第50話 封じられたもの
次の日の朝、森の家の縁台でアズとエルシェが並んで座っていた。
俺が畑の水やりから戻ってくると、二人は何か、静かに話をしていた。邪魔をしないように少し離れた井戸のそばで桶を洗うふりをした。
「……エルシェさん。聞いても、いいですか」
「はい」
「わたしは教団に記憶を消されました。気がついたら、東の塔の地下にいて、それより前のことを何も覚えていません」
アズの声はあいかわらず平らだった。けれど、膝の上で両手がぎゅっと握られていた。
「消された記憶はもう戻らないのでしょうか」
エルシェはしばらく黙っていた。
それから、アズのほうを向いて、はっきりと言った。
「戻ります」
アズが顔を上げた。
「記憶を消す魔法、というものは本当はありません。あるのは記憶を封じる魔法だけです。箱に入れて、ふたをして、鍵をかける。箱の中身はなくなりません。見えなくなるだけです」
「……箱の中身は」
「なくなりません。どこかに必ず、残っています」
エルシェはアズの手の上にそっと自分の手を重ねた。
「わたしは古代魔法の研究者です。百年、封じる魔法と解く魔法をずっと調べてきました。……いつか、アズさんの箱の鍵も一緒に探しましょう」
アズはしばらくエルシェの手を見下ろしていた。
それから、小さくうなずいた。
「……はい」
アズの影が足もとでほんの少しだけゆらりと揺れた。うれしそうに。
俺は、桶を洗いながら、エルシェの言葉を頭の中で繰り返していた。
記憶を消す魔法はない。あるのは封じる魔法だけ。
だとしたら、俺の記憶も。
ステータスの灰色に沈んだ一行。忘却魔法。
過去の俺が自分に使った魔法。
箱の中身はなくなっていない。どこかに必ず、残っている。
だから、思い出すたびに、空が割れる。
朝めしのあと転移の札でガルデアの銀の匙亭に戻った。
宿の食堂では、ティコとハンスとフーゴが卓いっぱいに紙を広げて、何やら熱心に話しこんでいた。
「お兄さん、おかえり! ガルデアのお店、場所が決まったよ! 坂の中ほどの元の料理ギルドの持ち物だった空き店舗! ボッシュさんが、安く譲ってくれたの!」
「ボッシュさんが?」
「うん。料理ギルドの長はやめることになったんだって。……フーゴさんにこれからはちゃんと料理を作れって、言ってたって」
フーゴが照れくさそうに頭をかいた。その手には、包丁だこを作るための真新しい包丁が握られていた。
それから、灰羽の五人で迷宮ギルドへ向かった。
三十階の灰の扉を目指すことをエマに伝えるためだった。
「さ、三十階……ですか」
エマは眼鏡を押し上げて、目を丸くした。
「灰羽の皆さんが、今、転移の石に触れているのは十五階までですよね。そこから三十階まで……。二十階より下はAランクの魔物が当たり前に出てきます」
「分かっています」
「……いいえ。灰羽の皆さんなら、大丈夫な気がしてきました。十八階の王牛を倒したパーティですし」
エマは奥の棚から分厚い地図の束を出してきた。
「エルシェさんがいらっしゃるなら、ギルドの地図よりエルシェさんのほうが詳しいかもしれませんね。毎年、三十階まで行っていらっしゃるんですから」
「毎年、ひとりで?」
ガルムが目をむいた。
「……ひとりのほうが、身軽ですから」
エルシェは少しだけ目をそらした。
エルシェは、地図を広げて、指で道をなぞりながら、説明してくれた。
「十六階から二十階までは岩の洞窟です。二十階に転移の石があります。二十一階から二十五階は地下の湖。舟で渡ります。舟は、湖の岸に冒険者たちが置いていったものがあります」
地図の上をエルシェの細い指が下へ、下へと進んでいく。
「二十六階から二十九階は霧の階層です。霧の中に幻を見せる魔物がいます。いちばん会いたい人の姿で現れるんです。……気をつけてください。本物だと思って、ついていったら、帰ってこられなくなります」
「いちばん会いたい人の姿……」
リリアが小さくつぶやいた。
「そして、三十階」
エルシェの指が止まった。
「広い石の広間です。いちばん奥に灰の扉があります。扉の前には――」
エルシェはそこで少しだけ言いよどんだ。
「番人がいます」
「番人?」
「石の巨人です。百年前から扉の前にずっと座っています。扉に近づく者がいると、立ち上がって、追い払います。わたしは、扉に触れられるところまでは近づけたことがありません」
「エルシェ殿でも、ですか」
「はい。番人は傷つけずに追い払うだけです。でも、どんな魔法も効きません」
エルシェは地図から顔を上げて、俺を見た。
「……番人を作った人の魔力でなければ、たぶん」
喉の紋は光らなかった。
誰が作ったのかは言っていないから。
エマがふと、思い出したように言った。
「そういえば、灰羽の皆さん。これは噂なんですけど」
「噂?」
「近いうちに、聖王国の勇者さまがこの町の迷宮に修行にいらっしゃるそうです」
「勇者?」
リリアが眉をひそめた。
「聖王国は、空にひびが入ってから、慌てて、新しい勇者さまを召喚したんだそうです。異世界から。それで、強くなるために、大陸でいちばん深いこの迷宮に潜りにいらっしゃると」
異世界から。
召喚。
胸の奥がざわりとした。
百年前、聖王国は同じように誰かを召喚した。
そして、その誰かをガルデアの迷宮の奥に三十年、閉じこめた。
「……そうですか」
それだけ、言った。
エルシェが隣でじっと俺の横顔を見ていた。
喉のあたりがうっすらと灰色に光りかけていた。
迷宮の入口から転移の石で十五階へ飛んだ。
そこから下へ。
十六階、十七階は岩の洞窟だった。天井から鍾乳石が牙のように垂れ下がっている。暗がりの中から大きな蝙蝠の魔物が群れになって襲ってきた。
エルシェが杖をひと振りした。
「――灯れ」
洞窟じゅうに柔らかい光の粒がふわりと広がった。
蝙蝠の群れが光に目をくらませて、ばたばたと落ちてきた。そこをリリアとガルムが次々と斬り伏せていった。
「……今のが古代魔法ですか」
「はい。今の魔法の元になった魔法です。詠唱が短くて、魔力をあまり使いません。そのかわり、組み立てがとても難しいんです」
エルシェは杖を軽く振りながら、説明した。
その杖の振り方を見て、俺はふと、既視感を覚えた。
杖の先で空中に小さな円を描いて、それからすっと下へ払う。
俺が魔法を使うときの指の動きと同じだった。
誰かに教わった動きなのだろう。
誰かに。
十八階の草原を抜け、十九階の岩場を越えて、二十階に着いたのは日が暮れるころだった。
二十階の安全地帯で青い石の柱に触れた。石がぼうっと光った。
「今日はここまでにしましょう」
俺が言うと、ガルムがどっかりと床に座りこんだ。
「おう。さすがに腹が減ったぜ。大将、飯は?」
「札で帰れば、マルタさんの晩めしがありますよ」
「……迷宮の中から晩めしに帰れるってのは、どうにもずるい気がするな」
ガルムはそう言いながらも尻尾をぶんぶん振っていた。
札を握る前に俺は安全地帯の奥の下へ続く階段を見た。
暗い深い階段だった。
その先に湖がある。霧がある。
そして、灰の扉がある。
ポケットの中の手紙がほんの少しだけ温かくなった気がした。
第50話 了
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