夢想無双
遠い過去のお話。失われてしまってもう戻らないあの日のこと。あの日常が目に浮かんでくる。遠い幻のような夢物語。けれどそれは忘れ去られたあとだから。
目を覚ますといつものように僕は自室のベットにいた。ギリシャ神話と題された書物が新品同然の美品で枕元に鎮座していた。それを手でよけて起き上がる。窓から広がる陽光は僕の目を照射した。暖かな暖気に包まれた部屋は春の兆しを体現していた。
体が軽い。
床越しに騒ぎ声が聞こえる。僕は訝しげに頭をかきながら階段を下る。
「あ、お兄ちゃんがおや来たよ。」
満面の笑みの妹がそこにいた。
「航平、中学校とは違うんだぞ。」
父が新聞紙を大仰に広げて言う。父も妹も、そして母もそこにいた。食卓に座るみんなは朗らかな笑顔を咲かせていた。妹が手を振って言う。
「お兄ちゃん、またギリシャ神話で夜更かしたんでしょ。」
こ頭をかきながら、ああと曖昧な返事をする。ニコニコと笑う妹の横に僕は座った。隣の妹はシワひとつない紺色の制服を着ていた。
「今日、何かあるのか?」
新聞紙を広げた父が顔を少し見せて呆れた顔で言った。
「今日は有希の入学式だろう。それに航平、お前もだぞ。」
隣の有希は頬を膨らませて怒る。母は頬に手を添えて僕を瞳には入れながら言う。
「決して迷わないようにね、航平。決して迷うことのないように目印をつけなさい。」
庭の木とかね、と母は続けて言った。盃を逆さまにした口で母は笑う。妹は白米を頬張っていた。暖かな暖気がリビングを包み妹の軽口や父の言葉が面白おかしく感じる。
「不死鳥ってあの燃えてる鳥?」
妹が僕に問う。僕は数々の蔵書を読んだこの頭で答えを教える。
「あぁそうだよ。そして決して死なない鳥なんだ。」
僕がにこやかに答えると机越しに座る母が含みのある笑いをしながら言う。
「決して死なない代わりに永遠に迷ってるのよ。不死鳥は可哀想な子。あなたたちも迷わないように気をつけて学校に行くのよ。」
母の湯呑みは逆さまに机に置かれていて、母の目も逆さまの月のようで、思わず目を逸らしてしまう。
「ごちそうさまでした。」
家族全員で手を合わせて唱える。食卓の4脚の椅子にみんな座って食卓を埋め尽くす空き皿が並んで、皆それぞれ動き出す。
カバンを背負って妹は玄関に駆けて行く。父は新聞紙を折りたたんで奥間に消える。母は皿を洗っていた。僕は立ち尽くしていた。食卓のそばで何も持たず何もわからず立っていた。
「学校行かないの?」
母が食器をゴシゴシ吹きながら言う。僕はしばらくして応えた。
「うん…なんか分からないんだ。」
母は、妹が待っているよと言う。僕は生ぬるい息を吐いて、ああとだけ応える。
「ねぇ、航平。」
母の声のトーンが変わった。僕は母の後ろ髪に焦点を当てて続く言葉を聴く。
「あんたはどうなのかしらね…航平、ね。」
こうへい、を母は反復する。立ち尽くしたままの僕の眉は下がる。暖かな暖気は部屋の隅に引いて冷蔵庫から冷気が降りてくる。
「あなたは私と同じだわ。たとえあなたが死ねなくても、それは呪いじゃなくて…そうね、誰かを救うための権力なのよ。だから自分から逃げないでね、航平。」
それから母は食洗機に湯呑みを逆さまにして置いた。




