一話十四節『初音好実とインスタントコーヒー』
京香と一階へ降りる階段の踊り場で別れたあと、好実は珍しく深いため息をついた。窓から差し込む西日が、彼女の髪を淡い橙色に染めている。
「はあ……わかりますよ、寿喜男さん。貴方の辛さが」
好実は自身の胸にそっと手を当て、やがて天を仰いだ。
古人曰く、精神は肉体に宿る。いや、この場合は今の肉体に精神が引っ張られたと言うべきだろう。
今の好実は、初音好実という一人の少女としての自我を持っている。その意味では、彼女の前々世――初見寿喜男という男は、もうどこにもいない。
だが、彼女にはその記憶と、魂に刻まれた強い想い――すなわち『初見寿喜男』という男の残滓が、今も確かに残っている。
初見寿喜男は、好きなものに囲まれて個人としての幸せこそ全うしたが、最後まで非モテであった。
ゆえに、相沢京香から向けられる何気ない視線や、ふとした拍子の接触は寿喜男の残滓をこれでもかと刺激し、ひいては好実自身をも苦しめるのだ。
つまり……
『京香たんマジ尊い』
と、いうわけである。
「いけませんよ、好実。京香さんはあくまで、女子同士の友情として接してくださっているのです。そこを履き違えてはいけません。これは恋愛ではないのです。ないのですよ……」
自分に言い聞かせるように繰り返しながら、好実は胸を押さえ、壁伝いによろよろと歩いていった。
*
放課後の科学部部室では、白衣姿の梶原怜香が一人、早くも文化祭の計画をノートに書きつけていた。
実験台の上には、ミントタブレットの缶、電気ポット、マグカップ、紙コップの束、インスタントコーヒーの瓶が雑然と並び、持ち主の性格を物語っている。壁際の棚では、薬品瓶と段ボール箱が肩を寄せ合っていた。
「……今年の文化祭は……」
怜香は独り言ちながらペンを走らせては、そのページを破り、丸めて脇へ置いた。何度も繰り返したのだろう。ノートの綴じ目には破り跡が幾重にも重なり、紙の端が毛羽立っている。丸められた紙屑も、すでに五つ六つ転がっていた。どうやら今年の出し物は、なかなかまとまらないらしい。
しかし、その顔に苛立ちはない。むしろ清々しく、憑き物が落ちたかのように晴れやかだった。唇の端が、わずかに緩んでいる。
「……これでいいわ。きっと上手くいく」
そう呟いた、その時だ。
コンコン――!
ノックの音に、怜香のペンがぴたりと止まり、眉がかすかに動いた。二、三秒の間を置いて小さく息を吐くと、一度唇を噛んでから口を開く。
「どうぞ」
ガラガラと引き戸が開き、好実が後ろ手を組んだまま、にこにこと笑顔を浮かべて入ってきた。怜香は下を向いたまま、顔を上げようともしない。指先は、ノートの端を押さえたままだ。
「まだ何かあるんですか」
「こちらを見ないで、よくわかりましたね」
「誰かが訪ねてくることなど、まずない部活ですので」
怜香はちらりと好実を見やると、すぐに視線をノートへ戻した。そして何気ない手つきで、実験台のミントタブレットの缶を右のポケットにしまう。
好実の視線が、ほんの一瞬だけそのポケットを撫でる。
前に来た時、あんな缶は台の上になかったはずだ。
「それで、何の用ですか?」
その言葉を待っていましたとばかりに、好実は『んふふー』と笑う。
「はいー。実はわたくし、コーヒーが飲みたくてですね」
『コーヒーが飲みたい』
あまりに予想外で素っ頓狂な物言いに、怜香は怪訝な顔を浮かべた。手元が狂い、ペン先が紙の上に黒い線を一本引いたほどだ。
「はぁ……?」
「んふふー。わたくし、そこのネスカフェが大好物でして。ゴールドブレンド、好きなんですよ」
「……で?」
好実は口調を崩さず、顔の前で両手をグーパーと開いては閉じる、独特のジェスチャーを交えて続けた。怜香の眉がわずかに寄り、表情に苛立ちが滲む。
「ですけどね? 京香さんは大の紅茶党なんです! おかげで生徒会室には紅茶しか置いてなくて、わたくし、ちっとも飲めないんですよー」
京香という名前が出た途端、怜香の顔から苛立ちがすっと引いた。ほんのわずかな変化だが、好実はそれを見逃さない。好実の口角が、微かに持ち上がる。
「……お好きにどうぞ」
「んふふ、ありがとうございますー」
好実はぺこりと頭を下げると、怜香の脇まで回り込み、紙コップを一つ抜き取ってコーヒーを作り始めた。瓶の蓋を開けて粉を落とし、電気ポットのボタンを押す。湯の注がれる細い音が響き、香ばしい香りが静かな部室に広がっていく。
好実は紙コップを軽く揺らして香りを立たせながら、さりげなくノートを覗き込んだ。途端、怜香の腕がノートを覆い隠し、鋭い眼光が好実を射抜く。
「コーヒーは、盗み見の口実ですか?」
好実は大袈裟に肩を竦め、そそくさと実験台の反対側へ戻ると、紙コップを両手で包み込んだ。
「何を書いていたんです?」
「言う必要がありますか?」
「んふふ、気になりますー」
「……文化祭の計画ですよ」
再び好実の口角が上がる。今度は、先程よりもはっきりと。
「文化祭。いいですねー。生徒会は風紀委員と合同の巡回がメインですから、当日はほとんど楽しめないんですよ。羨ましいですー」
怜香は何も答えず、ただペンを走らせる。紙の上を滑るペン先の音が、規則正しく続いた。
「で、何をやるんです?」
「……決まっていません。決まっていたとしても、教えません」
「では、去年の文化祭は?」
怜香のペンが止まり、眉間に皺が寄った。
「去年……?」
「はいー、去年です。いえね? 明美さんが去年の科学部をべた褒めしていたんですよ。それで気になってしまって」
「なら、彼女から聞けば?」
怜香はノートに視線を戻し、ペンが再び動き出す。
「明美さんは今、珍しく忙しいんですよー」
「なら、学園アーカイブで見ればいいでしょう。図書室のタブレットで閲覧できますよ」
「もう退室時間を過ぎていて、図書委員の皆さんしか入れませんー」
「一人、ノートパソコンを持ち歩いている人がいませんでしたか? 彼女に頼めば?」
「美穂さんも別の作業中なんですー。んふふ」
好実の含み笑いに、怜香はため息を漏らした。だが、ペンは止まらない。
「私も忙しいので」
「あらら……残念です」
好実はまたしても肩を竦めると、紙コップを実験台の端に置いた。それから、セーラー服のポケットから今どき珍しい古い型の音楽プレイヤーを、わざわざ取り出してみせる。
「音楽を聴いてもよろしいですか?」
「……音を漏らさないなら」
怜香の声が低くなり、ペンの動きがわずかに鈍る。好実はそれを横目で確かめてからイヤホンを耳に差し、再生ボタンを押した。
途端に、軽快なポップミュージックがシャカシャカと漏れ出す。
「……んんっ!」
怜香があからさまな咳払いで不満を示すと、好実はイヤホンの片側を外した。
「もしかして、聴きたかったですか?」
「漏れているの、わかりませんか?」
好実は三度口角を上げ、『んふふ』と笑う。
「失礼しました。これ、京香さんが大好きで、いっつも聴いている歌なんですよ」
好実はたっぷりと溜めてから、『京香さん』を強調した。怜香のペンが、ノートに押しつけられたまま止まる。ペン先の下で、黒い点がじわりと滲んで広がっていった。
「……で?」
「はい?」
「それで、何を聴いているのですか?」
好実はぱちぱちと瞬きを繰り返し、首を傾げた。外したイヤホンからは、なおも歌声が漏れ続けている。
「知りたいですか?」
「……音が漏れているので」
「わたくしがお訊ねした文化祭の内容は、教えてくれませんでしたー。不公平ですー」
怜香は唇を強く噛み締め、ようやくペンを置いた。ノートの上には、滲んだ黒い点が一つ残されている。
「では、私が言えば、そちらも言うんですか?」
「やっぱり、知りたいんですね?」
好実のしたり顔を、怜香は見ないフリをした。視線はノートの端に落としたままだ。
「中途半端に焦らされれば、誰だって気になります!」
「では、そちらから先にどうぞ」
好実がスッと手のひらを差し出すと、怜香は観念したように、静かに語り出した。
「……科学複製マジックです。特殊な材料を使って、校章を複製しました」
「なるほど。それは凄いですねー」
好実は音を立てずに小さく拍手をしながら、視線をそっと棚の上へ滑らせた。そこに置かれた段ボール箱の側面には、マジックで『二〇二五年文化祭』と書かれている。
「……私は言いました」
「はい……?」
「私は言いました。そちらも約束を守ってください」
「わたくし、約束なんてしましたか?」
好実は首を傾げ、しゃあしゃあと言ってのける。怜香の表情が、今度こそはっきりとした苛立ちに染まった。
「『こちらも言う』とは、一言も言ってませーん。あ、そろそろ失礼しますねー」
言いながら、好実はスカートのポケットの中で、そっとスマホに指を添えた。
次の瞬間、軽やかな着信音が鳴り響く。
「あら、京香さんからですー……はいはい、すぐ戻りますー」
画面もろくに見ずに耳へ当て、好実はくるりと踵を返した。
「ちょっ!?」
怜香が椅子を鳴らして立ち上がる。
「待って! 京香様は何を聴いているの!?」
引き戸に手をかけた好実の背が、ぴたりと止まった。
京香『様』
以前、ふと口を滑らせた時、彼女はすぐに『会長』と言い直した。だが今は、言い直す気配すらない。
好実はスマホを耳から下ろす。通話など最初から繋がってはいない。そのまま肩越しに振り返った。
「そうそう。実はわたくし、コーヒーが苦手なんですー。んふふ」
実験台の端には、一口も減っていない紙コップが置き去りにされていた。
「――っ!!」
ついに、怜香の怒りが弾けた。歯を食いしばってポケットに手を突っ込むと、ミントタブレットの缶を掴み出し、引き戸めがけて投げつける。
カーンッ――と甲高い音を立てた缶は、実験台の脚に当たって跳ね返り、二度、三度とバウンドした。缶が床を転がる軽い音が、狭い部室に虚ろに響く。
「危ないですー」
好実は廊下へ出しかけていた足を戻し、しゃがみ込んで、足元まで転がってきた缶へ手を伸ばした。
その時である――
「触るな!」
好実の指が、びくりと止まった。缶の縁まで、あと数ミリというところだった。
「……ゴミぐらい、自分で捨てる。触らないで」
低く押し殺した声だった。怜香は肩で息をしながら、好実ではなく床の缶だけを睨みつけている。
好実は何も言わずに静かに立ち上がると、軽く頭を下げて部室を後にした。背後で引き戸が閉まる。
(音は軽かった。中にタブレットは入っていない。ただの空き缶。それなのに――)
怒りに任せて投げるなら、ペンでも紙屑でも、手近な物はいくらでもあった。それでも彼女は、わざわざポケットに手を入れて、あの缶を選んだ。そして、拾おうとした途端のあの剣幕。
ただのゴミなら、触らせない理由などない。
(アレは、彼女にとって、ゴミではない)
好実はツーサイドアップの右側を指でくるくると巻きながら、西日の伸びる廊下を歩き去った。
(彼女、クールを装っていましたけれど、案外激情家のようですわね)
─────────
続く……




