい受けた……奪い取った名にございます」
「姫……?」
鼓動が速くなる。それまでどのように抑えられていたのか、耐えがたいほどの臭いが局にたちこめた。
「どれほど慈しんでいただこうと、醜花は醜花しか産めぬと知ってからも……おそばに侍るなどとうてい許されぬことであったと身にしみてからも、ひとえにお慕いする心が通じているうちは、花神の御慈悲にすがって生きることがかないました。されどもう、とめられませぬ。思いあまって一人ほふってみましたが、花神のお怒りをかった以上、もはやこの身をとどめることはできぬのです」
金鵄はためらいつつ花陽妃の肩に手を置いた。強引に繊弱な体をふり向かせる。そして金鵄は喉を凍らせた。
ひからびた女の頬を涙が滑り落ちる。にごった雫は女がにぎりしめている花へ滴っていく。
深みのある赤紫の牡丹を桃白色の瞳にとらえながら、女はつぶやいた。
「他の妃など迎えてほしくなかった……」
重ねた衣の内側より伝わる感触が失われはじめた。目睫で、女を形作っていたものが崩れ粉末と化していく。
やがて金鵄の胸に赤紫色の衣のみがその身を預けた。枯れ花の臭いが鼻をかすめ、リンポウが床に落ちる。
震えた空気が最期に告げたような気がした。
王、と……ただ一言。
聞こえる楽の音が、遠く思えた――。
濃い闇の空が少しずつ白んでくる朝まだき、貴王は目覚めた。腕の中に確かな感触を覚えて安堵する。身をずらして貴王は静かに起き上がった。
おぼろ月はおそらくいまだ沈んではいないだろう。熟睡したために酒気も抜け、貴王は心身ともにすっきりとしていた。
寄り添っている間はさほどでもなかったが、広い登華殿内は寒かった。湿った冷気が肌にまとわりついてくる。ぬくもりの片割れを失ったことに気づいたのか、隣の玉芙蓉もなかばほどまぶたを上げた。
はっきりと覚醒してはいないようである。夢と現をさまよっている玉芙蓉が愛らしく思え、貴王は笑みを漏らした。
「寒くはないか?」
貴王は再び上掛けにもぐり臥した。少し頭をもたげて玉芙蓉の顔を間近で見る。それを恥じらったように玉芙蓉は上掛けに顔をうずめた。
「暁にございますか」
「そのようだ」
従蕾殿にて夜を過ごした男たちは、今頃褥を起き出していることだろう。しかしここは登華殿ゆえに、日が高くなる前に戻るのは玉芙蓉のほうであった。
手をのばして衣をかき集めようとする玉芙蓉を貴王は引きとめた。
「かまわぬ。今日はとどまれ」
「なりませぬ、王。浅はかな者と思われてしまいます」
玉芙蓉は貴王の腕を振り切り、臥所を離れた。貴王はため息をついた。
「わずらわしい倣いだな。変えてしまおうか」
王としての今の立場であれば、しきたりを自在に扱うことができる。かこつ貴王に玉芙蓉は苦笑した。
「怠惰な者が増えてもかまわぬとお思いならば、いかようにも」
「そぞろごとだ」
貴王も己の扇をふところに入れて離床し、着やすいように玉芙蓉の長い髪を持ち上げてやった。手早く重ね着していく玉芙蓉をもどかしい思いで見つめる。そして玉芙蓉が支度を調えたところで貴王は後ろから抱きすくめた。今度は玉芙蓉も抗わない。
ふところから扇を取って玉芙蓉に渡すと、玉芙蓉は素直に受け取り、自身の扇を貴王に差し出した。ようようにして得ることができた扇をしげしげと眺め、貴王は玉芙蓉にささやいた。
「そなたには照綻殿を与える」
「王、それは――」
ふり返った玉芙蓉は明らかに狼狽していた。照綻殿は貴妃殿の中でも登華殿に最も近い局――本来は后が住まう部屋であった。先の世で陽明門が賜った栄えある殿舎を、貴王は玉芙蓉に与えると言ったのだ。
「わたくしごときが、などと申すのは許さぬぞ。わたしがそなたに与えると決めたのだ」
「されど王、わたくしはまだ御子を身ごもってはおりませぬ」
「なに、これから産めばよいだけのこと。少しばかり順序が逆になったところで支障はなかろう」
あまりに驚いたのか、玉芙蓉は呆けたように口を開けたままである。
「わたしの子を産め。世に並びなき美しい花精を」
うつむいた玉芙蓉が小さくうなずく。貴王は結局、じれた女官が呼びにくるまで玉芙蓉を離そうとしなかった。
着替えを手伝った玉芙蓉に仕上げまでしてもらい、貴王はどうにか準備を終えた。平服とはいえ青紫の衣をまとった貴王は、つい先ほどまでぐずぐずしていたとは思えない高雅な落ち着きをにじませ、その堂々とした姿に玉芙蓉も女官も惚れ惚れと瞳をやわらげた。
貴王は玉芙蓉も連れていこうとしたが、妃にあらざる己がともなうのはけしからぬことと玉芙蓉は辞退した。女官もそれが賢明であると同意したがために、貴王は花陽妃を召す旨を伝えて御殿の表に出た。
朝餉を食し支度をすませた他王たちが順に姿を見せる。桂の王である仙王は、そろそろ太子に譲位する心づもりであることを貴王に告げて御殿を後にした。男勝りの素王は型通りの挨拶をかわして。艶王や佳王は名残惜しげにしながら去っていった。そして幾多の王を送り出した貴王は、親しい清王と最後に長く話し込んだ。
貴王は新たな妃を娶ることを報告した。それが玉芙蓉であると知り、清王は笑った。
「いつまとまるかと思うていたが、ようやくか」
ここ最近のことではなくずっと以前から気にかかっていたという清王に、貴王は目を丸くした。
「それほど早く顔に出ていたか?」
「琵琶の君の話をするときのそなたはいつも、評判の美女を落としたときよりも楽しそうであったからな」
貴王は頬をさすった。自覚するより先に己の恋着が漏れていたことに少しばかりうろたえる。皆が皆気づいたわけではなかろうが、清王が察したのであればおそらく母后も勘づいていたはずだ。
何にせよめでたいことだと祝いの言葉を口にした清王は、近々唯一の清妃である香篆を連れてくると約束をした。本当はこの奉納祭で同伴する予定であったが、牡丹の郷をうろつく妖花の噂は梅の郷にも届いており、用心のために清王が郷に残してきたのである。貴王の奉納舞を楽しみにしていた香篆妃をなだめるのは大変だったと清王に軽く責められ、貴王は苦笑った。
太子時代より清王の心をとらえて離さぬ香篆妃は、楚々とした者が多い梅の花精の中でも、ひときわ貴王の目をひいた女である。息をのむほどの美貌ではないが品のある優しい面立ちをしており、清王の妃でなければ貴王は声をかけていたと思われた。なかなか子に恵まれず、一時は別の妃をと大臣たちが勧めたらしいが、清王は頑として承知しなかったという。香篆妃に肩身のせまい思いをさせぬよう清王が配慮にいそしんでいることを、貴王はよく知っていた。
ならば次に来たときは香篆妃のために一差し舞おうと貴王も誓い、二人は別れた。最後の御輿が大門へ消えていくのを見届けた貴王は、無事に務めを果たしたことにほっとした。そしてついに花陽妃が姿を現さなかったことに気づき、参上した従者に目をやった。
「花陽妃は何をしておるのだ?」
叱責しようとした貴王は、従者が青ざめているのを見てとった。不吉な予感に胸がざわめく。
「何かあったのか?」
即答はなかった。貴王が眉間にしわを寄せて返答を促そうとしたとき、若者は重い口を開いた。
「花陽妃様、淑生舎にてご落命なさいました」
すうっと背筋が冷えた。顔を伏せる従者を凝視する。
「なにゆえ……?」
「それが……」
従者はまたしばし沈黙した。生ぬるい風が貴王の頬をなでていく。
「事情をうかがいましたお方のお話は、あまりにも乱れておりまして」
「何者だ?」
その言により位高き者であることを貴王は理解した。そして一人の男を心に浮かべる。
「……金鵄か」
断言に近い語調で貴王がただす。無言の首肯が返された。
「今、いずこにいる?」
「いまだ淑生舎に」
貴王は身をひるがえした。そして後ろをついてくる従者から多少の事情を聞きながら、足早に淑生舎へと向かった。
打橋より手前にて群がる花精を立ち退かせ、貴王は淑生舎に渡った。まぎれて連なろうとした者たちを衛士が妨げる。
部屋の御簾をかいくぐった貴王に、捕縛されていた黄色い髪の男がゆらりと顔を上げた。
赤くにごった黄色の瞳は、飢えた獣もかくやという光におかされている。貴王は金鵄からそらした視線を、床に放置されたままの赤紫色の衣に移した。とたん、金鵄が目をむく。
「寄るな! 姫に近づくな!」
声をかぎりにわめく金鵄に、貴王は瞳をすがめた。
「姫ではない。妃だ」
「黙れ!」
「控えろっ」
身を乗り出そうとした金鵄をそばにいた衛士が抑え込む。
「わたしの姫だ。わたしのっ……」
そう言いながら金鵄は不意に笑いだした。自嘲の色濃くのけぞり笑う金鵄に、貴王はぞっとした。
「そなたの罪はおって裁きにかける。連れていけ」
貴王に命じられ、衛士が金鵄を引き立てる。金鵄はすぐさま笑いやんだ。
「罪だと? 妖花に花精を殺させたことか、それとも貴妃を寝取ったことか?」
唾を飛ばす勢いで金鵄は叫んだ。
「笑わせるな! わたしを咎めるというなら、貴様も同罪だ。あれは貴様が姫に産ませた妖花だっ」
貴王は瞠目した。耳を疑う告白にその場が凍りつく。
「雪重も烏羽玉妃も、貴様の子が殺した。貴様が殺したのだっ」
「早く連れていけ」
凝立する貴王に代わり、高位の官吏が衛士に指示する。同じくかたまっていた衛士たちは、一度貴王を見てから動きだした。
外に追いやられた金鵄の叫号がしだいに不明瞭なものになっていく。朽ちた臭いにむせるがごとく、貴王は膝から崩れ落ちた。




