怒ってから怯えて泣いてそれから笑う。でも誰かは逆の事をしている
全てが死んだ世界。そんな世界で僕は雄介に出会った。彼の誘いを受け、この世界をやり直すことを決める。けれどもそんな僕に待ち受けていた新しい世界は予想外の幸福世界で。そばで笑う妹と台所にいる母。朗らかに笑う父。それは確かに僕の家族だけれども家族とは言えなくて。麗華も麗華じゃなくて、ここはどこだと自問する毎日。やり直すと決めたはずなのに最初から満たされていた世界でどうすることもできず、やるせ無い日々。そんな毎日から逃げていた僕の瞳に、今ようやく一筋の明かりが差し込んできた。ただしその明かりは紅色で、僕の血よりも紅い紅色だったことは言うまでもない。紅い光の先で小さな人型の影がやってきた。登場は刹那だった。
長い髪が光に照らされて反射する。けれども逆光でその影の顔は見えない。ただ時折、薄気味悪い笑みをこぼすだけ。それが何であるかは分かっていた。僕の知識は伊達じゃ無い。
「あんたは、吸血鬼か。」
薄気味悪い笑みはより一層深くなって僕の耳に届く。上空で止まっているその影は神通力でもあるかのように気味の悪いくらいにスムーズにこちらへやってきた。
「キュウケツキ?それがどうした。」
その返答に僕は思わず口を籠らせる。その鬼は僕の部屋にやってくる。やがて窓枠に足を乗っけた鬼は部屋の畳に足を置いた。着地音は聞こえなかった。
「なぜ僕の元にやってきた。」
その鬼に影はなかった。長い黒髪の奥、紅い瞳がうっすら見える。裂けた口はじわりと開いて鋭い歯が見えた。
「肝が座っておるのか、ただの愚者なのか。どっちなんだろうな小童。」
部屋に響くだけ響いて去ってしまうその冷めた声色はまるで冷酷な暴君のソレで、僕の知識上の吸血鬼ともよく似ていた。たとえ鬼、まして目の前にそれがいたとしても僕は怯めない。それは雄介のせいだろうか…それとも
「どっちでも無いよ。ただ僕はカシウスをどうにかしたいんだ。だからあなたに怯える余裕はない。」
その返答が場の空気を一掃したようだった。鬼の不敵な笑い声は静まり、代わりに僕の心臓の鼓動が速くなった。目の前にいる鬼は髪を真っ白な指でずらして紅い瞳をあらわにした。
「お前のような人間に昔二度だけ出会ったことがある。どっちも気味が悪かったね。」
その鬼は急に萎れたのか勢いを無くした。さっき部屋に入る時に踏みつけていた窓枠に今度は腰を下ろす。僕はその一部始終を観察してからふっと力が抜けたのか、畳にドスンと勢いよくあぐらをかいた。心臓の鼓動はまだ速いままだ。
「眼鏡をかけた坊主と、ありゃあなんだろうな。人でもなければ鬼でも無い。とはいえ他の怪異でもない。神でもなければ精霊でもない。そんな奴だったがそいつもお前と似たようなことを言っておった。それだけは覚えておる。」
カシウスと言っておった。そう鬼は続けて言ってからそれきり黙り込んだ。部屋の窓に腰を下ろして、本棚に目を落としていた。少し静かになった部屋で僕は先ほどの言葉を反芻した。僕が無意識に呼んだその吸血鬼の言葉だから。
「僕の家系は貸本屋なんです。昔から怪異譚が大好きで、だからあなたの話は面白い。聞いたことがないから。」
その鬼は本棚から僕の頭皮に目線をずらして真っ白な八重歯を見せるように口を開いた。それから言った。
「妾は面白い話をしにきたわけじゃない。だから面白い話はしない。けれども妾が無意識だっとししてもこの時間軸のこの座標軸に対して突発的に興味が湧いたのは理由があるはずだ。だから妾の都合でお前の話には付きやってやる。それにカシウスと言ったものな。」
その鬼はコホンと間を断ち切ってから口を開いた。
「カシウスを知りたいか。」
僕はコクンと頷いた。確認がとれて良い気になったのかその鬼は雄弁にしゃべりだした。
「カシウスとは槍のこと。似てるもので言えば、北欧神話にロンギヌスの槍が出てくる。あれと似たようなものじゃがあれと等しいものとは言えない。何せ北欧神話にカシウスは出てこないからな。」
一度喋り出せば洪水のよう。鬼の説法は終わらない。
「つまるところ神話的存在の槍っぽい何かじゃ。まあ恐ろしい力があるのだろう。カシウスってのはな。で、ここからが本題だが。聞いてるか?」
わざわざ僕に確認を取るあたり几帳面な鬼のようだ。僕は大きく頷いてから、聞いていますよと伝えた。鬼はうん、と了解して説法の続きを始めた。
「カシウスを知っている奴はそんなにいない。妾が出会ったなかではたった二人だけだ。眼鏡をつけた坊主に、得体の知れない何か。鬼でも人でもそもそも怪異的何かなのかすらわからない。魂があるのかないのかもわからん。真っ暗で臭いは強くて、それから引き込まれるような深みだった。まあその二人が妾の知る限りでのカシウスを知っていた奴じゃ。」
眼鏡坊主に謎の怪人。僕はそう脳に記憶する。そこに心当たりはあるかも知れないけれど、正しいかはわからない。一階ではいつものように家族が眠っている。夜は更けてきて僕の疲れも最高潮になる。
「有益な情報ありがとうございました。僕は手違いというか予想違いでこんな世界にやってきてしまいました。そうです、平行世界の住人とでも言いましょうか。どうしたら戻れるか知っていますか?」
話が少し変わってしまっても鬼は僕の話を聞いてくれているようだった、鬼は自身の話を大仰に喋る場が楽しかったのかも知れない。だから鬼はじっと僕の話を聞いている間は僕の目を見て聞いてくれていた。そんな鬼の答えはこうだった。
「そりゃ知っておる。妾はどの時間にもどの場所にも訪れることができるからな。けれども知っていたとして、妾がお前にそれを教える意味があるのか。どんな報酬があるのだ妾に。」
真っ白な指をビッと突き刺すように伸ばして鬼は言った。
「報酬はないですけれど、あなたって損得勘定で生きているのですか?吸血鬼はそんな世俗的な愚物に興味を持たないと読みましたが。」
鬼は突き伸ばしていた指をそっと戻して天井へ顔を向けて言った。
「お前の首を掻っ切って今ここで永遠の眠りにつかせることもできるし、魔術で我が下僕にすることもできる。それに何もせずにこの場から消えることだってできるし時間を遡ってもう一度別の問い方で説き伏せることもできる。可能性は無限大、故に妾は無敵なのじゃが…」
鬼は口を一度閉じてそれからまた開いた。
「何度やっても変わらない奴もいるのだよ。何度やり直しても何度別の方法を試みても全て防がれる。知っていたと言わんばかりにね。」
部屋の空気は重たくなり窓からやってくる風は消えた。僕は口を開いて尋ねた。
「それは…誰の話ですか。」
鬼は窓枠から腰を離して立ち上がった。見下ろすような立ち位置で鬼は言った。
「遠い昔。カシウスの縁で知り合った奴らだよ。どんなにね、妾の能力ではどうしようもなかった。絶対普遍の力でもあるのか、時間も場所も超越して支配する妾のスキルが効かなかったんだよ。神も殺せるのにね。だからカシウスつながりの奴は嫌いなんだ。殺されかけたからな。カシウスをお前は知っていた。カシウスの縁の奴らは危険じゃと知っている。故にお前も好いてはおらん。好かん男にどうして自分の秘術を見せんといかんのだ。それがお前の頼みに答えない理由だ。」
くるりとターンして鬼は背中を僕に見せた。黒い髪が紅い月光に照らされてガーネットのように輝く。
「僕はカシウスを破壊したいと思っている。カシウスを無くしたいんだ。それに僕は明確にただの人間。だから僕はあなたよりも弱く醜くただの愚物だ。人間なのだから特別な能力なんかない。だから恐るるに足らない。故にあなたが嫌うその奴らとは違う。だから僕に秘術を使って返してくれないか。」
けれどもその懇願は虚しく、その鬼が僕に振り向くことはなかった。一言だけ僕に告げてから窓を超えてそれから紅い月へ飛んで消えた。
「果たして本当にそうかな。」
そう鬼は一言去る直前、僕に言った。部屋を出る最後に吸血鬼が唯一残した名残。その残滓を僕は感じる。ポケットに手を入れて久しぶりにあの紙片を広げる。母の言葉がこもった紙片に何かカシウスについて書かれていないか確認しようと試みた。吸血鬼の去った部屋。平行世界の僕が居座るその拠点。そこには言葉を失った僕と、その僕の背中合わせに広がった影が不敵に揺れていた。
紙片の中身は日本語だった。いやそもそも紙片はないはずなのに。だからなんで僕は笑っている。すると空に太陽がでる。どうして青い空に戦闘機が飛んでいる。
カシウス
それは呪いの始まりだった
なぜ空が燃えている。だから僕は笑ってそれを読んでいる。
いつかに終わらせないといけない
ごにんのうちの誰かが
なぜ吸血鬼を僕は呼んだのだ。地獄の住人を連れてきた僕。でもそれが一番良いことでしょう。一階から叫び声が聞こえる。
でないと皆死ぬ
それはそれでつまらないものだろう
異臭が階段から始まる。轟音と共に空を駆け巡る戦闘機。窓から見える街はもう街の原型を保っていない。液状に溶けた盆地の街は綺麗な紺色をしていた。それを太陽はニヤけて嗤っている。
だからカシウス
死んでください
僕は大笑いした。太陽も大嗤い。でも世界は泣いていた。




