帰還しても尚香る残り火
「これは…本当に。」
「戻ってきたのか。」
僕は涙を抱えてそれを見た。垢で黒くなった背表紙にヨレヨレの冊子。戻ってきていた。
「ここはまだ大丈夫なんだよな。」
僕の瞳はもうここを旅立つ前の瞳ではない。あの世界を見たから。吸血鬼に何度も教えてもらったから。それとも僕が自分で押して…
呼び鈴が鳴った。僕は静かに息を整えて階段を降りた。服を少し整えて、そして深呼吸をして。僕は扉を開けた。向こうにいたのはあの男だった。
「信介の息子。ちょっと入っても良いか。」
ゲッソリと、そしていつもの蛾の衣装は着ていなかった。僕は少し目を丸くして驚いてみせたが、雄介をきちんと客間に導いた。雄介は風呂敷で何かを包んでいた。それが見えた。
お茶を湯呑みに入れて二つ机に出す。僕は雄介と正対して正座した。雄介も正座をしていた。
「初めに。」
雄介はそう言ってから深々と僕に向かって頭を沈めた。そして顔を上げると歯を食いしばった雄介は僕から目を反らして言った。
「今までの無礼を全て謝ります。」
それは僕が初めて聞いた雄介の言葉であった。雄介は僕の顔を見た。今度は逃げなかった。
「これを貴方に渡します。」
風呂敷の紐を緩めて開いて見えたのは、大きく分厚い一冊の本であった。
「俺は触れない。代わりに君がこの本を開いてくれないか。」
雄介は僕にそう言った。僕は静かにその本を手に取り表紙を確認した。
「鏡文字ですか。英語?なんですかこれ。」
「πρῶτοςだと我々は考えている。」
「あ、ギリシャ語。」
雄介は僕の応答に大きく頷いた。
「πρῶτοςは厳密には古代ギリシャ語で、意味は始まりの、原初の、という意味だ。」
「でも初めの語はどうみても漢字の『井』ではありませんか?二文字目は、どちらかというとキリル文字の『p』のような。」
「君はそう読み取ったか。さすがだな。」
もう一度本に視点を落として今度は中身を開いてみた。
書かれていたのは僕が知っている言葉だけで10は超える多言語の文章の洪水だった。
「日本で昔使われていた神代文字から、ラテン文字。やっぱりキリル文字。色々ありますね。」
「俺の仲間が調べた所、16世紀までに作られ普及された確認できるすべての言語と、それから四十の不明言語の存在が見てとれた。内容は各地域の伝承に始まり、最後には著者の見解と思想。そして不明言語で書かれた物語に不明な絵が書かれている。」
「それって…」
「あぁ。これはこの世の伝承の頂点に位置する書物だよ。それも神の設定書のようなものだ。」
雄介は悲しそうな顔でそう告げた。僕は疑問に思う。
「これはどこで見つけたんですか?あと、ずっと辛そうですけど何かあったんですか?」
「前にお前が代償で俺に渡した紙片を覚えてるか?」
「はい。」
「あれはこの世界ものではないんだ。あれを書いたやつはこの本の著者だ。」
「それはおかしい。」
「あんたも気づいているだろ?お前の母親が頭のおかしな人だったって。」
「ああ、吸血鬼にも言われたよ。」
「あの人は最後まで自分の遺物を残さなかった。この本は神獣に守られていた。そいつは飼い主以外を食い殺す存在だった。」
「だから母の香りが残るあの紙を。」
雄介は頷いた。そして身を大きく畳に打ちつけた。
「ごめんな。航平。俺はずっと間違えてたよ。」
「何がですか。」
「俺らは全員ずっとお前をカシウスだと思っていた。」
その言葉が僕の胸を押さえつけた。




