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天花降る  作者: たき@現在多忙につき執筆停滞中
第2章 乱れ花
12/16

(5)

 わすれな草色の空が淡雲を従えて広がっている。午後の照射にきらめく中庭で、貴王は一人たたずんでいた。咲きそろう幾多の牡丹には一瞥もくれず、ただ眼前に咲く淡紅色の花のみを見つめる。

 八重咲きのタマフヨウはすっかりしぼんでしまっていた。明日にでも散り落ちてしまうのではと思えるほどの弱々しさに、貴王は憐憫の情をもよおした。

 本体に触れれば化身が己をどう思っているのかわかる。貴王は今まで一度とて触れたことのない淡紅色の花びらに、ゆっくりと手をのばした。

 風になびくがごとくタマフヨウが葉を揺らす。貴王の指から逃れようとも、しなだれかかろうともしているように見えた。うち震える花唇を貴王は凝視した。

 やがてタマフヨウの花片が指からすり抜けた。

 はっとして再び花弁をとらえると、花は一度貴王の指に身をこすりつけてうつむいた。

 貴王は指を鼻へと近づけ、タマフヨウの匂いをかいだ。玉芙蓉の幻影に追慕の念がわき上がり、指に接吻する。

 一陣の陽風が花浅葱色の衣を吹き乱していく中で貴王は目陰をさし、白日を仰いだ。

「そなたに逢いに行く」

 同じ空を眺めているかもしれぬ女に、確かな語気で思いを吐く。

 とまどいか、喜びか、貴王の語りかけに淡紅色の牡丹はさわさわとそよいだ。



  暮れつ方、夕餉をすませた貴王は目立たぬ軽装に身をやつして馬にまたがった。太刀ははいているものの、単身で御殿の裏門を抜ける。空は昼中の澄清が嘘のように灰色に濁っていた。

 王子の一人であった頃はまだ自由に遠出することができた。しかし太子となってからはどこへ出かけるにも御輿に乗る身となったゆえ、久方ぶりに全身に風を受けた貴王は爽快な気分を堪能した。

 まもなく、彼方に建つ大きな屋敷が見えてきた。玉芙蓉の父、長楽大臣の邸宅である。

 しだいに呼吸が乱れはじめ、熱くほてりだす心の臓を静めようと、貴王は胸元の衣を握りしめた。

 不意に滴が頬を打った。そっとなでると指先が濡れている。貴王は曇天を仰視した。

 再び額に大粒の水滴が落ちてくる。一滴二滴を肌で感じたところで、ついにそれとわかるほどに雨が降りだした。

 強い雨脚から逃れるように首をすくめながら舌打ちする。貴王はいっそう速く馬を駆けさせた。



「あれあれ、降ってまいりましたねえ」

 燈台の灯心を燃やした後で御簾際に立った老齢の女が、奥に座している玉芙蓉にそう話しかけた。屋根を穿たんばかりの激しい雨音が、湿りけをともなって響きはじめる。

 薄暗かった室内が明るさを増す中、まったく手をつけていない夕餉を前に玉芙蓉はうつむいていた。

「姫様、少しは召し上がってくださいませ。母君様も父君様も心配しておいでです」

 黙したままの玉芙蓉に、老女が大仰なほどため息をつく。屋敷に下がってからも、玉芙蓉はほとんど何も口にしていなかった。人目を厭い、世話は館に古くから仕えるこの侍女一人に任せている。幼き頃の玉芙蓉のこともよく知っている女であるが、さすがに今の玉芙蓉には困じているようであった。

 にわかに遠くでざわめきが起きた。せわしなく入り乱れ走り回るあまたの気配が、雨音に重なるように伝わってくる。

「何事にございましょうか?」

 侍女は御簾をずらして廊下へ首を出した。

「様子を見てまいりましょう」

 一人になった室内で、衣擦れの音が小さくなるのを聞きながら、玉芙蓉はほっと息をついた。眼前に並べられた夕餉を避けるように御簾を見やる。そのまま降りしきる雨音に玉芙蓉は耳をすました。

 空がうなっている。今宵は春雷が天を翔るかもしれない。

 雨夜はやはり苦手であったが、室内で雷の気配を感じるのは好きだった。御殿に出仕していた頃、雷鳴がとどろくたびに悲鳴を上げて皆が臥すのをいつも座視していたのがなつかしい。

 あのときもそうだった。雪重を亡くした貴王のなぐさめにと琵琶を奏した夜、天雷にまったくおびえることのない己に貴王は珍しげな顔をした。

“そなた、雷を恐れぬのか?”

 そしてあの日初めて、貴王に抱きしめられたのだ――。

 ギシッ、ギシッ、ミシッ

「…………?」

 玉芙蓉は我に返った。屋根から滴る雨の音にまぎれ、足音が近づいてくる。先ほど部屋を出ていった老媼ではない。他の侍女たちのものでもない。

 やがて御簾の前に来た足音の主は、部屋を素通りすることなく立ちどまった。

 中の様子をうかがっているようである。しかし室内のほうが明るいために顔が判別できない。玉芙蓉は身をこわばらせた。五年前の記憶が鮮明によみがえる。金鵄が忍んできたのもこのような雨の夜であったのだ。

 恐ろしさにあとずさりすると衣擦れの音が生じ、相手が反応した。

 玉芙蓉は錯乱した。もはや気配を隠す余裕もなく、部屋の隅にまで這うようにして逃げる。

「玉芙蓉?」

 衝立の後ろに回ったとき、名を呼ばれた。低い声は男のものだ。それが覚えのあるものであるかどうかも考えず、玉芙蓉はおののき耳をふさいだ。

 御簾をかいくぐる気配がする。男に踏みしめられた床がきしんだ。

 男は確実に玉芙蓉のほうへ近づいてきた。裾が衝立よりはみ出しているのに気づいて衣を引き寄せたとき、男が衝立の向こうから顔をのぞかせた。

 瞬間、悲鳴を上げて玉芙蓉はうつぶした。

「玉芙蓉」

「いやああっ」

 男に腕を取られそうになり、激しく抗って手をはじく。

「玉芙蓉、落ち着け」

「誰かっ、誰かっ」

 男につかまれた衣を脱ぎ放って玉芙蓉は逃げた。入口へと向かう玉芙蓉を後ろから男が引きとめる。

「玉芙蓉、わたしだ! 玉芙蓉っ」

 男の顔をかなぐろうとした玉芙蓉ははっとした。すきをついて男が玉芙蓉の両腕を取り押さえる。もつれあって床に倒れこんだところで、玉芙蓉は息をのんだ。

「……王?」

 燭光に照らされる端正な顔立ち――深みのある赤紫の髪と瞳をもつ貴王がそこにいた。

 玉芙蓉を見下ろす貴王もまた、目を大きく見開いていた。その前髪より垂れた滴が玉芙蓉の額に落ちる。玉芙蓉が眉根を寄せると、貴王はうろたえた様子で玉芙蓉から離れた。

 上体を起こした二人は、そのまましばし縛られたように互いを見あっていた。



 前触れもなく訪れた貴王が従者も連れぬ隠密行動であったと知り、長楽大臣はひどく渋面したらしい。一族の王がこの雨の中をただ一人、馬で往訪するなどあまりにも非常識であると。

 そのまま朝まで諫言を吐露し続けそうな長楽から逃げるようにして、貴王は玉芙蓉の部屋にやってきたのである。全身濡れそぼっていた貴王に玉芙蓉の母は着替えを用意し、湯浴みもするよう勧めたが、貴王は新しい衣を借りるだけにとどめた。

 まだ乾いていない赤紫の髪から滴が落ちこぼれ、貴王の襟や背中を濡らしていく。玉芙蓉は棚より布を持ち出し、軽く叩くようにして貴王の髪の水気を取り除いてやった。

 雨音の調べが室内に染み入ってくる。布を片づけた玉芙蓉は茵に腰を下ろしている貴王に求められ、その隣におずおずと座った。

「あまり食しておらぬそうだな」

 貴王は目前に置かれたままの冷めた夕餉を眺め、それから玉芙蓉を見やった。

「とるものはとらねば体に障る」

「このような日に、なにゆえのお越しにございますか?」

 目を伏せ、抑揚のない声で玉芙蓉が問う。落雨にかき消されそうな細い声であった。

「知りたいか?」

 貴王の手が玉芙蓉の肩にのびる。引き寄せられ、玉芙蓉の体は貴王の腕の中に落ちた。

「我が心にかなう花を探し求めたところ、ここにたどり着いたのだ」

「お戯れを」

 離れようとする玉芙蓉をしかと抱きかかえ、貴王は目を細めた。

「部屋をたがえたかと思うた」

 傷心により玉芙蓉は幾分痩せていた。もとがふっくらとしすぎていたゆえ、ほどよい肉付きである。二重だった顎は優しい丸みとなり、首の線も美しい。しかし鏡を嫌って化粧を侍女に任せていたために、かつての美貌に近くなっていることを玉芙蓉自身は知らなかった。

 頬をなでる貴王の指が額へと滑る。醜い傷を隠そうとした玉芙蓉の手をつかみ、貴王は妖花の爪痕をのぞきこんだ。

「お放しくださいませ……!」

 もがく玉芙蓉の顎を手で押さえ、貴王はいよいよ顔を近づける。玉芙蓉は羞愧に涙ぐんだ。貴王にだけは見られたくなかった。

 あのとき死んでしまえばよかったと玉芙蓉は思った。このように恥をさらすくらいならば――。

 傷痕に柔らかい感触を覚え、玉芙蓉は目をみはった。貴王が口づけたのだとわかるまでにしばしかかった。

 呆然と見上げる玉芙蓉に、貴王ははにかんだ笑みを漏らした。

「言いたいことがありすぎて、何から話せばよいかわからぬ。女のもとを訪れてこのような気持ちになったのは初めてだ」

 赤紫色の双眸は熱をおびたように潤んでいる。目をそらすことができず、玉芙蓉の心は騒いだ。

 雨は絶え間なく降り続いている。不意に室外を閃光が照らした。先ほどよりは幾分大きな音が耳を打つ。

「そなたの好きなものが近づいておるようだな」

 貴王が悪戯をする前の童子のごとく笑う。玉芙蓉の気持ちが少しほぐれたそのとき。

 庭にゆがんだ気を感じ、玉芙蓉は御簾に視線を向けた。貴王も同じく入口を見やる。

 誰かがたたずんでいた。しかし館に仕える下男ではない。

 ビシャッ、ズルッと水気を含んだ足音と、衣擦れの音が床を伝ってきた。廊下に上がった――玉芙蓉は不可解な寒気を覚えた。

 ビシャッ、ズズッ……ビシャッ

「何者……?」

 貴王が低く誰何し、腰の太刀に手をのばす。やがてひからびた指が外側から御簾を持ち上げた。

 びくりと肩をはね上げる玉芙蓉を貴王がかばって後ろにやる。

 濡れきった衣を引きずりながら御簾をくぐってきた女に、玉芙蓉は目を見開いた。滴を垂れ流す髪は白で薄めたような桃色。髪と同じ色の瞳はしかと玉芙蓉へ向けられている。そして衣よりのぞく肌は、天よりの恵みの滴に潤うこともなく枯れていた。

「ひっ……!」

 玉芙蓉が両手で口を押さえる。侵入者の運んできた湿気におされて燈台の炎が揺れた。朽ちた花の臭いが室内に広がる。

「柔らかな香り……」

 妖花は乾いた顔をほころばせると、玉芙蓉を求めて一歩踏み出した。太刀に手をかけた貴王も玉芙蓉とともにあとずさる。そうして二人は壁際にまで追い込まれた。

「寄るなっ」

 ついに貴王が太刀を抜いた。白刃が灯火を反射して暗い光を放つ。妖花はそこで初めて貴王に目を向けた。

「玉芙蓉を傷つけたのはそなたか!?」

 しばしの間があった。貴王を凝視していた妖花が小首をかしげて口を開こうとした刹那、貴王が太刀をないだ。御簾に、壁に、薄汚くにごった血が散る。妖花の悲鳴は上空で鳴り響く雷とあわさった。

 妖花がくずおれる。玉芙蓉は袖で顔を隠した。意識を保つのが精一杯であった。

 震える腕で体を支え起き上がろうとした妖花に、貴王の太刀が再びきらめく。二振り目は妖花の頭から喉までをたてに切り裂いた。

 太刀を下ろした貴王は、妖花の命がまだつきていないことを見て再びかまえなおした。

「これほどまでしても死なぬのか……?」

 驚惑と恐怖がにじんだ貴王の問いに、玉芙蓉も片目でおそるおそる妖花の様子をうかがった。

 妖花はもはや身を起こすことはできぬふうであったが、長い髪のすきまからのぞく眸子が不審ととまどいに揺らいでいた。

 雨脚が強まる。天の盥が反されたように館を襲う。

「……父様?」

 そうつぶやいたのを最後に、妖花の姿は砂塵のごとく崩れた。そして後に置かれた衣と残り香に、玉芙蓉も気を失った。

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