一話十七節『初音好実は対決する』
時刻は十八時。最終下校時刻まで残り三十分を知らせる校内チャイムが鳴る。
『十八時となりました。最終下校時刻まで残り三十分です。只今の時刻を以て、本日の校内共有施設の利用は、全て終了となります。残っている生徒の皆さんは、速やかに下校の準備をお願い致します』
放送委員が、一日を締めくくる校内放送を流す。
七月といえど、十八時の校舎の中は薄暗く、蛍光灯の影となる場所は、さながら肝試しの舞台。怖がりの生徒は立ち入りを躊躇しそうなほどだ。
昇降口では、最後まで活動していた運動部が下校を始め、ポツポツと人が流れ出す。
その時、その流れが一瞬止まった。
『生徒の呼び出しを行います。三年の梶原怜香さん。三年の梶原怜香さん。まだいらっしゃいましたら、生徒会室までお越しください。繰り返します――』
淡々とした京香の声で、校内放送がかかる。
昇降口では、数人の生徒が振り返り、スピーカーを見上げている。
中には、友人とヒソヒソ話をする生徒までいる。
だが、その中に怜香はいなかった。
*
生徒会室。時刻は十八時を十分過ぎている。
東の空はもう藍色に変わり始め、太陽は西の空に低く傾いている。
「来ますかね」
美穂はノートパソコンを開いたまま、不安げな声を出す。時折眼鏡を押さえては、黒い前髪を指で払う。
「来るわ」
京香は、ハッキリとそう答えた。怜香は授業が終わった後も、普段通り部活に精を出していた。逃げずに居続けたのだ。それは、捕まらないという自信の表れ。そして、生徒会への挑戦でもある。
怜香は、必ず来る。京香は、いつものように肘に手を添えて長い紺色の髪を優雅に垂らし、長テーブルの前に佇んでいた。
壁時計の針が、静寂の生徒会室に規則的な音を刻む。時刻は、十八時を十五分ほど過ぎた。最終下校時刻まで、残り十五分――
その時だ。
コンコン――と、生徒会室のドアが二回叩かれた。
「き、来たぁ……!」
明美がまるで幽霊でも出たかのような声を張り上げ、隣に座る美穂に抱きつく。
「明美ちゃん」
美穂は、半目で明美に視線を送ると、彼女の手を軽く叩いた。
「私にそっちの趣味はありません」
「酷くない?」
初音好実は、京香の横に並び立ち、『ふふ』と笑う。ツーサイドアップの右側を、そっと指でなぞり、ドアノブをじっと見つめる。
「どうぞ」
京香が透明感のある、しかし低い声で一言発する。
それを待っていたかのように、ドアがガチャリ――と静かな音を立てて、ゆっくりと開かれた。
「良かった。まだいたのね」
京香がそう声をかける。京香の言った通り、怜香は来た。まるで部活――いや、科学の実験でもあるかのように、セーラー服の上に白衣を羽織った出で立ちで。ポケットに右手を入れて。
黒髪のポニーテールは静かに垂れ、その目は京香を真っ直ぐに捉えていた。
「あの、なにか? もう帰ろうと思っていたのですが」
落ち着きのある低い声。しかし、どこか楽しさ、あるいは嬉しさを感じているかのように、その頬は、西の空のようにほのかに赤らんでいる。
「そうでしたかー? んふふ。白衣を着てらっしゃるから、てっきり実験でも始めるつもりなのかと思いました」
切り出したのは好実だ。怜香の仕草を真似るかのように、スカートのポケットに手を入れてくすりと笑う。
「ところで、なんの――」
怜香がそう言って、ポケットから手を出した瞬間だ。好実の口角が僅かに上がり、彼女はスカートのポケットから一つの物を取り出して見せた。
「これ」
それは、ミントタブレットのスチール缶だった。ライムの絵が印刷された缶。それを見た瞬間、怜香の眉間にシワが寄ったのを、好実は見逃さなかった。
「貴女のですよね? んふふ、いけませーん。ちゃんと分別はしないと。これ、燃えるゴミと一緒に捨ててありましたー」
「私のではありません」
「んふふ、そんなハズありませーん。ライムの絵ですー。貴女も同じ味でしたー」
怜香が唇を噛み、好実の喋り口に苛立ちを露わにする。好実は缶を上下させ、空っぽをアピールする。
「そんなもの、私以外でも食べるでしょう」
「ですがこれ、人気ないんですよー。んふふ、歯磨き粉の味がして、わたくし苦手です」
好実は再び缶を上下させる。怜香が右の拳を握りしめる。
「貴女のですよね? 貴女が捨てましたね?」
「私のじゃないって言っているでしょう! 私のは――」
怜香が右手をポケットに入れ、好実を睨みつける。白衣のポケットの膨らみを確かめると、好実は手のひらを怜香に対して広げるジェスチャーを取る。
「お持ちですか?」
「……」
怜香は苦虫を噛み潰したような顔で、その缶を長テーブルの上に叩きつけた。
「んふふ、これは失礼しましたー」
「これで満足?」
「はいー。けど、貴女コレ、自分で捨てると言ってました。中身ありませんよね?」
「いつ捨てようと、私の勝手でしょう?」
「確かに」
好実がそう言って肩を竦める。怜香が缶へ手を伸ばした時、その上に、京香の白い手がそっと重ねられた。
「これは、少し預からせてもらうわ」
「……好きにすれば」
怜香は吐き捨てるように言うと、踵を返す。
「ご用がそれだけならば、これで」
「いいえ。ここからよ、怜香さん」
京香の呼び止めで怜香の足がピタリと止まった。
「好実、任せるわ」
京香は、そう言うと目を細め、長テーブルの中央に腰掛ける。長い紺色の髪を背に垂らし、アッサムティーの紙コップを持つ。
好実は京香に軽くお辞儀をすると、怜香と再び向かい合う。
「ところで今日、何があったかご存知でしたか?」
「ロッカーで事件だったかしら?」
「盗難事件ですー」
「私になんの関係が?」
「貴女が盗ったんですー」
その言葉に怜香の眉が反応するが、すぐに取り繕った。両手はポケットの中だ。
「私が何を盗ったというの?」
「京香さんの下着――おパンツと、おまけのブラです」
「……人のブラをおまけとか言わないで」
「さすがこのみん、パンツにしか興味がない」
思わずツッコミを入れ、テーブルに肘をついて頭を抱える京香とは対照的に、明美は小さく拍手をする。
「女の私がなんの為に? たかが下着よ?」
「たかが、ですか」
好実の声から、間延びした響きが消えた。
「――おパンツは、乙女に穿かれてこそです。それを持ち主から引き剥がすなど、言語道断です」
怜香の視線が一瞬泳いだ。まるで好実の言った意味がわかったかのようだ。
「……んふふ、失礼。わたくしとは別の意味で、貴女にはあれが特別なものだったんです」
「……なぜ?」
「美穂さん」
好実の指示を待っていたかのように、美穂は『はい』と眼鏡を押し上げ、ノートパソコンを素早く反転させる。
怜香の視線が、そちらに向かい、唇を噛む。
『あんさー、図書委員いんじゃん』
表示されたのは、中島俊子を巡る例の噂の件だ。
美穂は書き込みを下にスクロールしていく。怜香のまぶたが小さく痙攣し、ポケットの中で拳を握り込んだのか、白衣の膨らみが大きくなる。
『マジ? てか、その噂って、どっから出た?』
『まーいっか。言っちゃうと、親衛隊だよ』
『親衛隊!? 誰!?』
『教えて君かよw 自分で調べろ。まあ、総隊長や特攻隊長ではないとだけ。わりと有名っつーか、バレバレだと思うけど』
「この『親衛隊』という呼び名、ストレートに捉えれば彼女ら、『京香様親衛隊』になります。しかし、注目すべきはここです」
美穂が、『わりと有名っつーか、バレバレ』の一文にカーソルを合わせる。
美穂の発言を好実が引き取り、二本の指を額に当てた。
「はいー、貴女、今日の発言を思い返してくださいー。科学部の部室に最初に訪れた時ですー」
「……」
「『京香さ……』と言いました」
怜香は、唇を噛み締めたまま首を左右に振る。黒いポニーテールが白衣の肩を叩く。
「さん付けが失礼だと思っただけよ」
「さん付け? 間違いありませんか?」
「ええ、そうよ」
「んふふ……それはおかしいですー」
好実がスカートのポケットに手を入れる。次の瞬間、怜香の表情が凍りついた。
『待って! 京香様は何を聴いているの!?』
「科学部にお邪魔した時、録音させていただきましたー」
もう一度、好実は同じ音声を再生する。今度は、ボリュームを引き上げて。
『待って! 京香様は何を聴いているの!?』
さらにもう一度。
『待って! 京香様は何を聴いているの!?』
「待って、京香さ――」
好実が、怜香の声色を真似てみせる。
「やめて!」
怜香は下を向き、叫び声を上げる。好実はスマホを取り出すと、それを長テーブルの上に置いた。
「お認めになりますか?」
「……認めるわ。中島さんへの噂を流したことは」
好実が肩を竦める。怜香は顔を上げると、一度、京香の方を向き、すぐに好実へ視線を戻す。
「なぜそんなことを?」
「気に入らなかったんです。彼女、京香様に頼りにされてたし、何より、スキー教室で京香様と相部屋だった」
ここで怜香は、思い出して怒りが復活したのか、ポケットから手を引き抜くと、勢いよく長テーブルへ拳を振り下ろした。
ドンッ――という鈍い音が生徒会室へ響き、明美が肩をビクリとさせた。
「京香様と相部屋になるのは私だったのよ! 一緒に部屋のお風呂に入って、夜は隣に寝て、一生の思い出にするはずだったの! それをアイツが奪った! だから噂を流してやった!」
怒りを顕にする怜香に、明美が美穂と顔を合わせる。
「うわ……ガチのヤツじゃん。しかも病み系」
「好×京は好きですが、このカップリングは推せないですね」
「そのカップリングも推さなくていいから」
思わずツッコむ京香だったが、言葉には力がない。
好実は一瞬、冷たい目で怜香を見るが、すぐに首を左右に振ると、古畑口調を続けた。
「そう、貴女にとって京香さんは特別だった。特別な女性でした。だから『親衛隊』と掲示板で呼ばれていたんです」
「あんなのと一緒にしないで。アイツらと私は違うわ」
「確かに違います。んふふ。彼女らは、抜け毛を拝借することはあっても、下着までは盗みません」
「そう考えるとさ、大概だよねー」
ニヤリとしながら話を振る明美に、京香は頭を抱えながら無言で返した。
「下着泥棒は私じゃないわ」
「いいえ、貴女です」
「私じゃない!」
「貴女しかいませーん!」
「証拠は!」
怜香が再び拳をテーブルへ打ちつける。怜香の右手が赤くなり、部屋に鈍い音が響く。
「美穂さん」
「はい。これを見てください。学園アーカイブ二〇二五の文化祭、科学部のショー、UVレジンによる複製です」
美穂はすかさず過去の映像を再生する。そこには、手袋をはめた怜香が、部員から印象材を受け取り、校章の型を取る姿が映っていた。
その後は、あっという間に小型のUVライトでUVレジンを硬化、複製する映像が流れていた。
「これをやったんですー」
好実は、怜香に向けて手のひらを向けた。だが、怜香は『フフフ』と笑う。
「ばかばかしい……まさか、それで鍵を複製したと?」
「違うんですか?」
「不可能よ! レジンの耐久度では、何度も使用できない。せいぜいが――」
そこまで言って、怜香は口篭る。好実がニヤリと口角を上げたからだ。
「ええ。確かにレジンの鍵では使えて二、三回でしょう。けど、それで十分なんです。貴女には」
「そんなのをいつ仕掛けたっていうの! そんな時間はなかった!」
怜香が感情に任せ、腕を振るう。その時、好実がスマホを取り出し、ある音声を再生させた。
『キャーッ! ゴキブリー!』
その音声に、京香の肩がビクリと跳ね、両肩を抱く。
大きく見開いた藍色の目にはハッキリと恐怖が宿っている。
好実は、怜香から目を離さないまま、京香の肩にそっと手を置いた。
「これをやったんですー。今はスマホ一つで声も作れます」
そう言って、好実が見せたのはボイスチェンジャーアプリだ。
「ボイスチェンジャーで自分の声を変えて、録音し、後は適当な頃合いで再生するだけです。確か、壁際にいたそうですね? んふふ、全体がよく見えそうです」
怜香は無言で、首を左右に振る。その表情には、焦りの色が窺える。好実はさらに続ける。
「その効果は一目瞭然です。京香さんはアレが大嫌いです。京香さんだけではありません。お嬢様学園なら、嫌いな人が圧倒的多数でしょう」
好実の後に続くように、美穂がプールの授業の映像を流した。
「騒ぎ直後の防犯カメラ映像です。この通り、着替え途中の生徒も含め、ほとんどが半狂乱でプールサイドに逃げています」
「隙は十分、ありましたー。それに、中島先輩は点検で残っていた。では、壁際で騒ぎが収まるのを待っていただけの貴女が、なぜ授業に遅れて出てきたのでしょう? 最後まで更衣室に残って、型にレジンを流していたからですー」
含み笑いをする好実に、落ち着きを取り戻した京香がさらに続く。
「あの時、更衣室内には生徒はほとんどいなかった。私は逃げ遅れた数人の生徒に囲まれ逃げられなかった」
「はいー。そこで京香さんは鍵を落としています」
好実が京香に手のひらを向けると、京香は静かにうなずき、言葉を繋げる。
「ええ。そして、しばらくしてから落ちてるのが見つかった」
「その一瞬で十分でした。パニックのふりをして京香さんにしがみつき、落ちた鍵を、ポケットの缶に詰めた印象材へ押し当てて型を取る。後は、何食わぬ顔で鍵を床に戻しておけばいいんですー」
美穂が眼鏡を押し上げて続ける。
「ちなみに、先の映像の通り、UVライトは小型の物が部の備品にありました。スカートのポケットに収まるサイズです。ご自身のロッカーの中でライトを当てて硬化させ、後は頃合いを見て、トイレを装うだけです」
「あ、ちなみにだけど、科学部のもう一人の部員ちゃん、彼女は京香ちゃんとは別クラス。プールの授業には出てないから共犯は無理だよ」
明美と美穂の補足に、好実は満足気にうなずく。そして、振り返ると、コツコツと足音を立て、怜香に詰め寄る。
「貴女には動機も、隙も、この通りあったんです。犯人は……貴女です」
怜香は一歩後ろに下がるが、すぐに好実に詰め寄られる。もう一歩下がるが、距離は開かない。
「違う……」
「どう違うんです?」
「貴女の発言は全て推論! ただ可能性を示しただけ! そのトリックは私以外にも出来た!」
好実がツーサイドアップの右側を指で巻き、コクリとうなずくと、怜香の顔に血色が戻る。
「そう、証拠がないわ! 決定的な証拠が!」
その発言を遮るように、席から立ち上がったのは京香だ。
彼女は、スマホを取り出すと、放課後の更衣室の写真を見せた。
「これは先ほど撮った、更衣室で私が使ったロッカーの鍵穴よ。僅かにだけど破片が付いてるわ」
「これは、レジンキーでこのロッカーが開けられたという証拠です」
詰め寄る京香に、好実がさらに畳み掛ける。
「この複製術が出来る生徒は限られていますー。さらに言えば、指紋も出るはずですー」
「……指紋?」
「そうです。美穂さん」
ここでまた、美穂はノートパソコンを叩くと、静かに立ち上がり、怜香の目の前まで歩いて一つの画像を見せる。
そこに写っているのは段ボールに入った、歯科用の特殊印象材の紙箱だ。
「先ほど、もう一人の部員さんに許可を取り、科学部を撮影しました。ここから指紋が出れば、決定的です」
美穂は自信を持って怜香を睨む。だが、怜香は肩を震わせ笑い始めた。
「……アハハハハ!」
「お認めになりますか?」
「ええ、認めるわ。そこからは指紋が出る」
手のひらを差し向け、確認する好実に、怜香は自信を示すように腕を組み力強くうなずいた。
「ええ。だってそうでしょう? 私は科学部。指紋なんて、付いていて当たり前じゃない」
怜香はハッキリとそう言った。だが、その台詞は勝利宣言ではない。それは――好実が待っていた台詞だ。
「……それはおかしいですー。んふふ」
「何がおかしいっていうの!?」
「美穂さん。さっきの映像を」
美穂は、すぐにキーボードを叩き、怜香に画面を見せる。
「見てください。このショーの映像を。ここでは貴女は手袋をはめています」
美穂は眼鏡を押し上げて続ける。
「さらに調べました。この印象材は運ぶときは部員さんが運び、その後、部活でも一度も使われていません」
美穂の言葉の意味がわかったのか、怜香の顔から自信の色が消え、組まれていた腕が下がる。
今は肘を抱いて、床を見ている。
「それは……それは」
「んふふ。付くはずがないんです。逆に。では、いつ付いたのか? 犯行の時しかありません」
「それは……」
「科学部ならあって当然。その油断が墓穴を掘ったんですー。んふふ。一度、ご自分の手袋の映像を確かめておくべきでしたねー」
「それに――」
好実が目配せすると、京香は静かに、預かっていた怜香のミントタブレットの缶を、長テーブルの上に置いた。
「こちらも、開けてよろしいですか? 『空っぽ』なんですよね? んふふ、まあ、タブレットは出ないでしょうねえ」
怜香の喉が、ひくりと鳴った。
好実はゆっくりと、牛歩よりも遅く怜香に歩み寄り、額に指を当てては、怜香に向けるジェスチャーを繰り返す。
「はいー。シンキングタイムスタートです。よおく、考えてください。一……二……三」
好実のカウントが進むたびに、怜香は視線を泳がせる。
「九……十」
好実は怜香の目の前でゆっくりと両手を開いた。
「さあ、言い訳をどうぞ」
言葉を失った怜香は、静かに膝から崩れ落ちる。
「……言い訳はないわ」
「認めますね?」
怜香は『ええ』と、静かにうなずいた。
─────────
続く……




