第48話 花の椅子
「……今夜は家に帰りましょうか」
エルシェが仲間になった日の夕方、宿の食堂で俺は言った。
大食祭の準備からずっと休みなく動き続けていた。迷宮に潜って、材料を集めて、台所にこもって、祭りに出て。みんな少し疲れた顔をしていた。
「露天風呂に入って、ゆっくり寝て、明日の朝、また札で戻ってくればいいと思うんです」
ガルムの耳がぴんと立った。
「風呂か! いいな、大将!」
「……おふろ」
アズも小さくつぶやいた。表情は変わらなかったけれど、目が少しだけ輝いていた。
リリアはほっとしたように息をついた。
「ばあやにも祭りの話をしてあげたいです」
エルシェだけが首をかしげていた。
「家、ですか? 札で帰る?」
「俺たちの家です。ここからずっと西の森の中にあります。この札で一瞬で帰れるんです」
俺は転移の札を見せた。エルシェは札に刻まれた模様を見て、目を見開いた。
「……この陣の組み方」
エルシェの指が札の模様をそっとなぞった。
喉に灰色の線が浮かびかけて、すぐに消えた。
「……いいえ。なんでもありません。ご一緒させてください」
ティコとハンスはガルデアに残ることになった。ガルデアの店の話をフーゴと詰めるのだという。
俺は札を握った。リリアとガルムとアズとエルシェが俺の肩や腕に触れた。シラタマはエルシェの腕の中にいた。
帰りたい、と思った。
光が俺たちを包んだ。
次の瞬間、足もとの感触が宿の板の間から柔らかい草に変わっていた。
森のにおいがした。湿った土と木の葉のにおい。霧のひんやりとした空気。遠くで鳥が鳴いていた。
目の前に森の家が建っていた。
夕暮れの中で窓から温かい明かりがもれていた。煙突から細い煙が上っていた。マルタが夕食の支度をしているのだろう。
「……ただいま」
俺がつぶやくと、ガルムが大きく伸びをした。
「あー、帰ってきた気がするなあ」
エルシェは何も言わなかった。
家を見上げていた。
動かなかった。
腕の中のシラタマがエルシェの顔を見上げて、小さく鳴いた。
エルシェの顔から血の気が引いていた。
唇が震えていた。
「……エルシェさん?」
声をかけた瞬間、エルシェの腕からシラタマがぴょんと飛び降りた。
同時にエルシェが走りだした。
家の扉へ。
扉を押し開けた。
中からマルタの「まあっ、どなた!?」という声が聞こえた。
俺たちもあわてて、あとを追った。
居間の入口でエルシェは立ち止まっていた。
大きな木のテーブル。そのまわりの椅子。背の高い椅子。まっすぐな背もたれの椅子。丸い敷物。
それから、座面に花の彫りこみのある少し小さめの椅子。
エルシェはその椅子を見ていた。
ゆっくりと歩いていった。
椅子の背もたれにそっと手を置いた。
指先で彫りこみの花をなぞった。
ひとつ、ひとつ。花びらの一枚一枚を。
マルタがお玉を持ったまま、台所の入口で固まっていた。リリアがマルタにそっと首を振った。
エルシェは椅子を引いて、座った。
小さな椅子だった。エルシェの体には少しだけ小さすぎた。
それでも、エルシェはそこに座って、テーブルの上に両手を置いた。
向かい側の背の高い椅子を見つめた。
誰も座っていない椅子を。
エルシェの肩が震えはじめた。
声は出さなかった。
ただ、テーブルの上にぽたぽたとしずくが落ちていった。
誰も何も言わなかった。
丸い敷物の上にシラタマがとことこと歩いていった。くるくると三回まわって、ころんと丸くなった。
エルシェがそれを見て、両手で顔を覆った。
今度は声がもれた。
子どものような泣き声だった。
俺は居間の入口に立ったまま、動けなかった。
花の椅子はエルシェの椅子だった。
あの彫りこみを誰が彫ったのかは分からない。けれど、ロザリンドの祖母の日記に書かれていた弟子のエルフの娘。それがこの人なのだともう疑いようがなかった。
そして、向かい側の背の高い椅子は。
暖炉の前の俺の体にぴったりの椅子と同じ形の椅子は。
胸の奥がぎしりと鳴った。
こめかみに痛みが走りかけた。
俺はぎゅっと目を閉じた。
――思い出すな。
痛みが遠のいていった。
しばらくして、エルシェは顔を上げた。
泣きはらした目で居間の入口の俺たちを見た。それから、あわてて、椅子から立ち上がった。
「す、すみません……っ。勝手に上がりこんで……っ」
「いいえ」
俺は首を振った。
「その椅子、よかったら、エルシェさんが使ってください」
エルシェの目が大きく見開かれた。
「その椅子はまだ誰の椅子とも決まっていなかったんです。ちょうど、よかった」
エルシェはしばらく俺を見ていた。
それから、また目に涙をためて、小さくうなずいた。
「……はい」
マルタがお玉を握ったまま、鼻をすすっていた。
「……よく分かりませんけれど、ばあやはもらい泣きでございます……」
夕食の支度を手伝うために、台所に入ったとき、エルシェはまた足を止めた。
かまどの上の壁の落書き。
――カレー食べたい。
その横の小さな丸っこい字。
――師匠、かれーって何ですか。
エルシェは壁の前に立って、その字をじっと見上げていた。
指を伸ばした。
丸っこい字の最後の一文字にそっと触れた。
「……まだ残ってたんですね」
小さな声だった。
喉の紋は光らなかった。
誰が書いたのか、とは言っていない。
俺はエルシェのとなりに立って、同じ壁を見上げた。
「その字、修復の魔法で元に戻ったんです。最初はかすれて、読めませんでした」
「……そうですか」
「昨日、カレーを食べたとき、エルシェさんはやっと分かりました、って言いましたよね」
エルシェの肩がびくりと震えた。
喉のあたりがうっすらと灰色に光りかけた。
俺はそれ以上は言わなかった。
「……今夜はカレーにしましょうか」
エルシェがゆっくりと俺のほうを向いた。
「迷宮で採った香辛料がまだ少し残ってるんです。マルタさんにも食べてもらいたいし」
エルシェはしばらく何も言えないでいた。
それから、泣きそうな顔で笑った。
「……はい。食べたいです」
壁の落書きの、「カレー食べたい」の文字が夕日を受けて、橙色に光っていた。
百年前の誰かが食べたかったもの。
百年前の誰かが何なのか知りたかったもの。
今夜、それをこの台所で作る。
なんだか、それだけで胸がいっぱいになった。
第48話 了
__________________________________________________________
♡と☆での評価、フォローの方、よろしくお願いします。
20:10投稿に変更します。




