父の言葉
貸本屋である自宅について呼び鈴を鳴らす。誰の声も音沙汰もないのを確認してからポケットに手を突っ込んで合金の鍵を取る。拳に乗ったその鍵は黄褐色にくすんでいて、僕の手は金属粉で汚れた。
「ただいま帰りました。」
そう呟いて靴を脱ぐ。下駄箱に靴を揃えた後、紺色の学ランを脱いでから廊下の衣装棚にしまう。手を洗って顔を洗って自室に戻る。
勉強机に置きっぱなしの本を裏返す。
「なんだ、ギリシャか。」
ギリシャ神話と題されたその本はひどく汚れていた。手の垢がついていると言うかページがしなしなと言うか。勉強机に座った僕は目の前の電灯をつけて灯りを見出す。
小さな電灯の明かりが開いた本に影を落とす。ページを捲る音が続いた。
「これ…おかしいな。こいつは猫又の仕業だろ。」
眉間に皺を寄せる。岩手県民間伝承と題された書物を読み耽りながら時々、感想を口に出す。
「いや、猫又でも同義なのか。知らなかったな。」
何か納得したかのように頷いて、それからまた書物に目を落とす。僕の影は書物に落ちて、月の光はこの街に落ちていた。月光がカーテンの隙間を通り抜けて僕の机に差し込んでいることに気づいてようやく本を閉じた。
頭をかきながら階段を下る。一階には父がすでに待っているだろう。案の定、父が食卓にいるのを見て慌てて僕も席についた。机は大きな長方形の一枚板。椅子は全部で四脚。
「航平、学校の方はどうだ、楽しいか?」
父は言う。僕はぶりの西京漬けを箸で弄りながら答える。
「まぁまぁかな。本の世界って感じだよ。」
父のほっと吐く息の音を聞いた。僕は相変わらずぶりから目を離さず尋ねる。
「今日は客来た?」
僕は白米を顔に持っていきながら父に尋ねる。今度は父は俯いて答える。
「明日は来ると思うよ。」
そう父が呟いてから僕たちは無言になった。父は味噌汁を啜って、僕はたくあんを箸で摘む。外では風がトタン屋根を揺らしてその度に音が鳴っていた。
その騒々しい音を環境音にして沈黙の食卓を僕たちは過ごした。誰も座っていない二脚の椅子は物寂しさを助長していた。
僕がご飯を食べ終わって台所に下げた後、ようやく父が口を開いた。
「お前はここを継げ、この歴史ある貸本屋を。」
父の久しぶりに声を張ったその熱意に僕は…台所で手を洗いながら振り向きもせず、ただ言葉だけを伝える。
「当たり前だ、じゃないと僕は野垂れ死ぬから。」
父の様子は見えない。けれどそうか、と父の納得したかのような声を僕の耳は拾い上げた。
「お前は死なない。この一族の血を引く限り、お前は死なないよ。」
さんざん教えられた言葉に僕の胸が高まる。
(それは嘘だ…呪いだよ。)
階段を登るとき、父の様子が気になったけれど振り向かずに手すりに手を掛けた。
「盲信は駄目なんだよ、囚われたら失うんだよ父さん。」
父の耳に届くことはない、はっきりと小さくそうつぶやいて自室に戻る。カーテンを完全に閉めて勉強机の明かりも消した後、ようやく僕は布団に潜った。
「カシウス…明日はカシウスの槍でも読むかな。」
僕は読むだけだ。決して信じたりしない。無知を既知に変えて脅威を娯楽に変える。それを信条に成り下がらせたりしない。
だってそれは呪いだから。




