伝承
あの日から一週間ほど前の8月のこと。僕は厳島高等学校の廊下で彼女とすれ違ったことがある。そんな放課後の1日である。
長い廊下。高校二年生の教室が立ち並び、晴れやかな日光が照射する廊下で彼女が現れる。俯いて時々顔を見上げる僕。取り巻きに囲まれながら胸を張ってこちらに来る彼女。
「明日カラオケ行くー?」
取り巻きの女子どもがそんなことを言っている。一方、僕は俯いて目を合わせないように歩く。コツコツコツ。一人の陰と大勢に囲まれた光が交差してすり抜けて、それから別れる。
僕は決して振り返らない。
彼女が離れてから、猫背で俯いたままの顔をようやく上げて目にかかる前髪を手で払う。視界は少しだけ開けて、隣が図書館だと分かる。彼女たちはこのままカラオケに行くのだろう。後ろでコツコツと足音共にはしゃぎ合う甲高い会話が廊下に響いて響いて大音量で聞こえてくるから。
僕は耳を塞いだりしない。
ただ足を図書館に向けて靴を脱いで館内に入る。ただそれでいい。放課後に部活に行くことも、友達と遊びに行くことも僕には関係のないことだ。だから僕はこの館内で本を読むのがお似合いだし楽しい。
「伊吹山の茨木童子…」
一人、本棚に囲まれた中で椅子に座って伝承を読む影。それは僕の影で、この僕は大の物語好きだった。それは僕が観察者として滑稽な話を読むことができるから。それは僕が当事者にならずに傍観だけできるから。嫌いな内容なら本を閉じてしまえばいいから。まぁ、それだけでなく親が貸本屋というのもあるけれど。最近は貸本屋という言葉自体、見かけなくなったようで廃れているらしいけれど。
僕は自宅を思い出す。
誰もいない店内。薄暗い空間にチカチカと壁つけランプが光るのが見える。そのそばで蔵書を読む父。音は父のページを捲る音と僕の呼吸だけ。
いつだって言われたことだ。文字書きになるには本を読めと。そして小説を書くなら伝承を読めと。やはり貸本屋の息子なら本を読めと。つまり本は読むものだと。
「こっちは大江山か。酒呑童子だな。」
僕はページを捲る。日本の伝承が特に好きだけれど、僕の部屋には北欧神話とかクトゥルフ神話の本だってある。僕の部屋にあるそれらはみんなページが擦り切れて柱が垢で濃くなっていて買い替えたいけれど。
「神様はぼっちが多いんだよな。クシナダヒメとか可哀想でしかないし。」
図書館でも僕は一人、伝承を読む。気づけば太陽は沈み、館内の電気が落とされた。司書の声が聞こえた。
「誰もいませんか、閉めますよ。」
そう言われたからはい、とだけ言って椅子を立つ。本棚を抜けて出入り口に立つその司書さんにお辞儀してから出る。司書さんは眉間に皺を寄せてあんたも物好きねぇ、とだけ言った。僕は司書の顔を見ないように目を逸らしながら靴を履いて学校を去った。
帰り道は暗闇だった。通行人はスーツを着た大人か、タバコを口に持った金髪の男か、それぐらいである。学生の姿は見えない。僕の影は電柱の明かりに引き伸ばされてブロック塀の影とくっついた。コトコトと足音を鳴らしてカバンに民話伝承を入れて帰る。影はゆらめく。
「今日も、頑張ったよ。俺は。」
その言葉は独白で、僕の耳にしか届かない。小さくて低くておとなしい声。
安心感があるじゃないか。
自宅で今日も本を静々と読んでいるだろう父の元へこうして僕は帰った。




