第45話 森の賢者
日が沈んだ。
広場の真ん中に大きな木の板が立てられた。勝負の結果を書き出すための板だった。
広場は人で埋めつくされていた。坂の上のほうまで人があふれていた。誰もが板のほうを見上げていた。
迷宮ギルドの長、グスタフが板の前に立った。眼帯のないほうの目で手もとの紙を見下ろした。
「――売り上げから発表する」
低い、よく通る声だった。
「シラタマ商会。カレーライス、八百十二杯。カツ丼、五百三十杯。売り上げ、銀貨二百二十七枚と銅貨八十枚」
広場がどよめいた。
「料理ギルド、ボッシュの店。迷宮竜の王宮風煮込み、二百四十一杯。売り上げ、銀貨一千二百五枚」
どよめきが大きくなった。
ティコの顔が青くなった。
「い、一千二百……」
杯の数ではこちらが五倍以上。けれど、一杯の値段が違いすぎた。売り上げだけなら、ボッシュの店が五倍以上、上回っていた。
ボッシュが勝ち誇ったように胸を張った。
グスタフは紙から目を上げた。
「――ただし」
広場が静まった。
「ボッシュの店の煮込みは竜の肉と偽って、岩トカゲの肉を出していた。審査の場でそれが明らかになった。大食祭の古い決まりによれば、偽りの品で得た売り上げは売り上げとは認めない。すべて、客に返させる」
ボッシュの顔から血の気が引いた。
「な……っ」
「よって、ボッシュの店の売り上げは銅貨一枚もなし」
一瞬の静けさ。
それから、広場が割れんばかりの歓声に包まれた。
「続いて、味の点数だ。ヴァレリオ伯爵」
ヴァレリオ伯爵が立ち上がった。白いひげをゆっくりとなでた。
「シラタマ商会、十点。……十点では足りぬ。わたしの七十年の食べ歩きの中で最も驚いた料理だ」
「グスタフ。シラタマ商会、十点。……カツ丼をもう一杯くれ」
広場が笑いに包まれた。
「森の賢者さま」
審査員の卓で深い緑色の髪の少女がゆっくりと立ち上がった。
フードはもうかぶっていなかった。泣きはらした目はまだ赤かった。
「シラタマ商会に十点を」
少女の声は静かだった。けれど、広場のいちばん奥まではっきりと届いた。
「それから、ボッシュさんの店には点をつけません。料理を偽った人に点をつけることはできません」
グスタフが板に最後の数字を書きこんだ。
「――自由屋台の勝負。勝者、シラタマ商会!」
広場が爆発した。
歓声。拍手。口笛。足を踏み鳴らす音。坂の上のほうから、下のほうまで町じゅうが揺れているようだった。
ティコが屋台の前でへなへなと座りこんだ。
それから、両手を突き上げて、叫んだ。
「――勝ったああああああっ!!」
ハンスがティコを抱き上げた。ティコは父親の首にしがみついて、わんわん泣いていた。
ガルムが俺の背中をばしばしとたたいた。ダリオとミナが手を取り合って跳びはねていた。宿の主人が洗い場で泣きながらどんぶりを洗っていた。
リリアの腕の中でシラタマが誇らしげにきゅうっ、と鳴いた。
アズが俺のとなりに来た。
「……勝ち、ました」
「勝ちましたね」
「……はい」
アズは少しだけ口の端を上げた。
グスタフがボッシュの前に立った。
「ボッシュ。約束どおり、来年からの大食祭の屋台は誰にでも開く。料理ギルドの帳面も迷宮ギルドと、町の評議会ですべて調べさせてもらう」
ボッシュは何も言わなかった。
金色の柱の前にひとり、立ち尽くしていた。料理人たちはいつの間にか、どこかへ消えていた。
祭りの片付けが終わって、広場から人がいなくなったころ。
ボッシュはまだ同じ場所に立っていた。
俺は、鍋の底に残っていたカレーを木の器によそって、ボッシュの前に置いた。
ボッシュは器を見下ろした。
しばらく、動かなかった。
やがて、匙を取って、ひと口、食べた。
口ひげが震えた。
「……うまい」
小さな、かすれた声だった。
「……若いころは、わたしもこういう料理を作りたかったのだがな」
ボッシュはそれだけ言って、器を置いた。
それから、背中を丸めて、ゆっくりと坂を上っていった。
俺はその背中をしばらく見送っていた。
フーゴが屋台の片付けを手伝いながら、俺のそばに来た。
「……レイさん。お願いがあります」
「はい」
「わたしに料理を教えてください。十年、包丁を握っていませんが、一からやり直したいんです」
フーゴは深く頭を下げた。
となりで聞いていたティコがぱっと顔を輝かせた。
「フーゴさん! それなら、シラタマ商会のガルデアの店で働かない? ガルデアにもお店、出したいんだ。作り方はお兄さんが教える。フーゴさんが、この町で作る」
「……わたしでいいんですか。あなたたちにあれだけ意地悪を……」
「最後に帳面を持ってきてくれたでしょ。あれがなかったら、勝てなかったかもしれない」
ティコはにっと笑った。
「商人はね、恩はちゃんと返すの」
フーゴは顔をくしゃくしゃにして、うなずいた。
そのときだった。
屋台の横に誰かが立っていることに気づいた。
深い緑色の髪。
灰色がかった地味な外套。
森の賢者と呼ばれていた、エルフの少女だった。
少女は胸の前で両手をぎゅっと握りしめていた。
屋台のまわりにいたみんなが手を止めて、少女を見た。
「……あの」
少女が口を開いた。
「突然、失礼します。わたしはエルシェと申します。エルフの森で古代魔法の研究をしている者です」
エルシェ。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がちくりとした。
森の家の花の彫りこみの椅子を見たときと同じ痛みだった。
「レイです。……審査、ありがとうございました」
俺が頭を下げると、エルシェはびくりと肩を揺らした。
「……レイ」
小さな声で俺の名前を繰り返した。
噛みしめるように。
「レイ、さん。……いい、お名前ですね」
エルシェは笑った。
笑いながら、また目に涙がにじんでいた。
「あのあなたの料理は……どこで覚えたのですか」
「分かりません。記憶がないんです。体が覚えていたみたいで」
エルシェの目が大きく見開かれた。
「記憶が……」
「はい。ふた月ほど前に森の中で目を覚ましました。覚えていたのは名前だけで」
エルシェはしばらく何も言わなかった。
ただ、じっと俺の顔を見ていた。
目、鼻、口。灰色のローブ。黒い髪。ひとつひとつを確かめるように。
それから、唇が震えた。
「……し――」
その瞬間だった。
エルシェの白い喉に灰色の模様が浮かび上がった。
細い線がいくつも絡み合った紋のような模様。それがぼうっと光った。
エルシェの声が止まった。
口は開いているのに、音が出なかった。
エルシェは苦しそうに喉を押さえた。背中を丸めて、咳きこんだ。
「エルシェさん!」
俺はあわてて駆け寄った。
喉の模様はすぐにすうっと消えていった。
エルシェはしばらく肩で息をしていた。それから、顔を上げて、無理に笑った。
「……すみません。少し、のどが」
「大丈夫ですか。治癒を――」
「いいえ。大丈夫です。これは治りません。……治してはいけないものです」
エルシェは首を横に振った。
アズが俺の後ろで小さく息をのんだ気配がした。
そのとき、リリアの腕の中からシラタマが飛び出した。
まっすぐにエルシェの足もとへ。
エルシェがシラタマを見下ろした。
その顔が凍りついた。
銀色の毛並み。金色の目。
シラタマはエルシェの足のにおいをくんくんとかいだ。
それから、エルシェの外套の裾をよじ登りはじめた。胸までよじ登って、エルシェの腕の中にすっぽりと収まった。
きゅう、と鳴いて、エルシェの頬に鼻をすり寄せた。
エルシェは動かなかった。
動けなかったのだと思う。
腕の中の小さな銀色の獣を見下ろしていた。
その目からまた涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「……この子の名前は」
かすれた声だった。
「シラタマ、です」
俺が答えると、エルシェは目を閉じた。
それから、泣きながら、ふき出した。
「……ふ、ふふっ……シラタマ……」
肩を震わせて、笑っていた。泣きながら、笑っていた。
「……変わってないんですね。そういうところ」
「え?」
「……いいえ。なんでもありません」
エルシェはシラタマの背中に顔をうずめた。
しばらく、そのまま、動かなかった。
祭りのあとの広場に夜風が吹いていた。
すり鉢の底から見上げる空に白い月と、青い月とそれから黒い一本のひびが浮かんでいた。
第45話 了
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