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天花降る  作者: たき@現在多忙につき執筆停滞中
第2章 乱れ花
10/16

(3)

 今は何時であろうか。褥に横たわり仮寝をしていた女は、少しずつ現に向かい意識が目覚めようとしていた。

 わずかな光彩も届かぬ室内では時の流れがまるで感じられない。暗い部屋の中で女はひたすら庇護者の訪れを待つよりなかった。

 周囲には金銀をちりばめた豪華な壺や色鮮やかな絵巻物などが、ところせましと置かれている。この屋敷の宝物が収められた部屋ゆえ人けはなく、それが女の居場所に定められた理由であった。

 もちろんここがどこであるのか女は知らない。ただ、女の庇護者たる男の館であることだけはわかっていた。そして男は時折ここから女を連れ出すのである。

 女が身じろいだとき、暗がりに光の筋がたてにのびた。カタリと開かれた戸から外気と赤黄色の斜光が侵入してくる。

「そろそろ参ろうか」

 聞き慣れた優しい声が促す。逆光にくらみよく見えないが、入ってきた男は笑っているようであった。

 女は身を起こした。

「次こそは美しくなりましょうか、父様?」

 物心ついた頃にはすでに親しい仲であった眼前の男に、女は小首をかしげて問うた。父と呼んでかまわないと男が言ったので、女は長い間そう称している。だがまことの父であるかどうかはわからなかった。

「変わらねば、また探せばよいだけのこと」

 男が女の髪をなでる。つややかな明るい色の髪は母譲りであると、女は男より聞いていた。女にとっては顔も知らぬ母に。

「さあ行こう。そなたの本来の美しさを取り戻しに」

 男が手を差し出す。女はその大きな手を取り、立ち上がった。

 射るような赤日の光陽がひび割れた女の顔に照りつける。女は沈んでいく金輪に目をすがめ、男の用意したかぶりもので頭を覆った。



 女官が参上したのは夕餉を終えて間もない頃であった。登華殿にて貴王に拝謁を請うたのは花陽妃の命を受けた女官であり、珍しいことに貴王は目をみはった。そして用件を聞いた貴王はさらにいぶかった。

「花陽妃様はこたびの件をひどく恐れられ、王のお越しを強く願っておいでです」

 燈台の炎が薄闇に映す凡庸な顔立ちの女官を、貴王は食い入るように見つめた。

 にわかには信じられなかった。あのきわめて控えめで――貴王を拒み離れた花陽妃が、訪れを求めて遣いを寄越すなど……しかも()()()()()に。

「まこと妃の命で参ったのか?」

 女官が気をきかせたゆえの行動ではないのか。不穏な気配ある御殿内で、主の身の安全を確かにしようという狙いでは。

 しかし女官は否定した。間違いなく花陽妃より仰せつかったのだと。

 貴王の心にためらいが生じる。残るただ一人の妃を表立って守ろうとしなければ、周囲の者は勘ぐるかもしれない。奉納祭が迫る今、これ以上不本意な醜聞が広がることは避けるべきであろう。

 その一方で、玉芙蓉が気がかりでもあった。花陽妃のそばについている間に金鵄が戯れて近づきはせぬかと。今宵も玉芙蓉を召そうかと考えていただけに、まるで妨げんばかりの流れに違和感しかない。

 そう、あの男が絡んでいると思われるものすべてが疑わしく、汚らわしい。あるいはこの誘いも……。

「花陽妃様がこのように王にこいねがわれるのはまれにございます。何とぞお情けを」

 玉芙蓉は参上するだろうか。玉芙蓉を召して、己はいかな態度をとればよいのか。金鵄との仲をただすつもりか。そして肯定されれば――。

 気持ちがあちらこちらへと飛び惑い、落ち着かない。返答しない貴王に、女官がさらに催促した。

 ここは一度さぐりを入れてみるか。そうしながら玉芙蓉への接し方を定めるのもよいかもしれぬ。

「子細はわかった。これより渡るゆえ、妃にそう伝えよ」

 ようやく満足した女官がうやうやしく低頭し、退出していく。貴王はふうと息を吐き出してから、端近に控えていた上臈の女官に支度を命じた。そのときである。

 視界の隅で揺らめいた燈台の明かりが一瞬淡紅色に見え、貴王ははっとした。見間違いであったのか、炎は赤と橙に少し青みをまぜた色をつくりだしている。

(玉芙蓉……?)

 貴王は炎の内にのぞいた幻に不安をいだいた。しばし灯火を凝視するが、これという変化はもう起きなかった。

 やがて女官数名が衣装を手にやってきた。そのため妙な予感らしきものはあえなく霧散し、貴王は女官を先立たせて淑生舎へと向かった。



 久方ぶりに訪れた淑生舎は、非常に質素な形で整えられていた。このところ烏羽玉妃の麗香舎や雪重の常芳舎など豪奢に飾り立てられた局ばかりを目にしていただけに、まことここに住む者がいるのかと、貴王は足を踏み入れてまず思った。

 部屋の主であり、現在貴王の唯一にして第一の妃である花陽妃は、普段己が座している席をあけ、その隣に腰を落ち着けていた。脇の燈台より届く燭光が長い桃白色の髪をなでるように照らし、またその麗美な細面をも浮き彫りにする。その性質に今少し強さがあれば、おそらく烏羽玉妃にとって雪重よりも脅威の存在になり得ただろう。

 すでに数年を隔てているとはいえ一度は身ごもった女を、貴王は熟視した。

 太子時代に迎えた妃は貴王より二つ年上。顔立ちは昔と同じ若々しくありながら、当時にはなかった熟した魅力も備わっている。玉芙蓉の評したとおり、しとやかな女であった。

「こたびの件にひどく憂えていると聞いた」

 貴王が用意された席に座ると、花陽妃は深く座礼した。

「お忙しい折に、このように無理を申しましたことをお詫びいたします」

 花陽妃にしては饒舌であると心中驚きながら、貴王はいたわりの言葉を口にした。

「わたしの配慮がたりなかったのだ。そなたが恐れるのも道理であろう」

 御簾際に控えていた女官たちが、気をきかせたのか静かに退出していく。それを見やったところで貴王はふと、部屋の奥にリンポウがいけられているのに気づいた。

 それは先の宴の夜、かんざしを池に落として泣いていた雪重のために貴王が手折った花であった。酌の席で烏羽玉妃が取り上げ、貴王に投げつけた赤紫の牡丹。あの場で騒ぎとなったため置き忘れたのだが、それを花陽妃が拾って手元にとどめていたことを、貴王はこのとき初めて知った。

 他人に与えた花を大切に預かっている花陽妃に貴王はあきれ、少しだけ哀れんだ。

「心細い思いをさせた」

 貴王ができるかぎり優しく語りかけると、顔を上げた花陽妃は貴王を見つめ、花が夜露を滴らせるがごとく泣きはじめた。

 雪重の号泣を見慣れていた貴王は、声なく涙する花陽妃に感心した。同じ女でもこのように品よく泣けるものなのかと。

「今宵はわたしが寝ずの番を引き受けよう。そなたは安心して眠るがよい」

 花陽妃がはっと目をみはる。共寝を期待していたのか。

 ()()()()と貴王は冷笑した。

「すでにそなたの名は他郷にも知れておるゆえ、奉納祭が終わるまではわたしの妃でいてもらう」

 貴王の考えが伝わったのか、花陽妃はさらに大きく目を見開いた。やがて花陽妃はうつむくと震えはじめた。

 寒さゆえか、それとも事が露見していたことへの恐ろしさか。それでも貴王は花陽妃を抱きしめてやることはしなかった。

「後はそなたの好きにするがよい」

 室内の火影が揺れる。

 もはや言葉をつむがぬ花陽妃から顔をそらし、貴王は低い声音でそう告げた。



 月が御殿に差しかかる頃に安香舎を辞した玉芙蓉は、従蕾殿の己の局に戻るなりため息をこぼした。

 室内の燈台に火を灯し、入口をかえりみる。御簾は下ろしているが、戸は開けたままにしていた。女官たちの局が集まる従蕾殿は、夜でも戸を閉めていない部屋がいくつかある。女官がまだ起きているか、あるいは夜に忍んでくる者のために開けているのである。

 玉芙蓉は戸を閉めるべきか迷っていた。すべては文箱の内にある手紙ゆえに。

 今宵の訪れをしたためられた貴王からの文が届いたのは、夕さりのことであった。局を離れたほんのわずかな間に文箱が置かれていたのだ。朱色の箱にはリンポウの花は彫られておらず、中に花びらが一枚、文に添えられていた。

 次は知らぬぞと言った貴王の言葉がよみがえる。なにゆえ貴王が己を求めるのか、玉芙蓉にはわからなかった。美姫と賞されていた昔であれば、貴王の召致に素直に喜びもしたであろうが、今の己にあるのは琵琶を得手とする楽師としての誉れのみである。恋の仲立ちや愚痴を聞くことならまだしも、一人の女して見られるなどあり得ない。並の男ですら避ける己を貴王が本気で懸想してくるはずがなかった。

 目をかけた女と妃を亡くし、貴王は傷心に理性を失っているのではないか。ゆえに手近な己を伽の相手に選ぶのだ。

 貴王の誘いを己が拒んだことで気を高ぶらせているのかもしれない。それを寵愛と思えば、後で泣くことになる。あのときのように。

 風が御簾を揺らし、映った影も形を崩す。玉芙蓉は目を伏せた。

 今のままではいけないのだろうか。恋着とは程遠い間柄でいることは。

 長く貴王のそばにいることができるよう見いだした距離であるのに。

 玉芙蓉はしばし考えた。そして意を決し顔を上げる。

 やはり拒み続けるべきである。一度でも応じれば忘れられなくなってしまう。交合期も控えた今、過去の痛手をくり返したくはなかった。

 玉芙蓉は入口へと足を運んだ。強引に入られることを防ぐため、閉めた戸に掛け金をかける。安堵ともの悲しさに息をついたとき、不意に闇が降りた。

 明かりが消えたらしい。玉芙蓉は戸のすきまより入る細い月影を頼りに火をつけなおそうとふり返り、喫驚した。

 暗闇の中、燈台のそばに何者かの姿がぼんやりと浮き上がっている。玉芙蓉は目をみはった。

 大股で歩み寄られあとずさった玉芙蓉は、強い力で抱きしめられた。漂う香りに相手の正体を知る。

「金鵄様!?」

 玉芙蓉は逃れようと必死でもがいた。しかし金鵄は引きずるようにして玉芙蓉を褥へ連れていく。

「金鵄様、お放しくださいませ。なにゆえここに……!」

「よくもこのように肥えたものだ。わたしに捨てられたことがそれほどこたえたか」

 衣の上から体をまさぐられ、玉芙蓉はかあっとなった。

「おもしろい女だな、そなたは。戸を閉めたということは貴王を拒むつもりか。もっとも、貴王がここへ現れることはないが……貴王は今、淑生舎におられるのだから」

「淑生舎……?」

 貴王が花陽妃を訪れた?

 いや、それよりも――。

「なにゆえ、ご存じなのですか? 王が今宵ここへお越しになるやもしれなかったことを」

 問うと金鵄はゆがんだ笑みを浮かべた。玉芙蓉は金鵄の企てを見抜き、唇をかんだ。

「わたくしをあざむいたのですね。あの文は王からではなく、あなた様が――」

 やはり偽りであったのだ。

 王が己を訪うことはない。あれは登華殿が見せた夢幻であった。

「悲しいか? しかしそなたは戸を閉めたではないか」

「お帰りくださいませ」

 玉芙蓉は言葉をかぶせ、金鵄をにらみ据えた。

「ここから出て行かれませ」

 玉芙蓉が入口へと金鵄を押しやる。しかし金鵄はその手をつかんだ。

「わたしを追い出して貴王にすがりつくか? それもよかろう。驚いたことに、貴王はわたしに嫉妬したのだから」

 玉芙蓉の顔をのぞきこみ、金鵄は薄く嗤った。

「そなたとわたしの仲を教えてさしあげたら、ひどくお怒りになった。あの貴王が」

 衝撃に打ちのめされた。

 ついに知られてしまったのだ。

 御殿に上がればいずれ漏れることと覚悟していた。しかし――。

 崩れるように玉芙蓉はへたりこんだ。とまらない涙が頬を伝い、顎にたまり、床へと滴る。

 金鵄がおもむろに腰を下ろした。頬に口づけられ、玉芙蓉は身をすくませた。

「いや……」

 顔をそむけると、今度は強引に唇を重ねられた。

「おやめくださいませ」

 玉芙蓉は抵抗した。しかし金鵄は玉芙蓉の衣を引き裂かんばかりに荒々しくはぎ取っていく。玉芙蓉が抗えば抗うほど、その黄色の瞳は剣呑な光を宿していく。

「そなたはわたしを愛したのだ。貴王ではなく、このわたしを」

「お放しくださいませっ」

 玉芙蓉はあるだけの力をこめて金鵄を突き飛ばした。金鵄が尻をついたすきに立ち上がり、御簾をめくり上げる。肌が透けて見えるほどに薄い衣一枚であったが、かまっている余裕はなかった。少しでも早く、遠く、金鵄から離れたいという一心で掛け金をはずし、戸を開く。

「玉芙蓉っ」

 金鵄の引きとめにふり返ることもせず走り出たところで、玉芙蓉は悲鳴をのんだ。

 眼前に何者かが立っていた。衣からすれば女であろう。しかし灯籠に灯される女の顔はひからびていた。

「かぐわしい香り……」

 長い髪が風になびく。のびてきた女の爪が玉芙蓉の額に食いこんだ。

 女の放つ悪臭に息がつまる。部屋を出てくる金鵄の姿が視界の端に映り、二人のつながりを結びつけた玉芙蓉の心が折れた。

「いやあああっ!」

 悲鳴は従蕾殿の廊を伝い、貴妃殿ならびに頌貴殿にまで響きわたった。

 まず近くの局で休んでいた女官たちが顔をのぞかせる。次に松明を持った衛士たちが駆けつけ、宿直をしていた若者たち数名も姿を見せた。

 女は身をひるがえして逃走した。放り捨てられて床に転倒する玉芙蓉を金鵄が抱き起こす。

「何事か!?」

 走り寄ってきた衛士たちが、ざわりと下がる。金鵄の腕の中の玉芙蓉は額から血を垂れ流していた。

「これは……」

「妖花だ。妖花が出た!」

「探せーっ! 探せーっ!」

 衛士たちが叫び回り散っていく。群がる女官たちに金鵄は大声を上げた。

「薬師を、早くっ」

 しかし女官たちは皆腰を浮かし、また立ちつくすばかりである。苛立った金鵄は宿直の男に怒鳴った。

「薬師を呼んでまいれっ」

 男が動揺に顔色を失いながらもうなずき、足早に立ち去る。そこへ、女官たちをかき分けて貴王が近づいてきた。寝衣ではなく、二藍の衣を乱れることなく身につけている貴王に、金鵄は目を細めた。

「何事だ、これは――玉芙蓉!?」

 金鵄に支えられている玉芙蓉に気づき、貴王が蒼白する。

「玉芙蓉、しっかりいたせ! 玉芙蓉!」

 奪い取るようにして玉芙蓉を抱き、貴王は必死の形相で呼びかけた。しかし玉芙蓉は貴王を認識せぬまま何かつぶやいている。

「いったい何があったというのだ? 誰がこのような……」

 自身の衣で玉芙蓉の血をぬぐい、貴王は玉芙蓉を局へ運んだ。

「玉芙蓉」

 褥に玉芙蓉を寝かせたところで再び名を呼ぶ。額の傷はかなり深くえぐられていた。

「……子……わたくしの子が……」

 玉芙蓉が天井に目を向けたまま独語する。貴王は眉根を寄せた。

「子だと?」

「あれはわたくしの子……わたくしの産んだ醜花が、妖花に……!」

「なっ……」

「わたくしの妖花がっ」

「玉芙蓉!」

「ああああっ」

 発狂する玉芙蓉を貴王は押さえつけた。わめきのたうつ玉芙蓉を入口で見つめていた金鵄は、そっと御簾を下ろして局を離れた。

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