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記憶喪失の最強魔導師、もふもふと没落令嬢に囲まれてスローライフ中 ~なお、俺が思い出すと世界が滅ぶらしい~  作者: みぎみみ


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第49話 女湯の約束


 その夜の森の家の食卓にはカレーが並んだ。


 大きな木のテーブルに花の彫りこみの椅子と、まっすぐな背もたれの椅子と背の高い椅子。それから、台所から運んできた丸椅子と、居間の長椅子とガルムがいつも座っている木箱。丸い敷物の上には、シラタマ。


 エルシェは花の椅子に座っていた。


 目の前の皿をじっと見下ろしていた。


 白いごはんに茶色いカレー。湯気がゆらゆらと立ちのぼっている。


「……いただきます」


 エルシェは両手を合わせて、小さく言った。


 俺ははっとした。


 いただきます。


 この世界の人は食事の前にそんなことは言わない。リリアも、ティコも、ガルムも、マルタも。最初は、俺がそう言うたびに、ふしぎそうな顔をしていた。今ではみんな真似をするようになったけれど。


 エルシェは誰の真似もせずに、自然にそう言った。


 誰かに教わったのだろう。ずっと昔に。


 エルシェが匙を入れた。


 ひと口、食べた。


 目を閉じた。


 ゆっくりと噛んで、飲みこんだ。


 それから、目を開けて、もうひと口。


 今度は昨日の祭りのときのように泣かなかった。


 ただ、ひと口ごとに少しずつ顔がほころんでいった。


「……おいしいです」


 小さく、言った。


「とても、おいしいです」


 マルタがカレーをひと口食べて、「まあ、まあまあまあ」と、何度も繰り返していた。ガルムは三杯目を自分でよそっていた。アズは、カレーの中の肉をシラタマにひと切れ分けてやっていた。シラタマは、辛さにはふはふしながらもちゃんと食べていた。


 エルシェの皿が空になった。


 エルシェは空になった皿を名残惜しそうに見つめていた。


「おかわり、いりますか」


 俺が聞くと、エルシェは顔を上げた。


 ほんの一瞬、泣きそうな顔をした。


 それから、笑った。


「……はい。いります」


 皿を受け取って、台所の鍋からよそった。戻ってくると、エルシェは花の椅子の上で背筋を伸ばして待っていた。


 皿を置くと、エルシェは小さな声で言った。


「……ずっと食べてみたかったんです」


 喉の紋は光らなかった。


 俺は何も聞かずに自分の椅子に戻った。


 暖炉の前の背の高い椅子と同じ形のテーブルの椅子に。


 ふと見ると、リリアが俺とエルシェを交互に見ていた。


 何か言いたそうな顔をしていたが、何も言わなかった。


 食事のあとぴこん、と目の前に板が浮かんだ。


【休息のスキルが上がりました】

【休息Lv6→Lv7】

【効果:懐かしい味をゆっくり味わえるようになる】


 懐かしい味。


 俺は空になった自分の皿を見下ろした。




 ――露天風呂の女湯。


 湯気の向こうに白い月と、青い月と黒いひびが浮かんでいた。


 リリアは肩まで湯につかって、空を見上げていた。


 となりでエルシェが同じように湯につかっていた。深い緑色の髪を頭の上でまとめていた。とがった耳の先が湯気でほんのりと赤くなっていた。


 アズは、少し離れた岩の上に腰かけて、足だけを湯につけていた。マルタは脱衣所で先に上がって涼んでいた。


 湯船の縁に浮かべた桶の中でシラタマが、とろけた顔でぷかぷかと浮かんでいた。


「……お湯につかるなんて」


 エルシェがぽつりと言った。


「エルフの森では湯を沸かして、体を拭くだけです。こんなふうに肩までつかるのは初めてで……いえ」


 エルシェは少しだけ言葉を切った。


「……初めてではないかもしれません」


 リリアは空を見上げたまま、言った。


「エルシェ殿」


「はい」


「あなたはレイ殿の何なのですか」


 湯気の中でエルシェの肩がぴくりと動いた。


「……それは」


 エルシェの喉に灰色の線がうっすらと浮かびかけた。


「言わなくて、結構です」


 リリアはエルシェのほうを見ないまま、言った。


「言えないのは分かっています。聞いてしまって、すみません。……ただ、あの椅子に座ったときのあなたを見て、ずっと考えていました」


 リリアは湯の中で膝を抱えた。


「私はレイ殿と出会って、まだふた月ほどです。あなたはたぶん、ずっと長く、あの人を知っている。私の知らないあの人を」


 エルシェは何も言わなかった。


「……悔しいです。正直に言います。少しだけ、悔しいです」


 リリアの声は静かだった。


「でも、それ以上にあなたが、あの椅子で泣いていたのがつらかった。百年もひとりで待っていたのでしょう。開かない扉を毎年、見に行って」


 エルシェの目からぽろりと涙がこぼれた。湯の中に落ちた。


「……わたしには」


 エルシェがかすれた声で言った。


「昔、とても、大事な人がいました」


 喉の紋は光らなかった。


 誰なのかは言っていないから。


「その人はわたしを置いていきました。わたしを守るために。わたしに何も背負わせないために。……分かっていました。分かっていたけれど、置いていかれたのはつらかった」


 エルシェは湯の中で両手を握りしめた。


「だから、今度は置いていかれないようにしたいんです。あの人がどこへ行っても、ついていきたい。それだけです」


 それから、エルシェはリリアのほうを向いた。


 泣きながら、少しだけ笑った。


「リリアさん。わたしはあの人の隣を狙っているわけではありません」


「……え?」


「わたしは後ろでいいんです。あの人の後ろであの人の背中を見ているのがいちばん好きです」


 エルシェは少しだけ胸を張った。


「弟子ですから」


 言ってから、エルシェははっと口を押さえた。


 喉の紋は光らなかった。


 弟子、という言葉だけなら、誓約には触れないらしかった。


「……今のは聞かなかったことにしてください」


「……聞きました」


「聞かなかったことに」


「聞きました」


 リリアはふっと口もとをゆるめた。


「では隣は私が守ります」


 エルシェが目を見開いた。


 リリアの顔が湯気のせいだけではなく、赤くなっていた。


「……い、今のは騎士として、という意味です。仲間の隣を守るのは騎士の務めです」


「……はい。そういうことにしておきます」


 エルシェがくすくすと笑った。


 リリアは湯の中に鼻の下まで沈んだ。ぶくぶくと泡が立った。


 岩の上で足だけを湯につけていたアズがぽつりと言った。


「……わたしはどこを守れば、いいですか」


 リリアとエルシェが同時にアズを見た。


 アズは真顔だった。


「隣は、リリアさん。後ろは、エルシェさん。……前はガルムさんです。わたしは」


 リリアとエルシェは顔を見合わせた。


 それから、二人して、ふき出した。


「アズさんは影です」


 エルシェが言った。


「どこにでもいられる。前にも、後ろにも、隣にも。いちばん、自由な場所です」


「……影」


 アズは少し考えてから、こくりとうなずいた。


「……それはいい、ですね」


 アズの口の端がほんの少しだけ上がった。


 桶の中でシラタマがきゅう、と鳴いた。


「シラタマ殿は真ん中です」


 リリアが桶をそっと引き寄せた。


「皆の真ん中」


 シラタマは桶の縁にあごを乗せて、満足そうに目を閉じた。




 柵の向こうの男湯。


 ガルムが湯船の縁にもたれて、酒の杯を片手ににやにやしていた。今日の一杯だった。


「……大将。聞こえたか、今の」


「聞こえてません」


「聞こえてたろ。隣は私が守ります、だってよ」


「聞こえてません」


「顔、赤いぞ」


「湯のせいです」


 ガルムはがははと笑って、杯をあおった。


 俺は湯の中に鼻の下まで沈んだ。


 ぶくぶくと泡が立った。




第49話 了

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