第47話 幕間・白い菓子の名前
――百年前。
秋のはじめだというのに、雪が降っていた。季節外れの早すぎる雪だった。
エルフの森の東の端。大陸の真ん中から西へ抜ける古い街道が、森の縁をかすめるように通っている場所だった。
街道を二人の男が歩いていた。
ひとりは大柄な騎士だった。金色の髪を短く刈りこみ、聖王国の紋章の入った鎧の上に分厚い毛皮の外套をはおっていた。背中に身の丈ほどもある大剣。口もとには寒さなど気にしていないような豪快な笑み。
もうひとりは灰色のローブを着た、細身の若い男だった。黒い髪。どこにでもいそうな顔。ただ、その目だけがひどく疲れていた。
「なあ、レイ」
騎士が白い息を吐きながら言った。
「お前、迷宮から出てきてから、ずっとその顔だな」
「どんな顔だよ」
「三十年くらい残業してきたみてえな顔だ」
「……当たらずといえども遠からずだ」
灰色のローブの男――レイはため息をついた。
聖王国に召喚されて、ひと月。
いや、レイにとっては三十年とひと月だった。
ガルデアの迷宮の奥にある時の流れの違う場所。外の一日が中の一年になる迷宮。聖王国の魔導師たちはレイをそこに放りこんで、言った。強くなって、出てこい、と。世界を救うために。
レイは三十年、そこにいた。
剣を覚えた。魔法を覚えた。料理を覚えた。およそ、覚えられるものは全部覚えた。ほかにすることがなかったからだ。
出てきたとき、外ではひと月しかたっていなかった。
迎えに来ていたのがこの騎士だった。ユーグ・グランツ。聖王国の騎士で召喚された勇者の護衛役。
レイが迷宮から出てきたとき、ユーグは、レイの顔を見るなり、何も言わずに干し肉を一枚差し出した。それから、「まずは飯だな」と言った。
それ以来、なんとなく一緒にいる。
「聖都に戻ったら、儀式だってよ」
ユーグが少しだけ声を落とした。
「白いものが空から来る前に、勇者さまに何かの力を授ける儀式だとかなんとか。俺みてえな下っ端には中身は知らされてねえがな」
「ふうん」
「……なあ、レイ」
「なんだよ」
「聖都に戻る前に少し寄り道しようぜ」
ユーグは前を向いたまま言った。いつもの豪快な笑みがほんの少しだけ消えていた。
「急ぐ旅でもねえだろ。三十年働いたやつが、少しくらい休んだって、罰は当たらねえ」
レイはユーグの横顔をちらりと見た。
何か、知っているのかもしれない。そう思った。けれど、聞かなかった。
「……休み方なんて、忘れたよ」
「じゃあ、思い出せ」
そのとき、森の奥から声が聞こえた。
獣の声だった。
低く苦しそうな、うなり声。
二人は顔を見合わせた。
森の中へ分け入った。
雪を踏みしめながら、声のするほうへ。木々のあいだを抜けると、小さな空き地に出た。
そこにそれがいた。
銀色の大きな獣だった。
家ほどもある。月の光をそのまま毛にしたような淡く輝く銀色の毛並み。狐の形をしていた。
その体に何本もの矢が突き刺さっていた。
雪の上に赤い血が点々と散っていた。
「……月銀狐だ」
ユーグが息をのんだ。
「聖獣だぞ。こんなところに……。誰がこんなことを」
矢羽根を見て、ユーグの顔がこわばった。
「……聖王国の矢だ」
大きな狐が二人に気づいた。
金色の目でにらみつけた。牙をむいて、うなる。立ち上がろうとして、よろめいて、雪の上に倒れた。
その大きな狐の足もとに。
小さな影が立ちふさがっていた。
女の子だった。
七つか、八つくらいに見えた。とがった耳。深い緑色の髪を二つに結んでいた。薄い服の上にぼろぼろの毛布を巻いていた。手に木の枝を一本、握りしめていた。
「こ、来ないでくださいっ!」
女の子は震える声で叫んだ。
「この子にさわらないでください! 聖王国の人たちはこの子を捕まえに来たんでしょう! もう、たくさん、矢を撃ったのに……っ!」
女の子の目から涙がぼろぼろとこぼれていた。それでも、木の枝をユーグの鎧に向けて、構えていた。
ユーグが困ったように頭をかいた。
「いや、嬢ちゃん、俺たちは……」
レイは黙って、歩き出した。
「レイ?」
女の子の前でしゃがんだ。目の高さを合わせた。
「大丈夫。何もしないよ」
「う、うそです!」
「うそじゃない。その子のけがを治したいだけだ」
女の子はレイの顔をじっと見た。
疲れた目。けれど、その奥に何かを見つけたのか、女の子の木の枝が少しだけ下がった。
レイは女の子の横を通って、大きな狐の前に立った。
狐がうなった。牙がレイの目の前に迫った。
レイは動かなかった。
矢の刺さった脇腹にそっと手を当てた。
「痛かったな。今、抜くからな」
一本ずつ、矢を抜いた。抜くたびに、狐の体がびくりと震えた。うなり声が苦しそうに途切れた。レイは抜いた傷口に次々と治癒の光を当てていった。
最後の一本を抜いたとき、狐はうなるのをやめていた。
金色の目でじっとレイを見下ろしていた。
レイはローブの懐をさぐった。
小さな包みを取り出した。
中には白くて、丸い、やわらかいものが三つ入っていた。
「……迷宮の中で米を見つけてな。三十年かけて、ようやくそれっぽいものができた」
誰に言うでもなく、レイはつぶやいた。
「故郷の菓子だ。中に甘い豆の餡が入ってる。……食うか?」
白い丸いものをひとつ、狐の鼻先に差し出した。
狐はしばらくにおいをかいでいた。
それから、大きな舌でぺろりとそれをすくい取った。
もぐ、もぐ、と口を動かした。
金色の目がゆっくりと細くなった。
狐は大きな頭をレイの胸にそっと押しつけてきた。
温かかった。
ふわふわだった。
レイはその頭を両腕で抱えるようにして、なでた。
三十年ぶりだった。何かをなでたのは。
「……お前、でかいけど、白くて、丸くて、ふわふわだな」
レイは少しだけ笑った。
「大福みたいだ」
「だいふく?」
女の子が首をかしげた。
「この菓子の名前だよ。……ダイフク。お前の名前、ダイフクでいいか」
大きな狐がふん、と鼻を鳴らした。気に入ったのか、気に入らないのか、分からなかった。
ユーグが後ろで腹を抱えて笑いだした。
「がっはっは! 聖獣に菓子の名前をつけるやつがあるか!」
「いいだろ、別に」
「月銀狐はエルフの森の守り神だぞ! それを、ダイフク! だめだ、腹がよじれる!」
ユーグは雪の上に転がって、笑い続けていた。
女の子がレイのローブの裾をくい、と引いた。
「……あの」
「ん?」
「あなたは誰ですか。聖王国の騎士さまと一緒にいるのに、この子を助けてくれて。……すごい魔法で」
レイは少しだけ考えた。
勇者、と言うべきなのだろう。聖王国がそう呼んでいる。
けれど、その言葉はどうにも自分の口から出てこなかった。
「名乗るほどの者じゃない。ただの会社員だよ」
「……かいしゃいん?」
「毎日、朝から晩まで数字とにらめっこして、残業して、終電で帰る。そういう仕事だ」
「ざんぎょう……しゅうでん……」
女の子は知らない言葉を大事そうに繰り返した。
それから、急にレイの前に回りこんで、雪の上に両膝をついた。
「わ、わたし、エルシェといいます!」
「え?」
「わたしを弟子にしてください!」
女の子――エルシェは雪に額がつくほど頭を下げた。
「この子をずっとひとりで守ろうとしてたんです。でも、わたしには何もできなくて。矢も抜けなくて。……あなたみたいになりたいです! かいしゃいんになりたいです!」
「いや、会社員はなるもんじゃ……」
「お願いします、師匠!」
「師匠って呼ぶな」
「師匠!」
「呼ぶなって」
大きな狐――ダイフクがふん、ともう一度鼻を鳴らした。それから、大きな尻尾をふわりと動かして、エルシェとレイをいっしょくたに包みこんだ。
温かかった。
ユーグが雪の上でまだ笑っていた。
「おい、レイ。寄り道、決まりだな」
「……勝手に決めるなよ」
「勝手じゃねえ。聖獣さまと弟子のお嬢ちゃんが、そう言ってる」
レイはダイフクの尻尾の中でため息をついた。
白い息が雪の空にのぼっていった。
三十年ぶりに少しだけ休める気がした。
――それが百年前の秋のはじまりだった。
第47話 了
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