一話十一節『初音好実とガムテープ』
「このみんは話を聞かなくてもいいの?」
暗がりが広がる図書室の書庫の中、明美が好実の袖を軽く引き、耳元で囁いた。
好実の数歩先では、すでに京香と俊子が向かい合っている。書架の狭い通路を挟み、互いの呼吸が届く距離だ。好実には、それが探り合いの始まりに見えた。
「大丈夫ですわ。こういう時は、京香さんの方が適任ですもの。なにせ、生徒会長ですから」
氷の姫――アイシィプリンセスの名は伊達ではない。今でも、京香と対峙した者は大なり小なりその気迫や佇まいに圧倒される。
もし相手が嘘をついているなら、その気迫は嘘を引き出す武器になると、好実は判断していた。
「さて、わたくしはお手並み拝見……と」
好実はしゃあしゃあと書庫内を歩き出した。スキップでもするような軽い足取りだ。
内部の本棚はどれも過積載のダンプカーのようで、寄贈本を含め、収めきれない本が棚の上に段ボールいっぱいに積まれている。棚の横には未使用の段ボールと、端が乾いて痩せたガムテープが立てかけられていた。
好実はガムテープを見つけると、指先で端を少しちぎり、手の中で丸めてポケットにしまった。動作は自然で、本を探している人間の動きに紛れている。
明美はその一連を目で追っていたが、何かを企んでいると悟ると、ただニヤリと笑った。
好実は何事もなかったように奥へ足を進める。本棚の間はすれ違うことさえままならない。背伸びをするように上段を眺め、時折指先で背表紙をなぞる。
その動作は『本を探している』ように見えるが、実際には京香たちの声を聞きながら、俊子の立ち位置と視線の向きを確認していた。
俊子の右手が、肩に垂らしたお下げ髪に何度も触れているのが、暗い中でもわかる。
「俊子さん、更衣室の件では助かったわ」
切り出したのは京香からだった。声は柔らかく、感謝を表に出している。
「え?」
俊子は一瞬、拍子抜けしたような声を出した。すぐに笑顔を向けるが、その右手はお下げの先を指で絡めている。
「お気になさらなくてもよかったのに」
表情は穏やかだった。だが京香は、その手元を見逃さない。指の動きが、言葉より先に緊張を漏らしている。
(緊張している……?)
後ろめたいことがあるのか、生徒会長を前に単に緊張しているだけなのか。京香はまだ判断を保留した。
「それで、本題はなんでしょう」
「せっかちね」
俊子は本題を急いでいる。京香はそう判断し、あえて揺さぶるような笑顔を見せた。唇の端だけを上げ、目は笑っていない。
「先程、京香さんご自身も『本題に入る』と、そう仰っていたではありませんか。私も委員の活動がありますし、雑談がご希望ならまた後日に」
「わかったわ。それでは手短に」
京香は自らの肘に手を添えると、鋭く冷たい藍色の瞳を俊子に向けた。
「今日、水泳の授業中に盗難事件があったことはご存知かしら?」
「まあ、事件ですか? しかも水泳で?」
京香はあえて隠さずに言った。遠回しな言い方より、直球の方が反応を取りやすいと判断したからだ。実際、俊子は自らの口を手で覆い、芝居がかった驚き方をした。
肩がわずかに上がり、目が丸くなる。その動きは、計算されたもののように見えた。
『まるでドラマのワンシーンね』と、京香は心の中で評した。
「それで、犯人は捕まったのですか?」
「それはまだ」
「では、警察には?」
「校内事件なので、私の一存では決められないわ」
「会長というのも、大変ですね」
俊子は台本でも見ているかのような返答を繰り返す。間の取り方が、まるでこうなることを想定していたかのようだった。
京香はそれを聞きながら、俊子の視線が一度だけ自分のジャージの襟元を掠めて離れたことに気づく。
「ところで、俊子さん」
「なんでしょうか?」
「俊子さんは、あの時上履き片手にロッカーの点検を行っていたけれど、結局出たのかしら?」
「いいえ。何人かの生徒は、『気持ち悪い』と言って、制服の着用を拒否していましたね。京香さんのように」
京香の脳裏に、昼間の更衣室の光景がよぎった。
半狂乱の生徒、逃げ場のない狭い空間。気持ち悪くて思わず腕を掻く。
「俊子さん」
京香が静かに呼びかける。その声は、先ほどまでの探り合いとは明らかに温度が違っていた。低く、芯のある声だ。
「あなたがロッカーを点検して回ったとき、誰かのロッカーの中に、変なものがあったかしら?」
「変なもの……ですか?」
俊子はわずかに首を傾げる。お下げ髪の先が肩の上で揺れた。右手はまた、髪に触れている。
「ええ。たとえば、誰かの持ち物が別のロッカーに紛れていたとか。あるいは、本来あるはずのものがないとか」
「さあ……あの時はまだ、多くの生徒が着替える前でしたし」
「けど、何度も丁寧に見て回っていたでしょう?」
「……もしかして、私、疑われています?」
俊子は明確に嫌悪感を向けた。眉が寄り、『善意を踏みにじられた』とでも言いたそうな顔だ。声の端がわずかに震えている。
「気に障ったのなら謝るわ。あくまでも念の為だから」
「私、何も取っていません。確かに私なら、あの時物色できました。けど、多くの生徒がいる前で、そんなこと出来ますか?」
「だけど、実際にはほとんどの生徒はパニックを起こして、プールサイドに逃げたわ。中には貴重品を放り出した生徒もいた」
「私をそんな目で見ていたのですか!?」
俊子が初めて声を荒らげた。怒りとも焦りとも取れる声が、狭い書庫に響く。
「落ち着いて、別に疑ってるわけではないの」
「そういう言い方をしています!」
京香は柔らかな声で手を振ってみせるが、俊子は不機嫌そうだ。
「それに、私には動機がありません。お金にも困っていませんし」
明美と美穂が、ちらりと目を見合わせる。京香はそれを背中で感じながら、口を開いた。
「……そうよね。ごめんなさい。俊子さん」
京香が軽く頭を下げると、俊子はようやく機嫌を直したのか、背筋をピンと伸ばした。肩の力が抜け、息を一つ吐く。
「わかっていただけたのなら」
「それと、最後に一つだけいいかしら?」
京香は人さし指を立て、『最後』だと強調した。指の先が、薄暗い中で白く見える。俊子は大きく息を吐いたが、やがてゆっくりとうなずいた。
「……ええ。それで疑いが晴れるのなら」
「俊子さんは、授業の途中、お手洗いで席を外していたけど、どれぐらいの時間だったか、覚えている?」
「二分以下だったと思いますが」
京香はちらりと美穂へ視線を送る。美穂は首を横に振ると、指を二回下げた。
(かなり短く言った……)
京香は向き直ると、俊子の目を見る。彼女も京香の目を見返す。瞬きの回数が減っている。
(意図的に視線を固定している)
一瞬、二瞬、京香はその意図を考えた。やましいのか、あるいは疑いを避けたいのか。
いずれにせよ、現状、これ以上の質問は避けた方が良いと判断した。
「ありがとう。参考になったわ」
「いえ、お役に立てたのなら」
京香のその一言に、俊子が安堵の声を出した――その時だ。
京香の元へ合流する最中、好実が先程のガムテープの破片を、京香の前方――本棚の角目掛けて無造作に投げる。
茶色く丸まったそれが、床を転がる前にわずかに跳ねた。
「京香さん、あれ……!」
好実が指さしたのは、そのガムテープ。書庫の中は薄暗い。京香の脳裏には、まだ昼間の恐怖と、パニックの記憶が残っている。
「いやぁぁっ!! 助けて!!」
京香は普段の冷静さをかなぐり捨てて、近くの本棚の陰にしゃがみ込んだ。声が裏返り、全身が強ばる。
その時、俊子は咄嗟に近くの本棚から適当な本を取ると、振り返りざまにガムテープの破片目掛けて飛び出した。本の表紙が空気を切り、床に打ちつけられる音が響く。
(悲鳴に反応し、反射的にダミーに襲いかかった。普段から退治してるのは本当)
好実は俊子の反応を見て、そう結論づけた。
「――っ!」
しばらく動きが止まった後、俊子は一瞬、好実を睨むとガムテープの破片を拾ってみせる。視線が鋭く、好実の顔を一度だけ刺した。
「落ち着いてください、京香さん。ただのガムテープですよ。ほら」
見せたのは、確かにガムテープだった。端が指でちぎられた跡がある。京香は恐る恐るそれを覗き込むと、犯人を悟った。
「……好実」
京香は顔を真っ赤にし、起き上がりざまに好実の上履きを思い切り踏みつけた。
「……後で覚えておきなさい」
「人を欺くにはと言うではありませんの」
「……ふん。それを言うなら『敵』よ」
「そうとも言いますわね」
京香は、恥ずかしさを隠すように一人で書庫を後にし、明美と美穂もそれに続いた。扉が閉まるまで、京香は振り返らない。
「それでは、わたくしも」
好実はぺこりと頭を下げると、時折痛そうに足を引きずりながら出ていった。扉の向こうで、京香の足音が遠ざかる。
(今の一瞥……試されたと、気づかれましたわね。なかなか、頭の回る方ですこと)
書庫に残された俊子は、しばらく動かなかった。
「……っ!!」
生徒会全員が書庫から去った後、俊子はガムテープの破片を乱暴に床に叩きつけ、それを踏み潰した。
─────────
続く……




