第51話 地下の湖
二十一階は湖だった。
階段を下りきると、目の前に黒い水面がどこまでも広がっていた。天井は見えないほど高い。その天井のあちこちに青白く光る苔が星のように散らばっていて、それが黒い水面に映りこんでいた。
足もとから向こう岸まで。上も下も星空だった。
「……きれい」
リリアが息をのんだ。
アズは岸辺にしゃがんで、水面をのぞきこんでいた。水の中にも小さな光がゆらゆらと泳いでいた。光る魚だった。
「エルシェ殿の言っていた舟は」
「あちらです」
エルシェが指さした先の岸辺に木の舟が何艘か、つながれていた。冒険者たちが置いていったものだという。どれも古びていたが、しっかりしていた。
五人と一匹が乗れる、いちばん大きな舟を選んだ。
ガルムが舟に片足をかけた瞬間、舟がぐらりと大きく揺れた。
「うおっ!?」
ガルムはあわてて足を引っこめた。耳がぺたりと伏せられていた。
「……ガルム殿。まさか」
「ち、違えよ! ちょっと足がすべっただけだ!」
「舟が苦手なのですか」
「苦手じゃねえ! ……得意じゃねえだけだ」
ガルムはそっぽを向いた。尻尾が足のあいだにきゅっと巻きこまれていた。
結局、ガルムは、舟のいちばん真ん中にどっしりと座りこんで、両手で舟べりを握りしめることになった。頭の上にはあいかわらず、シラタマ。シラタマは、舟が揺れるたびに、楽しそうにきゅうきゅうと鳴いていた。
「……楽しそうにすんじゃねえ」
ガルムがうめいた。
櫂は俺とリリアが漕いだ。
風の魔法で進めることもできたけれど、なんとなく、そうしたくなかった。櫂が水をかく音。舟べりを打つ、小さな波の音。それ以外に音がなかった。静かだった。迷宮の中にいることを忘れそうになるほど。
舟の舳先でエルシェが杖の先に小さな明かりをともして、前を照らしていた。
「この湖は迷宮の中でいちばん静かな場所です」
エルシェが水面を見ながら言った。
「魔物もほとんどいません。湖の主がほかの魔物を寄せつけないんです」
「湖の主?」
「……いずれ、会えると思います」
しばらく、黙って漕いだ。
アズが舟べりから身を乗り出して、光る魚をじっと見つめていた。
「……アズ。釣ってみますか」
俺が言うと、アズはぱっと顔を上げた。
「……釣る」
「糸と針なら、作れます」
錬金のスキルで髪の毛ほどの細さの丈夫な糸と小さな針を作った。餌はガルムの腰の袋に入っていた干し肉の切れ端。
アズは糸を垂らして、じっと水面を見つめた。
動かなかった。
まばたきもしなかった。
しばらくして、糸がくい、と引かれた。
アズの手が目にもとまらない速さで動いた。
水面から青白く光る魚がぴちぴちと跳ねながら、飛び出してきた。
「……釣れ、ました」
アズは、糸の先で跳ねる魚を見て、目をぱちぱちさせていた。
それから、俺のほうを向いた。
口の端がはっきりと上がっていた。
「……釣れました」
「上手です」
アズはまた糸を垂らした。
今度はすぐにまた釣れた。その次も。その次も。
あっという間に、舟の底に光る魚が十匹以上、ぴちぴちと跳ねていた。
「……アズ殿は釣りの才能がおありですね」
リリアが感心したように言った。
「……影で魚の動きが見えます」
「それはずるいのではありませんか」
「……ずるくないです。影はわたしの目ですから」
アズは少しだけ胸を張った。
二十二階の小島で舟を下りて、ひと休みした。
アズが釣った魚を串に刺して、塩を振って、たき火で焼いた。光る魚は焼くと光が消えて、普通の白身の魚になった。皮がぱりっと香ばしく焼けた。
ひと口、かじった。
淡白でほんのりと甘い上品な味だった。
「……うまいな、これ」
ガルムが舟酔いで青い顔をしながらも三匹目にかぶりついていた。
「アズ、お前、天才だ」
「……ありがとう、ございます」
アズは、自分で釣った魚を両手で持って、少しずつかじっていた。
ひと口ごとにほんの少しずつ顔がほころんでいくのが分かった。
それを見ていたエルシェが俺のとなりで小さく言った。
「……いい子ですね。アズさん」
「はい」
「教団にあんなふうに育てられて。それでも、あんなふうに笑えるようになるんですね」
エルシェはたき火の火を見つめていた。
「……誰かがそばで温かいものを食べさせてあげると。人はちゃんと笑えるようになるんです」
喉の紋は光らなかった。
けれど、それが誰のことを言っているのか、俺にはなんとなく分かった。
百年前、雪の森で泣いていた小さな女の子のことを。
ふたたび舟に乗って、二十三階、二十四階と湖を進んだ。
二十五階に入ったとき、湖の水面がざわりと揺れた。
ガルムが舟べりにしがみついた。
「な、なんだ……!?」
舟の前方の水面がゆっくりと盛り上がった。
水の中から何かが浮かび上がってきた。
白い大きな蛇の頭だった。
いや、蛇ではない。竜だった。細長い体。長いひげ。額に小さな角。全身が真珠のような淡い白に光っていた。
舟よりもずっと大きな頭が水面からこちらを見下ろしていた。
ガルムが大剣に手をかけた。リリアが剣を抜いた。
「……待ってください」
エルシェが舳先で静かに手を上げた。
「湖の主です。攻撃しないでください」
白い竜は、金色の目で舟の上の俺たちをひとりずつ見ていった。
ガルム。リリア。アズ。エルシェ。
それから、ガルムの頭の上の、シラタマ。
最後に俺。
竜の目が俺の上で止まった。
長いあいだ、見ていた。
それから、竜はゆっくりと頭を下げた。
水面すれすれまで。舟の前で。
まるでお辞儀をするように。
「……え?」
リリアが目を丸くした。
エルシェが小さく息をついた。
「……わたしがひとりで来たときは毎年、ただ、じっと見ているだけでした。頭を下げたのは初めてです」
白い竜は頭を上げると、水の中に静かに沈んでいった。
しばらくして、舟の後ろからゆるやかな流れが生まれた。舟がひとりでに前へ進みはじめた。
竜が押してくれているのだった。
櫂を漕がなくても、舟はすべるように湖の上を進んでいった。
向こう岸に下へ続く階段が見えてきた。
ガルムが舟べりにしがみついたまま、ぼそりと言った。
「……大将。あの竜、お前のこと知ってたんじゃねえか」
「……そうかもしれません」
俺は湖の黒い水面を振り返った。
星空のような水面のずっと下で白い影が、ゆったりと泳いでいるのが見えた。
百年前の俺もこの湖を渡ったのだろうか。
あの竜に何かを頼んだのだろうか。
――扉まで誰かが来たら、通してやってくれ、と。
そんなことをなぜか、思った。
頭は痛まなかった。
空も割れなかった。
ただ、湖の水がひどくなつかしかった。
第51話 了
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