一話十五節『初音好実は(変態)淑女探偵である』
初音好実は、一人先に生徒会室へ戻っていた。中央の席――白百合の校章を象ったプレートが置かれた京香の席には、紙コップが一つ残されている。底には、彼女の好きなアッサムの香りがほのかに漂っていた。
時刻は十七時を三十分ほど過ぎ、窓の外の西日はすでに赤みを帯びている。
「不用心ですわよ、京香さん」
夕日に頬を染めながら、好実はイタズラっぽい笑みを浮かべ、京香が残した紙コップの縁を指でなぞった。縁の一点に、淡い桜色がうっすらと移っている。
「いくら女子棟とはいえ、よからぬ事を考える生徒は多いのです。これだって、立派な聖遺物に――」
そこまで言いかけて、好実は首を左右にブンブンと振った。ツーサイドアップが鞭のようにしなり、ぺちぺちと好実自身の頬を叩く。
「いけませんよ、好実。京香さんの唇……リップがついた紙コップにときめくなんて……ダメです。それだけは、それだけはダメです」
紙コップを持った右手が小刻みに震え、口元へ向かってじりじりと持ち上がりかける。そこを左手でぴしゃりと叩き落とすと、好実は親と今生の別れでもするかのような悲痛な面持ちで、紙コップをゴミ箱へ落とした。
コトン、と乾いた音がする。
「これで……これで良かったのです。これで。わたくしは淑女です。淑女探偵なのですから」
深いため息をつき、名残惜しそうに二度、三度とゴミ箱をチラ見してから、好実は天井を仰いだ。
「ここに防犯カメラがなくて、良かったですわ……美穂さんに、わたくしの秘めた想いが筒抜けになるところでした」
すでに筒抜けである――とは、好実は知る由もない。
*
一方その頃、明美は美穂と共に、エントランスの休憩スペースでくつろいでいた。ガラスの天板に夕日が長く伸び、橙色の帯を作っている。下校時刻を過ぎた今、人の往来はほとんどない。
「美穂っちー。なにかわかったー?」
明美はスマホの画面から目を離さずに訊ねた。親指が、目にも留まらぬ速さで画面を叩いている。
美穂は、明美に奢らせたミルクティーと購買のキャラメルを脇に置き、カタカタとキーボードを叩いていた。
「今のところ、女子寮に怪しい荷物が届けられた形跡はありませんね。管理人を通さない局留めなんかの荷物だった場合、厄介です」
美穂が『アクセス』で追えるのは、学園関係のシステムに限られる。その気になればどこへでも潜り込める……とは美穂本人の談だ。
だが、彼女もそのあたりの線引きは弁えている。
「そっかー」
明美の気の抜けた生返事に、美穂は一瞬だけ鋭い視線を向けた。が、キャラメルを口に放り込むことで怒りを鎮める。舌の上で、甘い塊をゆっくりと転がした。
明美が覗いているのは、学園の裏サイトだった。画面をタップする指が、さらに勢いを増していく。
『あんさー、図書委員いんじゃん』
明美の書き込みに、すぐさま返信がつく。
『図書委員の誰だよw』
『アレだよー。姫子』
姫子というのは、裏サイトにおける俊子の隠語だ。おそらく、あのおっとりとした佇まいからそう呼ばれているのだろう。
この裏サイトでは、建前上、生徒の名前は伏せられている。ただし、隠語によりある程度の特定が可能なのはいつの世もそうである。
『姫子がどしたー』
『金に困ってたって噂あんじゃん? アレってマジ系?』
明美は、件の噂を切り出した。
『そーいや、そんなのあったな』
『つーか、まだその話信じてんの? 情弱ww』
『一時期、仕事減ってたっぽいけど、今は実家好調だってよ』
『マジ? てか、その噂って、どっから出た?』
明美がそう書き込むと、それまで流れるように続いていた書き込みが、ぴたりと止まった。数秒の沈黙。画面の向こうで、誰かが様子を窺っているような間だった。
だが、次の一件で、再び流れが動き出す。
『まーいっか。言っちゃうと、親衛隊だよ』
『親衛隊!? 誰!?』
『教えて君かよw 自分で調べろ。まあ、総隊長や特攻隊長ではないとだけ。わりと有名っつーか、バレバレだと思うけど』
明美はそこで掲示板を閉じ、スマホをスカートのポケットにしまった。
「フフフ、美穂さんや」
「はい」
ドヤ顔で人差し指を立てる明美に、美穂は追跡作業の手を止めず、生返事をやり返す。
「私はわかってしまったのですよ。美穂さんや」
「へー、凄いですねー」
「フッフッフ! 聞きたいかね?」
明美の脳内では、完璧なシャーロック・ホームズのコスプレが決まっていた。鹿撃ち帽にインバネスコート、口にはパイプ。キラリと輝く瞳で、美穂へ意味深な流し目を送る。
「別にいいですー」
「それは――もーう! 美穂っちー!」
美穂の背後に回り込み、両手でほっぺをツンツンしてくる明美に、美穂は心底迷惑そうな顔を浮かべた。やがて、ため息と同時にパソコンをパタンと閉じる。
閉じる直前の画面には、こう表示されていた。
『須木友香→追跡結果――』
*
夕方の更衣室は、昼間とは打って変わって薄暗かった。あれほど鼻を突いていた塩素の匂いも、今はほとんど消えている。本来なら水泳部が活動している時間帯だが、事件を受けて今は無人だ。ロッカーの列が、影を落としたまま静まり返っている。
黄色い規制線をくぐった京香は、誰もいない更衣室の奥――今日、自分が使っていたロッカーの前で中腰になった。
「さて、どうしたものかしらね」
京香はジャージのポケットからスマホを取り出し、拡大鏡のアプリを起動した。画面の光が、彼女の指先を青白く照らし出す。
調べるのは鍵穴だ。
容疑者の一人、中島俊子。彼女は、鍵を構成する部品や機械を作る工場の娘だ。その気になれば、家から検査用のピッキング道具を持ち出すこともできる。
「もし彼女が犯人なら、鍵穴に何らかの痕跡が残っているはず」
ピッキングは、細い金属の工具で内部のピンを一本ずつ押し上げていく手口だ。熟練者でも、工具の先端が金属を擦る以上、傷が残る。京香は拡大鏡と同時にライトを点け、鍵穴を入念に照らした。
暗がりに沈んでいた鍵穴の奥が浮かび上がり、拡大された内部がスマホの画面に映し出される。金属の内壁が、細かな光を跳ね返していた。
「少し荒いわね」
京香は拡大鏡アプリの設定を弄り、倍率とピントを調整した。次第に画面のざらつきが落ち着き、内部の様子が鮮明になっていく。
擦り傷は――見当たらない。
代わりに、ピンの縁に、金属とは明らかに質の違う、鈍い艶を帯びた何かがこびりついていた。
そして――
「これは――!」
─────────
続く……




