第52話 霧の中の人
二十六階は白かった。
階段を下りた瞬間、視界が真っ白な霧に塗りつぶされた。
手を伸ばすと、指先が霧の中に消えた。すぐ前を歩いているはずのガルムの背中が、ぼんやりとした灰色の影にしか見えなかった。足もとの石畳だけがかろうじて見えた。
「……皆さん、手をつないでください」
エルシェの声が霧の向こうから聞こえた。
「ひとりでも離れたら、もう見つけられなくなります」
ガルムが先頭。その手をリリアがつかむ。リリアの手をアズが。アズの手をエルシェが。エルシェの手を俺が。シラタマは俺の肩の上。
一列になって、霧の中を歩いた。
「エルシェ殿。幻を見せる魔物、というのは」
「霧そのものです。この霧は生きています。人の心の中をのぞいて、その人がいちばん会いたい人の姿を霧で作ります」
エルシェの声は落ち着いていた。
「見えても、声をかけられても、手を離さないでください。ついていってはいけません。……本物ではありませんから」
しばらく、黙って歩いた。
霧の中は音がなかった。自分たちの足音さえ、霧に吸いこまれて、くぐもって聞こえた。
どれくらい歩いただろうか。
前を歩いていたリリアの足が止まった。
「……リリア?」
リリアは霧の奥の一点を見つめていた。
その視線の先に人影が立っていた。
背の高い痩せた男だった。金色の髪に白いものが混じっている。質素な、けれど手入れの行き届いた服。穏やかな青い目。
男はリリアを見て、やさしく笑った。
「――リリア」
低い温かい声だった。
リリアの手がガルムの手の中で震えた。
「……父上」
レオン・グランツ。
リリアの亡くなった父親だった。
「リリア。よくがんばったね。借金も返してくれた。わたしの帳面に最後の一行を書いてくれた」
霧の中の父親は両手を広げた。
「もう、十分だ。もう、ひとりで剣を振らなくていい。さあ、帰っておいで」
リリアの足が一歩、前に出かけた。
ガルムがリリアの手をぎゅっと握りしめた。
「嬢ちゃん」
リリアは唇をかんでいた。
青い目から涙がひとすじ、こぼれた。
「……父上」
リリアは霧の中の父親をまっすぐに見た。
「私はひとりではありません」
はっきりとした声だった。
「剣もひとりで振っているのではありません。隣に守りたい人がいます。背中を預けられる人たちがいます。……だから、まだ帰れません」
霧の中の父親は何も言わなかった。
ただ、やさしく笑ったまま、霧の中に溶けて消えていった。
リリアは空いているほうの手で涙をぬぐった。
「……行きましょう」
また、歩きだした。
二十七階に入ったとき、今度はガルムの足が止まった。
霧の中に四つの人影が立っていた。
大きな盾を持った熊の獣人。弓を背負った細身のエルフ。杖を持った人族の老人。それから、双剣を腰に下げた若い猫の獣人の女。
四人とも笑っていた。
「――ガルム。遅えぞ」
熊の獣人が手を振った。
「いつまでそっちにいるつもりだ。こっちで酒、用意して待ってんだぞ」
ガルムの尻尾がぴたりと止まった。
耳がぺたりと伏せられた。
大きな手がリリアの手の中で震えていた。
「……ボルト。シェリン。ハインじいさん。……ミャウ」
ガルムの声がかすれていた。
十年前、北の山脈でガルムを逃がした四人の仲間。
「こっち来いよ、ガルム。また五人でやろうぜ」
猫の獣人の女がにっと笑って、手招きした。
ガルムはしばらく動かなかった。
それから、ふっと息を吐いた。
「……悪いな」
ガルムは笑った。
泣きそうな顔で笑った。
「今はこっちに仲間がいるんだ。頭の上に毛玉を乗せて、しょっちゅう風呂に落とされて、酒は一日一杯で、……それでも、悪くねえ連中なんだ」
ガルムはリリアの手を握り直した。
「だから、酒はもうしばらく取っといてくれ。いつか、土産話を山ほど持って、そっちに行くからよ」
霧の中の四人は顔を見合わせた。
それから、四人そろって、にっと笑った。
手を振りながら、霧の中に溶けていった。
ガルムは大きな手で顔をごしごしとこすった。
「……行くぞ」
声が少しだけ鼻にかかっていた。
二十八階。
今度はアズの足が止まった。
霧の中に小さな人影がひとつ、立っていた。
女の子だった。五つか、六つくらい。顔は霧にかすんで、よく見えなかった。ただ、額の片側から小さな黒い角が一本、伸びていた。
アズと同じだった。
「……おねえちゃん」
小さな声が霧の中から聞こえた。
アズの体が凍りついた。
「おねえちゃん、どこ? どこにいるの?」
女の子はきょろきょろとあたりを見回していた。アズのほうを見ていなかった。
「……わたし、は」
アズの声が震えていた。
「……わたしはあなたを知りません」
女の子は答えなかった。
ただ、おねえちゃん、おねえちゃん、と繰り返しながら、霧の中に消えていった。
アズはその場に立ち尽くしていた。
エルシェがアズの手を両手で包みこんだ。
「……アズさん」
「……知らない、はずです。覚えて、いません。なのに」
アズの目から涙がぽろぽろとこぼれていた。
「なのに、胸が痛いです」
エルシェは何も言わずにアズの手を握り続けていた。
封じられた箱の中身はなくなっていない。
どこかに必ず、残っている。
エルシェが今朝、縁台で言った言葉を思い出した。
二十九階。
霧がいっそう、濃くなった。
エルシェが足を止めずに前を向いたまま、小さく言った。
「……わたしにも見えています」
「エルシェさん?」
「毎年、ここで見えるんです。同じ人が」
霧の中に人影が立っていた。
灰色のローブ。黒い髪。どこにでもいそうな顔。疲れた目。
俺と同じ顔だった。
霧の中の俺はエルシェを見て、少しだけ笑った。
「――エルシェ」
俺の声だった。俺の声よりも少しだけ低くて、疲れた声。
エルシェは足を止めなかった。
霧の中の俺の横をまっすぐに通りすぎた。
「……本物はわたしの後ろにいますから」
小さな声でそう言った。
喉の紋は光らなかった。
霧の中の俺は少しだけ寂しそうな顔をして、消えていった。
俺はエルシェの手を握ったまま、何も言えなかった。
そのときだった。
霧の奥から声がした。
「――レイ」
体が固まった。
低い、やわらかい声。
どこかで聞いたことのある声。
夢の中で。商隊と野営した最初の夜の夢の中で。
霧がゆっくりと形を作っていった。
大きかった。家ほどもある。
月の光をそのまま毛にしたような淡く輝く銀色の毛並み。
金色の目。
大きな狐だった。
「――レイ。おかえり」
大きな狐はそう言って、大きな頭を低く下げた。
鼻先を俺のほうへ差し出した。
温かい息が霧の中から俺の額にかかった気がした。
足が勝手に前に出た。
手が勝手に伸びた。
エルシェの手から俺の指がすべり抜けそうになった。
「――レイさんっ!」
エルシェの声が遠くに聞こえた。
ふわふわの銀色の毛。温かい。やわらかい。なつかしい。ずっと、ずっと昔にこの毛の中に顔をうずめて――。
指先に鋭い痛みが走った。
「……っ!」
はっと我に返った。
肩の上のシラタマが俺の指にがぶりと噛みついていた。
それから、シラタマの体が銀色に光った。
「――きゅうううううっ!!」
月の光がシラタマの体から四方八方にはじけ飛んだ。
霧が裂けた。
白い霧が月の光に焼かれるようにじゅうじゅうと音を立てて、消えていった。大きな狐の姿も光の中に溶けて消えた。
霧が晴れた。
目の前に石畳の広い通路と、その先の下へ続く階段がはっきりと見えた。
シラタマは、光を使い果たして、俺の肩の上でくたりとなっていた。
それでも、俺の指をくわえたままだった。
離さなかった。
「……シラタマ」
俺はシラタマを両手で抱きしめた。
小さかった。温かかった。ふわふわだった。
本物だった。
「……ごめん。ありがとう」
シラタマは目を閉じたまま、俺の胸に顔をうずめた。
エルシェが俺の手をもう一度しっかりと握った。
その手が震えていた。
「……あの子は」
エルシェはかすれた声で言った。
「あの子はもうあなたを行かせたくないんだと思います」
俺は腕の中のシラタマを見下ろした。
――今度こそ、守ってやれ。
守られたのはまた俺のほうだった。
第52話 了
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