第46話 言えないこと
大食祭の次の日の朝、エルシェが銀の匙亭を訪ねてきた。
灰色がかった外套。今日はフードをかぶっていなかった。深い緑色の髪を首の後ろでゆるく編んでいた。手に小さな包みを持っていた。
「……昨日は取り乱して、すみませんでした」
食堂の卓に案内すると、エルシェは座る前に深く頭を下げた。
「これ、お詫びのしるしです。エルフの森の蜂蜜で作った焼き菓子です」
包みを開くと、黄金色の小さな焼き菓子が並んでいた。甘い花の香りがした。
リリアの腕の中からシラタマが身を乗り出した。エルシェが菓子をひとつ、指でつまんで差し出すと、シラタマははぐっとくわえて、うっとりと目を細めた。
エルシェの顔がとろけるようにゆるんだ。
リリアの眉がほんの少しだけ寄った。
食堂の卓を灰羽の四人とエルシェが囲んだ。ティコとハンスは、朝からガルデアの店の場所探しに出かけていた。
「エルシェさんは、灰の賢者のことを研究していらっしゃるんですか」
俺が聞くと、エルシェは少しだけ目を伏せた。
「……はい。古代魔法の研究者、というのは本当です。その中でも、灰の賢者が使った魔法をずっと調べています」
「ずっとというのは」
「百年ほどです」
ガルムが飲みかけの水をぶっとふき出した。
「ひゃ、百年!? 嬢ちゃん、いくつだ!?」
「百十八歳です」
「……エルフってのはとんでもねえな」
ガルムは、口をぬぐいながら、エルシェの顔をまじまじと見た。どう見ても、十七、八の娘にしか見えなかった。
「毎年、大食祭の時期にはこの町に来ています。審査員を頼まれるのはついでです。本当の目的は……」
エルシェは窓の外のすり鉢の底を見た。
「迷宮の三十階にある灰の扉を見に来ています。百年、毎年」
食堂が静かになった。
「開かない扉を百年、毎年……?」
リリアが小さな声で言った。
「はい。いつか、開く日が来るかもしれないと思って」
エルシェはそう言って、少しだけ笑った。寂しそうな笑い方だった。
「それで、昨日、あなたの料理を食べて……」
エルシェは俺を見た。
口が開きかけた。
喉のあたりにほんの一瞬、灰色の線が浮かびかけた。
エルシェはぎゅっと唇を結んだ。線は消えた。
「……とても、懐かしい味がしました。それだけです」
アズがエルシェの喉をじっと見ていた。
「……エルシェさん。その喉の紋は誓約魔法ですね」
エルシェの肩がぴくりと動いた。
「アズ?」
「教団でも、使っていました。秘密を守らせるために。誓った言葉を口にしようとすると、声が止まります。何度も無理に破ろうとすれば……」
アズはそこで言葉を切った。
「……命に関わります」
食堂の空気が冷たくなった。
エルシェはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「……はい。そのとおりです。わたしには言えないことがあります。ある人と約束をしました。その人が自分で思い出すまで本当のことは言わないと」
エルシェは膝の上で両手を握りしめた。
「ごめんなさい。何のことか分からないまま、こんなことを言われても、困りますよね」
俺はしばらくエルシェを見ていた。
ある人。自分で思い出すまで。
それが誰のことなのか。
分からないふりをすることはできなかった。
ロザリンドの祖母の日記。弟子だというエルフの娘。森の家の花の彫りこみの椅子。台所の壁の子どものような字。
――師匠、かれーって何ですか。
昨日、エルシェはカレーを食べて、泣きながら言った。やっと分かりました、と。
胸の奥がぎしりと軋んだ。
知りたかった。この人に聞きたかった。俺は誰なのか。あなたは俺の何なのか。
けれど、聞けば、この人は答えようとするだろう。そのたびに、喉の紋が光る。声が止まる。命に関わる。
それに――。
ポケットの中の手紙に指が触れた。
思い出すな。
「……エルシェさん」
「はい」
「言えないなら、言わなくていいです」
エルシェが顔を上げた。
「俺にも思い出しちゃいけないことがあるみたいなんです。思い出そうとすると、困ったことが起きる。だから、俺も無理には聞きません」
俺は笑った。
「言えない人と聞けない人。……ちょうど、いいのかもしれません」
エルシェは何も言わなかった。
ただ、唇がわなわなと震えていた。
やがて、エルシェはうつむいて、両手で顔を覆った。
「……そういうところも……変わって、ない……」
指のあいだから、かすれた声がもれた。
喉の紋は光らなかった。
変わっていない、という言葉だけなら、誓約には触れないらしかった。
しばらくして、エルシェは顔を上げた。目は赤かったが、声は落ち着いていた。
「レイさん。ひとつ、お願いがあります」
「はい」
「わたしを灰羽に入れていただけませんか」
リリアがぴくりと背筋を伸ばした。
「古代魔法の研究のために、あなたのそばであなたの魔法を見ていたいのです。……それにわたしは、灰の扉のことをこの町の誰よりも知っています。百年、毎年、見てきましたから」
エルシェはまっすぐに俺を見た。
「あの扉はたぶん……あなたなら、開けられると思います」
食堂がしんとなった。
「……どうして、そう思うんですか」
「扉に彫られた羽根の模様は古代魔法の鍵です。その鍵を開けられるのは扉を閉めた本人の魔力だけです」
エルシェは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「……昨日、広場であなたが、カレーの鍋に火をかけていたときの魔力の揺らぎ。それが扉の羽根の模様とそっくりでした」
喉の紋は光らなかった。
見たことを見たとおりに言っているだけだからだろう。
俺はみんなの顔を見た。
ガルムは腕を組んで、にやりと笑っていた。アズはエルシェの喉をまだ少し心配そうに見ていた。
リリアはエルシェをじっと見つめていた。
それから、俺のほうを向いた。
「……レイ殿がよいと思われるなら」
少しだけ、声が硬かった。
「私は反対しません。ただ――」
リリアはエルシェに向き直った。
「エルシェ殿。灰羽は互いの背中を預け合うパーティです。言えないことがあるのは構いません。でも、仲間を裏切るようなことだけはしないでください」
エルシェはリリアの目をまっすぐに見返した。
「……はい。誓います」
その言葉のとき、エルシェの喉にうっすらと別の模様が浮かんだ。灰色ではなく、淡い若葉のような緑色の模様。
すぐに消えた。
「……今のは」
「エルフの誓いです。破れば、わたしの髪が全部抜けます」
「髪が……」
リリアが目をぱちくりさせた。
「エルフにとって、髪は命の次に大事なものです」
エルシェは真顔で言った。
ガルムが腹を抱えて笑いだした。
「がっはっは! いいじゃねえか、大将! 入れてやれよ! また、にぎやかになるぜ!」
俺はうなずいた。
「よろしくお願いします、エルシェさん」
「……はい!」
エルシェの顔がぱっと輝いた。
それから、椅子から立ち上がって、俺の前に来た。胸の前で、両手を組んで、深く頭を下げた。
「では今日からあなたの弟子に――」
そこで、言葉が止まった。
喉の紋は光っていなかった。
エルシェ自身が口を閉じたのだった。
顔がみるみる、赤くなっていった。
「……い、いえ。なんでもありません。仲間にです。仲間にしていただきます」
「……弟子?」
「言っていません」
「今、弟子って」
「言っていません!」
エルシェは真っ赤な顔で首をぶんぶんと横に振った。
ガルムがまた笑った。アズが小さく首をかしげた。
リリアだけが腕を組んで、じっとエルシェの赤い顔を見つめていた。
その腕の中には、いつの間にか戻ってきたシラタマが焼き菓子のかけらを口のまわりにつけたまま、すやすやと眠っていた。
ステータスの画面を開くと、パーティの行がまた書き換わっていた。
【パーティ:灰羽(リリア・グランツ、ガルム、アズ、エルシェ、シラタマ)】
ひとり、増えた。
なぜだろう。増えたはずなのに、戻ってきた、という気がした。
第46話 了
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