カシウスの実がなる前に
8月の夏の日。街に生える巨大な大樹のそばで僕と彼女は話していた。
「私はカシウスの実が成るのを止める。でないと君が死んじゃう。」
目の前の彼女は今にも泣き出しそうな顔で言う。その顔がもう大丈夫じゃないのは僕でもわかる。
「もう…僕の目の前から消えないでよ。一緒に逃げればいいじゃんこの樹から。」
僕は彼女の裾を掴もうと腕を伸ばす。彼女は戸惑ったのか、困惑した様子で僕に告げた。
「あの時は逃げ出してごめんね。だから今度は私、絶対に逃げない。だから止めるしかないの。」
彼女は手を振って歩き出す。僕は眉間に皺をよせて彼女を見続ける。けれど彼女は気にもせず僕から去って行く。やがてその華奢な背中が見えなくなって、僕の右手は虚空を殴って床に垂れた。
「行くなよ、あんたにはあの木をどうすることもできない…死ぬだけだ。」
(不可能なんだ…カシウスを止めるのは誰にもできないんだ。)
彼女が消えてから大樹だけを眺めていたこの視界もぼやける。腕で目を擦っても治らない。
「あぁ…」
そんな時この耳は音を拾った。一閃の甲高い飛翔音が空から聞こえるのを。
「何が起きた。」
僕は顔を上げた。すると空から大量の葉が落ちてくるのに僕は気づいた。葉だけではない何か大きな物の地面への落下音と共に、轟音が空を駆け抜けた。
地平線の奥。大きな山の何十倍もある雲を突き抜けた大樹。地上の僕からはその全体すら見せてくれないその木の幹が割れていた。遠くからでもわかるくらいに大きな裂け目が樹皮に入っていた。
地鳴りがして空気が大波のように振動する。僕の髪は靡きに靡いて、上体は揺れに揺れた。立っていることも難しいくらいで、そばの電柱に掴まって立て直す。彼女の姿はとっくに消えたまま。
「あいつは本当にカシウスを止めたのか…」
あの亀裂が入った大樹は大きく二つに割れて地に沈んだ。先ほどとは比べ物にならない低い轟音が耳を駆け抜け、経験したこともない地響きが地を駆け巡る。衝撃波が大きな嵐を生み出し空を飛ぶ鳥たちは無理矢理、右往左往に飛ばされた。けれども彼女は戻って来ない。彼女はどこだ。
「どうしていつも…止めようとするんだ。そして、どうしてちゃんと止めれるんだよ。」
茫然と大樹が砕け死ぬのを僕はじっと電柱の影から眺めていた。大樹が砕けてバラバラに割れた後、完全に朽ちて枯れて消えた。何もなかったかのように消えた。暴風で飛ばされた屋根瓦も車も、地響きで亀裂の入ったアスファルとも僕が目を離した好きに修復される。元通りに戻される。まるで時間が戻ったかのように。
「おかしいだろ…あいつは本当に神様かよ。」
やがて雲が消え太陽が顔を出す。先ほどの衝撃波も先ほどの地鳴りも、それから轟音もそんなもの何もなかったかのように太陽が明るく街を照らし出す。その明るくて陽気な光がこの街を照らしていた。
あの子の姿は見えない。
あの子は僕の前にやって来ない。
あんなにも大きかった大樹が死んで消えたように、あんなにも一生懸命だった彼女もまた
…死んで朽ちる。
通行人も目の前を通る自動車も空を飛ぶカラスも自転車も親子も電柱も誰も気づいている様子はない。呆然と暇そうに道を歩く。何も気づかずに何も見えずにそいつらは歩いていた。
「また忘れられてしまうんだ、彼女は。存在も記憶も否定されて、最初からいなかったみたいにさ。」
彼女の姿は消えた。燦々と日光が降り注ぐ夏の空。活気ある雑踏にまみれた都市街。ゲリラ豪雨でもあったのかと笑い合う通行人。僕の拳には力がかかり爪が食い込んだ箇所から血が垂れる。僕は俯いて世界から目を逸らした。電柱に縋っていた僕はずり落ちて床に倒れる。それでも顔だけは上げなかった。
「彼女を忘れるこの世界に僕のいる意味はない。それがたとえ彼女が望んだ未来でも。」
僕が電柱のそばで倒れているからだろうか、通りかかる人々は僕のそばに来ると足をおそめたりひそひそ話したりする。子供は僕をおちょくり、大人は僕を蔑みのネタにする。警察は僕を不審に思いトラックの運転手はクラクションを鳴らす。
「正常な反応だ。異物に対するこの世界の正常な、正しい反応だ。」
そんな彼らもすぐさま興味を失って去って行く。立ち止まりはしても停止し続ける者はいない。所詮、不審でもどうでもいい者でしかない、記憶にも残らないんだ。
「それも、正しすぎる反応だよな。」
8月の青すぎて青すぎる空の下。ただの快晴な1日だと本気で信じて疑わない世界。僕を嗤う通行人。そして僕の忠告を無視して勝手に消えた彼女とそれから最後に…最後まで何も動かなかった僕。
「殺しても殺しても償いきれないよ、それはもう罪を超えた天災なんだみんな。みんなみんな頭がおかしい、忘れてはいけないのに忘れてしまう。それは天災なんだ。だから誰かが裁かないといけないんだ。」
クククと沈んだ口から笑いをこぼす。ずり落ちて床に伏した僕は右手をポケットに突っ込んだ。
「僕が望む未来は天災の存在しない未来、それだけ。その願いが叶うまで何度もやり直してやる。」
僕はポケットの装置を撫で回して、それから装置のボタンを押した。
世界が始まる前で、もう一度最初から始めよう。




