第6話 罠の中の銀色
旅の三日目、街道は大きな森の縁に沿って続いていた。
右手には麦畑、左手には深い森。昼を少し過ぎたころ、馬車が小川のほとりで止まった。馬に水を飲ませて、ひと休みするためだ。
俺は小川で顔を洗っていた。
そのとき、聞こえた。
きゅう、という、かすかな声。
顔を上げる。森のほうからだった。風の音にまぎれてしまいそうなほど小さな声だったが、たしかに聞こえた。何かが苦しんでいる声だった。
「お兄さん?」
水筒に水をくんでいたティコが首をかしげた。
「今、何か聞こえませんでしたか」
「え? 何も」
きゅう。
また聞こえた。今度はさっきよりも弱々しかった。
体が勝手に動いていた。
「ちょっと見てきます。すぐ戻ります」
「えっ、ちょっと、お兄さん!」
ティコの声を背中で聞きながら、俺は森の中へ駆けこんだ。
木々のあいだを抜ける。声のするほうへ。下草をかきわけ、倒木を飛び越える。耳を澄ますと、声はどんどん近くなっていった。
小さな空き地に出た。
そこにそれはいた。
銀色の小さな獣だった。
両手に乗るくらいの大きさ。ふわふわの毛に覆われた、子ぎつねのような生き物だった。ただし、その毛の色はただの銀色ではなかった。木漏れ日を受けて、月の光のように淡く輝いていた。
その後ろ足が鉄の罠にはさまれていた。
ぎざぎざの歯がついた、獣を捕らえるための罠だった。歯が細い足に食いこんで、銀色の毛が血で赤く染まっている。体じゅうにほかにも傷があった。罠から逃げようとして、何度も暴れたのだろう。
子ぎつねは俺に気づくと、全身の毛を逆立てた。
「ぐるるるる……」
小さな牙をむいて、うなる。震えながら。立っているのがやっとのくせに、必死に自分を大きく見せようとしている。
俺はポケットの中の銀色の毛に触れた。
同じ色だった。
「……大丈夫。何もしないよ」
しゃがんで、ゆっくりと手を伸ばす。子ぎつねはさらに激しくうなった。
そのとき、背後の茂みががさがさと揺れた。
「おっ、かかってるじゃねえか!」
男たちが四人、空き地に入ってきた。革の服に弓や網を持っている。猟師――いや、密猟者だ。そのうちの一人の腕に布が巻かれていた。布には黒い目の紋章が描かれていた。
あの依頼書と同じ印だった。
「おい、なんだてめえ。そいつは俺たちの獲物だ。どきな」
いちばん大柄な男が俺をにらんだ。
俺は立ち上がった。子ぎつねを背中にかばうように。
「この子をどうするつもりですか」
「どうするもこうするもねえよ。依頼主に引き渡すんだ。金貨五十枚だぜ。生きてさえいりゃいいって話だからな多少傷ついてても問題ねえ」
男たちが下品に笑った。
「多少、ですか」
子ぎつねの足からまだ血が流れていた。
「どいてくれねえなら、しかたねえな」
大柄な男が顎をしゃくった。後ろの男が弓に矢をつがえる。狙いは俺ではなかった。俺の後ろの子ぎつねだった。
「足の一本くらい、なくなっても生きてるだろ」
矢が放たれた。
矢は俺の横を抜けて、子ぎつねに向かって飛んだ。
そして、空中で止まった。
ぴたりと宙に浮いたまま。
「……は?」
弓を持った男が目をむいた。
俺は止まった矢を指でつまんだ。力を入れたつもりはなかった。けれど、矢は俺の指の中でぱきりと粉々になった。
静かだった。
自分の声がひどく冷たく聞こえた。
「今、この子を撃ちましたね」
男たちの顔から笑いが消えた。
「て、てめえ、魔導師か……!」
「おい、やっちまえ!」
四人が一斉に武器を構えた。弓を引く。網を投げる。短剣を抜いて飛びかかってくる。
遅い、と思った。
全部が止まって見えた。
足もとの地面にほんの少しだけ魔力を流す。
四人の足もとの土が一瞬で石に変わった。足首までぴったりと固められる。飛びかかろうとしていた男は、足だけが地面に縫いつけられて、そのまま前のめりに倒れた。
投げられた網は空中で燃えて灰になった。
引きしぼられた弓の弦が四本とも同時にぷつりと切れた。
「な、な……」
「う、動けねえ……!」
四人は、足を石に固められたまま、地面の上でもがいていた。
俺は大柄な男の前にしゃがんだ。
「その依頼を出したのは誰ですか」
「し、知らねえ! 本当だ! 黒いローブの男が酒場で声をかけてきたんだ。前金をもらって、この森に銀色の狐がいるから捕まえろって、それだけで……!」
「その腕の布は?」
「これを巻いてりゃ、仲間だって分かるって渡されたんだよ!」
嘘を言っている様子ではなかった。
俺は立ち上がって、ため息をついた。怒りの熱が少しずつ冷めていく。さっきの冷たい声は自分のものではないような気がした。
あとで衛兵に引き渡そう。足の石は半日もすれば崩れるようにしておいた。
振り返る。
子ぎつねは罠にはさまれたまま、じっと俺を見ていた。
もう、うなってはいなかった。
俺はゆっくりと近づいて、罠の前に膝をついた。
「痛かったな。今、外すからな」
鉄の罠に手をかける。ばね仕掛けの歯をそっと押し広げる。細い足がようやく自由になった。
子ぎつねはよろよろと一歩、俺のほうへ近づいてきた。
鼻先を俺の手に近づける。
すん、すん、とにおいをかいだ。
その瞬間だった。
子ぎつねの体がびくりと震えた。金色の目が大きく見開かれた。
そして――。
「きゅうううう……っ!」
子ぎつねが俺の胸に飛びこんできた。
傷だらけの体で必死に俺のローブにしがみつく。小さな前足でぎゅっと布をつかんで、顔をこすりつけて、鳴いた。
泣いていた。
獣が泣くのかどうか、俺は知らない。けれど、その鳴き声はどう聞いても泣き声だった。迷子の子どもがようやく親を見つけたときのような声だった。
「お、おい……」
俺は、どうしていいか分からず、そっとその背中に手を置いた。
ふわふわだった。信じられないほどやわらかかった。そして、温かかった。
初めて会ったはずなのに。
なぜ、この子はこんなふうに泣くのだろう。
なぜ、俺はこの温かさを知っている気がするのだろう。
胸の奥がぎゅうっと締めつけられた。
そのとき、ローブのポケットの中で何かが熱を持った。
手紙だった。
俺は、子ぎつねを片手で抱いたまま、もう片方の手で手紙を取り出した。焼け焦げた紙が淡く光っていた。
開く。
一行目の「俺へ。思い出すな」の下。これまで黒く焦げていて読めなかった場所に、文字が浮かび上がっていた。
――銀色の狐を見つけたら、今度こそ守ってやれ。
俺はその一行を何度も読み返した。
銀色の狐。
今度こそ。
「……今度こそ、って、なんだよ」
声が震えた。
前にも守ろうとしたのか。そして、守れなかったのか。
腕の中で子ぎつねが小さく鳴いた。俺の胸に顔をうずめたまま、離れようとしなかった。
遠くから、ティコの呼ぶ声が聞こえた。
「お兄さーん! どこー!?」
俺は手紙をポケットにしまった。
それから、腕の中の小さな温もりをもう一度しっかりと抱きしめた。
「……ああ。分かったよ」
誰に言ったのかは自分でも分からなかった。
第6話 了
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