終章 匂い花
澄んだ青空の下、みすぼらしい輿がゆるやかな速度で道を行く。担ぐ男は四名。その前後を衛士が四人ずつ進んでいる。輿には痩躯を縄で縛られた金鵄の姿があった。
すれ違う花精が一人とていないのは、皆この時刻にこの輿が通るのを知るがゆえである。黒い輿は目にするのも厭わしいと、花精たちはそろって避けていた。
貴妃と密通し、妖花を利用して他の妃や花精を殺した罪により、金鵄は花源郷の中心にある腐実堂へ送られることとなった。そこは『穢れ花』と呼ばれる罪を犯した花精たちが死を迎える場所である。安らかな死を与えられぬであろうことは、堂より漏れ出る穢気により明らかであった。
衛士たちの務めは金鵄を腐実堂に入れるところまで。その先は花神のみぞ知ることである。
輿に揺られながら、金鵄は生気の失せた顔で傍らの牡丹を眺めていた。枯れ果てたカヨウは木箱におさめられている。ともに行くのを許されたことだけがせめてもの救いであった。
最期まで――その命がついえるまで己に傾くことはなかった女の面影を、金鵄はずっと胸にとどめていた。決して意思をもたぬ女ではなかった。まこと風聞にたがわぬ性質であれば、いかにたやすく得られたことか。そう思い、金鵄は喉の奥で嗤った。
女の正体を金鵄は口にすることはなかった。どれほど貴王に毒づこうと、それだけは一言たりとも漏らさなかった。
保身、であったのかもしれない。ひとえに愛した女が醜花であり妖花であったと皆に嘲笑われるのを避けたかったのだ――そうに違いない。金鵄は心の中で己にそう言い聞かせた。
今猩々大臣も花陽妃の秘密については間違いなく把握していたはずであるが、罪に問われてもそのことだけは口外しなかったようだ。己が妻を殺めて美しくなった醜花の娘を、よりによって貴王の妃として御殿に上げたと知れれば、今頃は仲よくこの輿に乗っていたであろうから。
つと周囲の空気が変化した。輿が牡丹の郷を出たのである。重々しい静寂が続く道は、枝分かれすることなく花源郷の中心へ通じている。
風のない真冬の朝のようであった。郷にあふれる雑多な精気とは対照的に、ここの気は冷たく沈んでいる。花たちのささめきも歌声もまるで聞こえない世界は、死を迎える花にふさわしい地であると思えた。
そして少しずつ漂いはじめた腐臭の幻に、金鵄はそっと目を閉じた。
昼を過ぎたばかりの登華殿に、心地よい陽風がぬくもりをたずさえて吹き入ってくる。それに溶け込むように琵琶の音が広がり、室内を満たしていく。紫色の衣を肩にかけた貴王は茵の上で脇几に身をもたせかけ、半眼で楽の音に耳をすましていた。
御簾はすべて巻き上げられ、庭先を飾る喧妍たる花々が目にしみるように輝いている。
ふと貴王が顔を上げた。
「……客のようだ」
貴王の隣で琵琶を弾いていた玉芙蓉も撥の動きをとめる。咲き誇る牡丹の馥郁たる香りに劣らぬ芳香が、衣擦れの音とともに濃く近づいてきた。
「王、清王様がお見えにございます」
登華殿入口に現れた上臈の女官が告げる。玉芙蓉が居住まいを正したとき、二つの影が廊に映った。
「具合はどうか?」
よく見知った青白色の髪と瞳をもつ清王が入室してくる。その後ろに続く白色の髪の花精に目をとめ、貴王は顔をほころばせた。
「よくお越しくだされた、香篆殿」
「貴王様にはしばらくぶりにございます」
清王の妃は桃色の双眸に笑みをたたえ、しなやかな物腰で貴王に挨拶した。微風にすらそよぐほどの柔らかさに玉芙蓉が感嘆の息を漏らす。薄紅の衣をまとった香篆妃は艶麗ではないが清楚な美を匂わせる花精であった。それでいて決してはかなげでもなく、清王と並べば見事に調和する。
香篆妃を見ていた貴王が、軽い驚きをこめて尋ねた。
「御子を宿されたか」
白粉の上からそれとわかるほどに、香篆妃の頬に赤みがさす。清王も目をみはった。
「わかるのか?」
貴王は微笑した。
「何となく、だがな」
「今年はわたしが郷を出ていたゆえ、間に合わぬかと思うていたのだが」
清王が香篆妃を見やると、香篆妃も微笑みで返す。それを見た貴王は扇を取り出してはたはたとあおいだ。
「さてさて玉芙蓉。今日は常よりも暖かいようだ」
「まことに」
話を振られた玉芙蓉もうなずく。四人のなごやかな笑いが登華殿内に響いた。
奉納祭より七日を過ぎ、貴王はいまだ鬱々とした状態にあった。雪重の死によりはじまった御殿内の惨事は、花陽妃の死でしめくくられた。それがすべて花陽妃に懸想していた金鵄の仕業であったこと、かつて死産として報告されていた貴王と花陽妃の子は醜花であり、それを金鵄が密かに育てて今回の事件に利用したこと――明らかになった真相に、貴王は打ちのめされた。
臣籍に下っていた貴王の異母兄弟の幾人かは貴王の廃位を声高に訴え、貴王も自らの責任を思い退位する意向を太上貴王に相談した。しかし激情にかられた熱い恋ではなかったものの、貴王が当時花陽妃を大切にし、引きこもった花陽妃に心遣いを見せていた流れを知る者は多く、醜花の誕生に対し懐疑的な意見があちらこちらから上がった。何より、こたびの奉納祭で見事に天花を降らせた貴王を退ければ、花神より怒りの制裁が下ると皆が危惧したのを受け、太上貴王は貴王の申し出を棄却し、みだりに騒ぎ立てた異母兄弟たちを叱った。
そしてすべての咎は金鵄と花陽妃のかぶるところとなり、二人の親族はその責任に応じて処罰された。
いずれにしても奉納祭が終われば、貴王は花陽妃を廃するつもりでいた。花陽妃に仕える女官より、先に二人の不義の報告を受けていたのである。それは花陽が妃として御殿に上がった際に貴王が遣わし、時折花陽妃の様子をさぐらせていた女官であった。
裁きの間も金鵄は激しく貴王をののしった。もはや正気とは思えなかった。そして貴王は、妃となる前の花陽が金鵄と幾度か文をかわし、金鵄に求婚されていたのを知ったのである。しかし花陽は貴王に嫁ぐことを選び、金鵄の恋は砕けた。結果花陽妃を恨み、貴王を憎んだ金鵄は、陽明門太后が貴妃にと推していた玉芙蓉をなぶったのである。
金鵄の館からは糞にまみれた衣が発見された。上等な衣はカヨウの香りを含んでおり、常芳舎の廊下を汚物で汚した犯人もここで露見した。
呪いともいえる金鵄の悪罵と枯れ果てた女たちの悪夢に、貴王は幾日もうなされた。薬師の薬も効かず、皆が心配して早く忘れるようにと忠言した。
だが、貴王に最も近い玉芙蓉は説いた。
無理に忘れることはない。しかし己の見解をくつがえす必要もないのだと。
こたびの件はそれぞれの求めるものがかみあわなかったのだと、玉芙蓉は少し寂しげに語った。玉芙蓉もまた過去に産み捨てた醜花を思いいまだ心晴れておらぬことを、貴王は心得ていた。
そして貴王は玉芙蓉の言葉をかみしめながら日々を過ごしている。玉芙蓉がそばにいるからこそ、貴王は遅々としながらも前向きに進む意欲をもてるようになったのである。
「琵琶の君も顔色がすぐれぬようだが」
玉芙蓉をじっと見ていた清王が、懸念の容相で首をかしげる。
奉納祭での寿王の言葉どおり、額の傷はその美貌を強調するものとすらなり得た。今や御殿内に玉芙蓉を蔑む声はない。
玉芙蓉の輿入れの準備は着々と進んでいるという。早ければこの月の末には正式に妃となるが、貴王はそれを待ちきれず玉芙蓉を片時も離さずにいた。すでに照綻殿を与えているのだが、せめて妃位を賜ってからと玉芙蓉は従蕾殿を出ようとしない。ゆえに他の男に奪われるのを警戒した貴王は、常に玉芙蓉を登華殿に召しているのである。
傷心に病んだ貴王をなぐさめるため玉芙蓉は日夜琵琶を奏で、またよき話し相手としてそばにいる。時には太后に召されることもあり、玉芙蓉自身が休む暇のないことは貴王も承知していた。しかし玉芙蓉はもはや己の一部であり、離れられぬ存在であった。
「寵は薄すぎても厚すぎても女を悩ませるものであろう。このように好き勝手する男が相手では、琵琶の君も苦労が絶えぬな」
「痛み入ります」
清王のいたわりに玉芙蓉が座礼で応じる。そのしぐさが大仰であったがゆえに、からかわれた貴王も反駁できなかった。
「香篆殿にははるばるのお越しゆえ、約束どおり舞を一差し披露しよう」
立ち上がる貴王に皆が驚いた。
「王……」
「無理をいたすな」
玉芙蓉と清王が慌ててとめに入る。香篆妃もやんわりと諫めた。
「ありがたいお言葉にございますが貴王様、わたくしは本日見舞いにうかがいましたゆえ、お気づかいなさらずにお休みになられませ」
「いやいや、わざわざお出でいただきながら手ぶらで帰すは、こちらとしても心苦しい」
肩にかけていた紫の衣に袖を通す貴王に、清王が嘆息した。
「足しげく通うわたしにはただの一言もなしか。嘆かわしいことだ」
「宴の誘いを断るような無粋な輩にかける言葉など、あるはずがなかろう」
「まだ根にもっているのか。しつこい男は嫌われるぞ」
「そなたほどではない」
貴王はにやりとし、玉芙蓉をふり返った。
「春宵花を」
「御意」
どうあっても舞うつもりなのだとあきらめ、玉芙蓉も苦笑する。そして登華殿の中央に立った貴王は、玉芙蓉の弾く琵琶の楽音にあわせて舞いはじめた。
天高く行く昼の日輪は、殿舎の奥にまで光の手をのばすことはない。陰った室内で、しかし貴王は自らを輝かせた。庭を彩るあまたの牡丹がいかに美々しく咲きこぼれようと、この深みのある赤紫の牡丹に及ぶものはない。春風をはらんだ貴王の髪が、袖が揺れるたび、香篆妃が感嘆の息をつく。
「王はまこと、よいお方と近しゅうていらっしゃる」
香篆妃の賛美に清王も相好を崩す。そして清王はふところから横笛を取り出した。
琵琶の音に甲高い笛の音が加わる。名手と謳われる玉芙蓉にひけをとらぬ音色を醸し出しながら、琵琶と争うことなく絡みあう清王の笛に、舞いながら貴王も目を弓なりにする。庭の牡丹が唱和するかのごとくさざめき、軽風は妙なる楽の音を蒼空へ吹き運んだ。
やがて薄雲がゆるやかにたなびく天より、ひとひらの白き花が降り落ちた。それは興じる花精たちの目に触れることなく、さながら幻のようにかき消えていった。
閲覧ありがとうございました。これにて完結です。最後まで読んでくださった方には本当に感謝です。
次の投稿は、先日本編が完結したシリーズの番外編になります。一番手を誰にするか迷いましたが、今のところファイとシータかな……と思っています。




