(4)
悪い夢でも見ているのか、その寝顔は苦悶に満ちていた。それでも狂い乱れていた頃に比べると、少し落ち着いてきたのではなかろうか。薄暗い室内で燈台の火一つを頼りに、貴王は褥で眠る玉芙蓉を眺めた。
騒ぎを聞きつけて集まってきた者たちを追い払い、妖花を見失ったという報告を衛士より受けてからすでに数刻が過ぎている。夜も更け、恐ろしいほどに冷ややかな静けさが身にしみるようになり、貴王はようやくあたりを見回すだけの余裕ができた。
今まで玉芙蓉の自室に足を踏み入れたことはない。顔をあわせるときはいつも登華殿か、あるいは貴王の母后が住まう安香舎であったゆえ、この機会に貴王はくまなく視線をめぐらせた。
取り立ててきわだった調度品もない質朴な部屋であった。衝立も厨子も並のもので、目をひくほどのことはない。しかし褥のすぐそばには衣が幾枚も脱ぎ散らされており、逆にそれが整えられた局の内で奇妙に浮いていた。
貴王は再び玉芙蓉に目を向けた。形のよい額には今、布が巻かれている。血はどうにかとまったものの、濃く残る爪痕が消えることはないだろうと、手当てをした者は痛ましそうに語っていた。
時折唇がかすかに動き、寝言らしきものが漏れ聞こえてくる。灯光が弱いためか玉芙蓉の顔全体に影が落ち、今にも息絶えるのではないかと思えるほど精気の失せた様子であった。
不意に一つうめいて玉芙蓉が寝返った。はだけた衣からのぞく豊かな胸乳を見て、貴王は己が心の臓をかきむしりたい衝動にかられた。
謀られた――見事にしてやられた。膝上に置いたこぶしを震わせ、玉芙蓉から目をそらす。貴王は切れるほど強く唇をかんだ。
ふと御簾の外側が明るくなった。衛士の松明であろう、灯火は波うつように揺れながら横に流れていく。土を踏みしめる沓音を耳にするうち、先ほどの玉芙蓉の叫びが貴王の脳裏でこだました。
“あれはわたくしの子……わたくしの産んだ醜花が、妖花に……!”
(玉芙蓉の子……)
近頃御殿内をおびやかしていた妖花が――いやそれよりも、玉芙蓉が過去に子を産んでいたということに貴王は動じた。
(相手は金鵄か……)
それ以外には考えられなかった。貴王と出会う前の玉芙蓉を知る男。
玉芙蓉の肌のぬくもりを知る男――。
タマフヨウの匂いにむせる心地がして、貴王は眉をひそめた。金鵄とまぐわいあう玉芙蓉の姿が目に浮かび、嫌悪に胃の腑が熱くなる。
このとき貴王は初めて玉芙蓉を厭わしく思った。憎み、蔑み、同時に己の歩むべき道をも見失った気がした。
貴王にとってこの日の夜は、非常に長く感じられた。
翌日、昼も近い頃に玉芙蓉は意識を戻した。昨夜のことが記憶に生々しいのか、暗然としたままものも言わぬ玉芙蓉を、貴王は冷めた目で見つめた。
とりあえず何か口に入れさせようと女官を呼び、粥を用意させる。しかし玉芙蓉は一口も食べようとしなかった。
ほどよい暖気に包まれる中、陽光を遮断する御簾を一瞥した貴王は、決して柔らかくはない語調で問うた。
「今後のためにも聞いておかねばならぬ。昨夜そなたを襲ったという妖花は、まことそなたの子か?」
玉芙蓉はうつむいた。
「それは誰との間にもうけた子か? なにゆえ醜花を産むことになったのだ?」
玉芙蓉からの返事はなかった。代わってその目のふちにあふれた涙がこぼれ落ちる。
「答えよ」
貴王は強くただした。
「昨夜の妖花は先の二人を殺めた疑いがある。もしまことにそなたの子であれば、そなたの罪はこの上なく大きいぞ」
玉芙蓉の面がこわばる。常になく返答が鈍いことに貴王は苛立ちを募らせた。
「……子は、金鵄様との子にございます」
鼻をすすってから、玉芙蓉はようやくかすれた声を出した。
「逢うたのはいつの頃か?」
「五年前に……大降りの雨の日にございました。夕刻、屋敷の近くで金鵄様が馬を下りられうずくまっていらしたのを屋敷の者が気づき……父がお声かけをいたしましたところ何やらお困りのご様子でしたので、雨宿りもかねて上がっていただいたのです」
傷がうずくのか、玉芙蓉は右手の指を額にのばした。
「金鵄様はいずこよりかお帰りの途中、軽い腹痛をわずらわれたということにございました。痛みがやわらぐまでと父がお部屋をご用意いたしまして、結局その日金鵄様はお泊まりになりました。わたくしの寝間は、金鵄様のお部屋とは遠く隔てたところにございましたゆえ……気が緩んでおりました」
「忍んできたと申すか?」
玉芙蓉はうなずいた。おさまりかけていた落涙が再び勢いづく。
「そなたは拒んだのか?」
淡紅色の瞳が大きく揺れた。返事を詰まらせる玉芙蓉を、貴王はにらんで返した。
はじめは抗った。しかし最後には受け入れた――そのようなところであろう。
「許したのはその日だけか?」
「一夜だけにございましたが……」
玉芙蓉が言いよどむ。その先の言を貴王は読み取った。
「たいした好き者であるな。それほど快かったのか」
今でも忘れられぬほどに。貴王のあからさまな嘲笑に玉芙蓉は唇を引き結んだ。その青白かった肌に朱が走る。耳まできれいに色づいた。
玉芙蓉はそのとき心から金鵄にひかれたのだと貴王は認めた。冷めていたはずの胸内がまた煮えたぎり、ギリッと歯がみする。
「子を産んで、それが醜花だったと……そなた、いかに思った? うまい口先にだまされたというのに、懲りることなくまだあの男を恋い慕っているのか。わたしを拒むほどに」
「それは――」
玉芙蓉は首を横に振った。金鵄への情はすでにないと必死に訴えるまなざしに、貴王はほっと息をついた。
「産んだ醜花はいかなる処置をほどこしたのか? 育てたと?」
「いいえ」
玉芙蓉はまた傷口に触れた。
「土に埋めたと母より聞いております。されど醜花は生きる力が強いという話にございますれば、あるいは……」
生きていたとも考えられる――玉芙蓉はそう言いたいのであろう。
「子の父はそれを知っているのか?」
生まれた子が醜花であり、すぐさま土に帰されたということを。
「金鵄様はその後一度とておいでになったことはございませぬ。人づてにお聞きでなければご存じなかろうかと」
玉芙蓉は目を伏せた。
いたわらねばと、もう解放してやらねばと貴王は思った。今し方眠りから覚めたばかりであるのに、玉芙蓉はひどく疲れた顔をしている。
長いまつげが震えているのを見た貴王は、ふと衝立に立てかけられている琵琶を目にとめた。
「気分がすぐれぬ。そなたの琵琶の音が聴きたい」
玉芙蓉がいっそう悲痛な面持ちになった。
「弾けませぬ」
「なにゆえ弾けぬ? わたしが弾けと命じておるのだぞ」
「お許しくださいませ」
玉芙蓉が額ずいて嘆願する。貴王は激昂した。
「もう一度言う。わたしのために琵琶を奏せ」
「できませぬっ」
「弾けっ!」
貴王は叩頭したままかぶりを振る玉芙蓉の腕を右手につかみ、その体を引き起こした。左手で琵琶を寄せる。
ガタッ、ベベンッと琵琶までが抗うような音をたてた。
「お許しくださいませ」
抵抗する玉芙蓉に琵琶を押しつける。玉芙蓉が持とうとしないのを見て、貴王は無理にその指を開いてつかませた。
「何とぞお許しを。お願いでございます」
玉芙蓉は貴王の胸に崩れ落ちた。タマフヨウの香りが鼻孔をくすぐる。
貴王は、衣が下がりむき出しとなった玉芙蓉の肩に手を置いた。
「ならばこの場でわたしを受け入れよ」
玉芙蓉がびくりとする。貴王は乱れた淡紅色の髪に口づけた。玉芙蓉から琵琶を取って脇に置き、ふくよかな体を強く抱く。
「お許しくださいませ、王。お願いでございます」
「それもできぬと申すか?」
玉芙蓉はただ小さく嗚咽を漏らした。震えていた。
さまざまな感情が渦巻き抑えられないことに耐え切れなくなり、貴王は立ち上がった。突き放された玉芙蓉が褥の上に倒れ込むが、かまわず部屋を出る。
降りそそぐ暖かい陽射しが、板を敷いた褐色の廊を白く映えさせる。貴王は足元の日だまりへと視線を落とした。床板に染み込むような陽光に目をすがめ、それから今一度御簾のほうを見やる。貴王を呼びとめる声はなかった。
貴王は一人、従蕾殿の長い廊下を通って登華殿へ戻った。途中花陽妃の女官に出会ったが、昨夜花陽妃を放っておいたことについて貴王は言及せず、またあの後の花陽妃の様子を問う気も起きなかった。もはや花陽妃のことなどどうでもよかった。
そして貴王はその日、登華殿より一歩たりとも外に出ることはなかった。
玉芙蓉が御殿を下がったと貴王が知ったのは、それから数日後のことであった。烏羽玉妃の死によりしばし慎んでいた大臣たちが参上し、貴王も奉納祭の準備に追われることで気を紛らわせていた日の午後、奉納舞を披露する舞台が完成したとの報告を受け、貴王は従者をともない寿咲殿へ向かっていた。そこで話に興じていた女官たちの言葉をはからずも立ち聞きすることになったのである。
小綺麗でなかなかに魅力ある二人は、先日廊で玉芙蓉を蔑視し貴王の機嫌を損ねた者たちであった。奉納祭のために新たに雇い入れられた新参の女官であると、貴王はその会話の端々より察した。
二人の話によれば、玉芙蓉が御殿を辞したのは、妖花に襲われ心身に傷を負ったがためであるらしい。
いまだ妖花が捕らえられていないことにおびえながら、二人の女官は己が犠牲にならなかったことに安堵しているようであった。しかし玉芙蓉が狙われたことにはいささか憤りめいたものを感じているらしい。こたびの妖花は美しい女の精気を欲していると聞き及んでいるのに、なにゆえ玉芙蓉がと二人には得心できぬふうであった。
「琵琶の君の額の傷、薬師の手にもおえなかったとか」
「まあ、それはお気の毒に。ますます美しさから遠のいてしまわれたのね。されど指でなくてよかったこと。琵琶まで弾けなくなってしまっては、王のおそばに寄ることもできなくなってしまいますもの」
「身の程知らずは、どこぞの大臣の姫君お一方で十分でしょうに」
笑いあう二人の頬を貴王は張り飛ばしてやりたいと思ったが、玉芙蓉を案じる気持ちのほうが強かった。貴王が身をひるがえし来た廊下を戻りはじめたため、従者が慌てた。
「王、お待ちを。いずこに――」
従者の叫びに、貴王がすぐ近くにいたことを知った女官たちは慌てたさまで己が口をふさいだ。しかし貴王はすでに場を離れ、安香舎を目指していた。
安香舎の御簾は巻き上げられていた。常ならばほがらかな笑い声が廊下に漏れてくるはずが、この日は衣擦れの音一つしない。貴王はいぶかりながら室内をのぞいた。
「これは王」
遣いも寄越さず突然現れた貴王に、脇几に身をもたせかけていた太后はゆったりと微笑んだ。しかしその美貌にはどこか物憂げな色がかかっている。他には誰もいなかった。
「よいときにおいでくださった。暇をもてあましていたところです」
「女官たちは皆下がらせているのですか?」
勧められ、太后の正面に腰を下ろした貴王は左右を見回した。
「まことによい日和だこと。いつもであれば、そこに玉芙蓉が座しているのですが」
太后が貴王の座っている場所を指さす。
「本当は帰しとうなかった。されどあまりに思い詰めた様子であったゆえ」
その責任の一つはおそらく己にあるとも言い出せず、貴王はただ黙って口の端を曲げた。
「文をやってみても代筆ばかり。聞けば臥しているのだとか。あの愛想のよい顔がそばで見られぬのはどうにも寂しゅうてなりませぬ」
太后が息をつく。まるで薄情な男を想いながら待つ女のようであった。
「して、なにゆえのお越しですか?」
問われ、貴王は口ごもった。無心に駆けてきたものの、一人の女の身を案じてだと実母に言うのは恥ずかしかった。しかしそれを察することができぬほど太后が疎いとも思えない。貴王は太后より話が出るのを待った。
その思惑すら見透かしたように太后は笑った。
「そこまでお気に召したのであれば、御自ら玉芙蓉をお訪いなさいませ」
「わたしには……わからないのです」
「わからない、とは?」
太后は、穏やかだが好奇心も含んだまなざしを貴王にそそいだ。すべてを知っていると思われる微笑であったが、貴王から口にせぬかぎり太后の言はなかろう。貴王の母はそのような女である。
貴王はあきらめて数日前の事のしだいを報告した。玉芙蓉が金鵄との間に醜花をもうけていたこと、その醜花が御殿内を乱している妖花かもしれぬこと、そして玉芙蓉へのはっきりしない感情についてなど、太后が満足するまで貴王は語り続けた。話しているうちにやがて貴王は、己の本心というものが見えはじめたことに気づいた。順序立てて説明すればするほど、驚くほど確かなものになっていくことに。
そしてすっかり言葉にしたときには、貴王の心はすでに決まっていた。先に母后が言ったとおり、玉芙蓉に逢いたいと思うようになっていたのである。
貴王自身で結論に行き着いたことをも見抜いたのか、太后は完爾としてうなずいた。
「そろそろお話ししてもよいでしょう。よもや王のお心は変わりますまい」
太后は少し悲しげに、どこともいえぬ虚空を見やった。入口より忍び込む微風が、つややかな濃紅色の髪に口づけていく。
「玉芙蓉は王が太子であらせられた頃、妃の候補の一人にございました」
貴王は瞠目した。そのような話は聞いたことがない。いや、覚えていないだけであろうか。
「玉芙蓉の父君は長楽大臣。母君はわたくしの朋友にございます。花陽殿の輿入れが決まり、いち早く婚儀の準備が進む中で、わたくしどもは玉芙蓉を妃にと考えておりましたが……先に金鵄殿がわたくしどもの夢をさらってしまわれた」
貴王は唇を結んだ。膝上でこぶしを握る。
「玉芙蓉の母君は、他の男との間に醜花など産んだ娘を太子に差し出すことはできぬと、輿入れの話を辞退された。されどわたくしはあきらめきれなんだ。わたくしは玉芙蓉を好いておったゆえ、ぜひとも王の御目に入れていただきたかった」
それから太后は玉芙蓉を御殿に上げるまでの苦労を淡々と語った。玉芙蓉の母に幾度も文を送り、時には自ら出向いて説き伏せた。玉芙蓉をそばに置き、その琵琶の音に心ゆくまで興じたいという太后に、ようやく玉芙蓉の母が首肯したのが一年前であった。
玉芙蓉は金鵄との一件でひどく傷心し食に走った結果、今のように肥えてしまったらしい。昔は美しかったのだという金鵄の言葉を貴王は思い出した。
「母君は安心しておられたのでしょう。あのようにふっくらとした玉芙蓉を王が見初めるはずはないと」
太后が嫣然と微笑む。目があい、貴王は視線をうろつかせた。
「王は金鵄殿との仲が世辞にもよいとは言えませぬな? ゆえにわたくしは玉芙蓉の過去も家柄もすべて伏せたのです」
貴王に反論の余地はなかった。しかし玉芙蓉との出会いからして実母に仕組まれていたと知り、悔しさと羞恥に口をゆがませる。何か言い返してやりたいと貴王は思索した。
「もしわたしが母上の意に添わねば、いかになさるおつもりであったのか?」
貴王が玉芙蓉に対し何の感情もいだかねば、太后の企てが実ることはなかったのである。
太后は発笑した。
「そのようなことは起こり得ませぬ。わたくしは王を産み育てたのですぞ」
豪語である。しかし貴王は完全に己が敗れたことを悟った。
ひとしきり笑った後で、太后は眉尻を下げた。
「わたくしも玉芙蓉がなつかしゅうてなりませぬ。早う連れ戻してくださいませ」
頼りにしておりますぞと瞳をすがめる太后に、したたかな母だと貴王は苦笑した。
陽のぬくもりを吸った風が吹き込み、貴王の赤紫の髪を揺らす。貴王は外へと視線を移した。
このような気候よき日に御簾を上げ、庭に咲き誇る花々を眺めるのは清々しい心地がする。これで美しい楽の音でもあればなおよかろうと思われた。
(玉芙蓉……)
貴王は心の内でその名をくり返した。深く根付いたその面影以外に、今の貴王をひきつける女はいなかった。




