誘惑
市松模様の座布団の上で足を組む雄介。蛾を真似たような衣装を着る男に僕は眉を顰めた。8月の朝と昼の中間。朝ごはんも食べられずに彼の相手をしている僕の腹の音が客間に鳴り響いた。雄介は無関心を決め込み、湯呑みを逆さに置き直した。
「信介はどうした?アァ?」
ゲラゲラと声をあげてながら顔を上下に揺らす雄介。身を引いて雄介を睨む僕。長針が一周すると彼は僕の眉間を凝視し始めた。僕はため息をついてそれから口を開いた。
「知らないさ。ここはもう僕が跡を継ぐことになっているし。」
雄介は目をくりくりと光らせて目を逸らす僕の顔を舐めるように見渡す。長い舌が口を抜けてベロベロと僕の顔近くで遊ばせる。ニマニマと輝かせた笑顔で奴は言う。
「跡を継ぐことになっているカラァ?父さんのいない高校生がどうやって生活するんだよぉ。笑わせんな、逃げるんじゃないぞ父親からぁ。」
逃げる父親から。それは僕の胸に突き刺さる針のことのようで、キリキリとした痛みを感じる。雄介から目を逸らした僕は代わりに床の間の花瓶を見やりながら反抗した。
「それは本来すべきことであって、今の僕はその範疇にいない、だから良いんだよ。」
雄介は大きな目を閉じて長い舌を口に戻した。窓から暖かな夏風が吹いてきたのを感じてからようやく雄介は口を開いた。蛾の服は陽光で輝いて、彼の長い舌はハエを捕まえる。
「お前は例外だと?お前が特別だと?そんなこたぁ違う。ただの欠陥だ。お前は陥没した穴に閉じ込められているんだよ。だから動けない、だから逃げ出す、だから父親にも顔を向けれない。」
雄介は目をぐりぐりと煌めかせて僕の顔色を窺う。歯をグラグラと震わせた僕はゆっくりと雄介に目を合わせた。胸に拳を乗せて雄介を見る。カラカラと笑う彼の奥歯が恐ろしかった。
「特別か欠陥かなんかどうでもいいよ。正論を言って反応を見て嗤いたいなら他でやってくれ。」
彼の湯呑みを取ろうと手を伸ばす。すると彼が腕を押さえた。机に押し付けて動かさない。彼の目が大蛇のように輝いて僕を睨む。
「今のコイツはお前が触って良いもんじゃねぇ。行いには気をつけろよ?」
静かな部屋の中で雄介の言葉が響く。瞬きもしない彼の目。彼の目に睨まれて声を出せない僕に、雄介は言った。
「お前生きてて楽しいか?」
それは敵意が転んで興味にすり替わったようであった。再び彼の目が輝く。口は大きく開いてニマニマとしていた。
「楽しいと思うか?あんたは…」
雄介は眼球を一周させてから僕を一蹴する。湯呑みに置かれた腕は外れ、逆さの湯呑みが露わになる。
「死にてぇと俺は思うわな。お前の人生は最悪だもんなぁ。」
ケケケと笑う声が響く。僕は無言で過ごし彼の目はより大きくなる。視線は落ちて畳を映し、太陽が雲に隠れて部屋に暗がりができる。劇的に暗闇が部屋を支配する中、影が落とされた雄介の口が動く。僕は闇の中でそれを聞いた。
「やり直したいか?全てを。」
それは夢のような誘いだった。




