一話十二節『初音好実は微笑む』
放課後十七時の校舎は、人の気配がほとんど消えていた。廊下を渡る足音は遠く、壁時計の針が静かに動き続ける。
初音好実は長テーブルの端の席に腰掛け、焦ることもなくぼんやりと窓の外を眺めていた。中庭ではまだ数人の生徒が立ち話をしており、グラウンドでは運動部の掛け声がかすかに届く。
男子校との境の塀には、夏休み明けに本格始動する文化祭の準備を応援するポスターが何枚か貼られていた。
「容疑者が出揃いましたわね」
好実はそう呟くと、塀のポスターに目を留めた。
「もういくつ寝ると、文化祭の準備ですわね」
「文化祭、楽しみだねー!」
真っ先に反応したのは、やはり明美だった。明美はガッツポーズを取ると、握った拳をマラカスでも振るように上下させる。ポニーテールがそれに合わせて揺れた。
「なにを言っているんですの? 生徒会は文化祭を楽しむ余裕はありませんわよ?」
好実は明美がなにを考えているか半分察したが、面白そうなのであえて口に出した。案の定、明美は釣られる。
「えー、少しぐらいいいじゃん! 去年だって……!」
言いかけて、『しまった』といった顔を京香へ向けた。京香は腰に手をやり、目を細めている。
「去年だって……? 続きは?」
「それはー……良くないかなー。仲間を疑うのは、よくないと思うなー……」
シドロモドロになる明美に、美穂がトドメを刺した。
「明美ちゃん、去年『科学部のショーが見たくて、体育館の巡回担当に立候補して正解だった』って言ってましたよねー」
「この裏切り者ー!」
「……今年は明美を巡回から外さないとダメね」
長テーブルに肘をつき、京香は呆れ顔で明美を見る。明美はテーブルに突っ伏し、隣の美穂を恨めしそうに睨んだが、彼女は涼しい顔でノートパソコンを開いた。
画面の光で、彼女の眼鏡がキラリと輝く。
「科学ショー……わたくしも見てみたかったですわねえ」
好実のその一言に、美穂はキーボードに指を添えて視線を送った。
「映像、出しましょうか?」
しかし好実は首を横に振った。
「お楽しみは取っておきますわ」
「本当に、この中に犯人いるのかなあ……」
明美は突っ伏したまま、ノートパソコンに映る三人の顔を指でつつく。
「いるわ」
京香はハッキリと確信を込めて言った。そして言葉を繋げる。
「美穂が解析してくれた映像から、あの時動けたのはあの三人だけ。なら、誰かが――」
「決定的な嘘をついている。もしくは、事実を隠している」
好実は京香の言葉の後に続け、京香はこくりとうなずいた。
「……と、いうわけですわね」
「ええ」
「では、情報を整理しましょうか」
美穂はそう言うと、ノートパソコンを反転させ、皆に映像を見せた。
「まずは一人目、水泳部の須木友香先輩です」
「京香ちゃん親衛隊の特攻隊長で、かなりのガチ勢だったよねー! ガチヤバ過ぎて草も生えなかったよ」
(……今のヤングはネットでなくても『草』とか言いますの?)
明美の今風の語りに好実は目を丸くしたが、すぐに視線をノートパソコン画面に戻した。
「そのガチ勢の彼女ですが、それだけに動機もガチです」
「京香ちゃんの生下着とか、お宝過ぎるよねー!」
「……ふんす!」
「そこ二人、変なの想像して興奮しない」
「わ、私は別に……!」
美穂は常識人ぶって否定するが、実際のところ、彼女の常識人の仮面は眼鏡よりも簡単にずり落ちている。今も耳の先がわずかに赤くなっていた。
京香は咳払いを落とすと、ジャージのポケットからロッカーの鍵を取り出した。チャリ、と金属の小さな音が、静かな生徒会室に響く。
「友香さんはロッカーキーの『恋のおまじない』をしきりに気にしていた。これは明美の言ね」
「うん。多くの人が目撃してるし、間違いないよ」
「その行動は、鍵の複製のためとも見られます。実際、水泳部の彼女なら、今日までに全四十個の番号を集め切ることも可能でしょう」
明美の証言に、美穂が補足をする。
『須木友香』
現状、最も強い動機と、そして明確な手段を持つ人物である。美穂は続ける。
「次に先程会った中島俊子先輩に行きましょう」
「彼女は例の騒ぎの際、『アレへの耐性』を理由に、ロッカーを物色でき、そして更衣室へ残り続ける理由が作れる人ですわ」
好実のその一言に、京香がピクリと眉を動かした。テーブルの下で、指がわずかに動く。
「……そう言えば、確かにあの時、彼女は最後の方まで更衣室にいたわね」
「正確な情報はわかりますか? 京香さん」
好実は京香に目線を送るが、京香が記憶の海を潜るよりも早く、美穂がキーボードを叩いた。
「映像出しました。水泳の授業、騒ぎ直前のプールサイドです」
画面には、斜め上から見下ろしたプールサイドが映し出されていた。
まだ誰もいない、静まり返った水面。右上の隅には、更衣室へ続く連絡通路の出入口が小さく映っている。
「ここから三十倍速で流します」
美穂がキーを叩いた瞬間、出入口から人影が一斉に溢れ出した。制服のままの生徒、スクール水着に着替えかけの生徒が入り乱れ、蜘蛛の子を散らすようにプールサイドへ逃げていく。
「うわー……地獄絵図じゃん」
「……」
京香は無言で、テーブルの下で好実のスカートの端を握り、好実は何も言わず、その手を上からそっと押さえた。
「ここで一時停止します」
美穂は避難した生徒たちの顔に、例の人物トラッキングの黄色い枠を重ねていく。
「避難した生徒の中に、須木先輩はいます。ご本人の『一緒にパニックになっていた』という証言どおりです。ですが――」
美穂は眼鏡を押し上げた。
「中島先輩と、梶原先輩はこの中にいません。そして、京香さんも」
「私は、しがみつかれて動けなかったもの」
「梶原先輩は『壁際にいた』と仰っていましたね。こちらも証言どおりです」
美穂の淡々とした説明に、明美が『ふーん』と頬杖をつく。
「じゃあ、残ってたのは京香ちゃんと、中島先輩と、梶原先輩と……あとちょっと?」
「ええ。では、続きを流します」
騒ぎが収まり、逃げた生徒たちが恐る恐る更衣室へ戻っていく。しばらくして、今度は水着に着替えた生徒たちが、ぱらぱらと出入口から姿を見せ始めた。
その中に、京香の姿もある。腕を組み、背筋を伸ばしたまま歩いている。
「京香ちゃん、腕組んでるー。会長っぽーい」
「……うるさい」
やがて体育教師が笛を吹き、授業が始まる。整列する生徒たち。その列に、まだ二つ分の空きがあった。水面が青く光り、人の影が細長く伸びている。
それから一分ほど遅れて、出入口から二人の生徒が、ほぼ同時に姿を現した。先に出てきたのは、お下げ髪を水泳帽にしまった中島俊子。その半歩後ろに、長い髪を帽子に押し込んだ梶原怜香が続く。
二人は小走りで列の端に並び、教師に軽く頭を下げた。
「出ました。授業に遅れたのは、この二人です」
「やっぱり中島先輩、最後まで残ってたんだ!」
明美が身を乗り出す。画面の光が、明美の顔を照らした。
「ロッカーの点検をしていたのなら、遅れるのも当然ですけれど……」
好実は髪の右側を指で巻きながら、画面の俊子を見つめた。指の動きが、ゆっくりとしている。
「逆に言えば、誰にも見られずに、更衣室で一人になれた時間があった、ということですわね」
「一人じゃないわ。怜香さんも一緒に出てきてる」
「ええ。ですが、梶原先輩は『壁際にいた』と、ご自分から仰っていましたもの。残っていたことに嘘はありませんわ」
好実の言葉に、京香は小さくうなずいた。テーブルの下の手は、まだ好実のスカートを掴んだままだ。
画面の中の俊子は、列に並ぶと、何度もお下げ髪のあったはずの首元に手をやっていた。
「映像はここまでです。正直、個人的には中島先輩が容疑者筆頭だと予想します」
美穂は眼鏡を押さえ、低い声で言った。
「その根拠を聞いても宜しくて?」
「もちろんです。好実さん。まず、彼女は騒ぎを自ら起こせる立場にいます。京香さんのお話では、結局アレは出ませんでした。さらに言うと、悲鳴を最初にあげた生徒も不明です」
「誰も見てない。誰が声を出したのかもわからないって、正直おかしいよねー?」
美穂の分析に、明美も続く。頬杖の肘が、テーブルを軽く叩いた。
「須木先輩にも疑わしい要素は十分あります。しかし、彼女はここで逃げています」
美穂の分析に、ここで待ったをかけたのは京香だった。
「けど、友香さんとて、その騒ぎは利用できたわ」
美穂は身を乗り出し、興味深げに眼鏡を押さえる。
「……どういうことです?」
「友香さん犯人軸の手口を思い出して? 彼女の場合、手口は鍵番号からの合鍵。つまり、更衣室に残る理由がない」
京香がそこまで言うと、意図を理解したのか、美穂が『あ……』と声を出す。指がキーボードの上で止まった。
「なるほど……騒ぎで真っ先に逃げた須木先輩なら、『アレが苦手な人間が、アレの騒ぎを起こすはずがない』と思わせられる。そのうえで、更衣室に残るであろう中島先輩を、スケープゴートに出来る、と……」
美穂の答え合わせに、京香は『ええ』とうなずき、続けた。
「実際、彼女は残り、そして『小遣いに困っていた』という噂もあった。この噂の出処、もし友香さんなら、決定的になる」
「うわー……そうなると、どっちも怪しいよ!」
明美はポニーテールを振り乱す。そんな中、好実は一人画面のある一点を見つめ、微かに笑っていた。
─────────
続く……




