第44話 大食祭
大食祭の最終日はよく晴れていた。
すり鉢の町じゅうが、人であふれていた。坂という坂に屋台が並び、のぼりがはためいていた。大陸じゅうから集まった旅人たちが串焼きをかじり、菓子をつまみ、酒をあおりながら、坂を上ったり下りたりしていた。どこからか、楽隊の音が聞こえてくる。子どもたちの笑い声。呼びこみの声。
町のいちばん底、迷宮の入口の前に大きな広場がある。
そこが自由屋台の勝負の場所だった。
広場の東側にボッシュの店が出ていた。
屋台、と呼ぶには豪華すぎた。金色の柱に赤い天幕。天幕には、銀のしゃもじの紋章が大きく染め抜かれていた。店の前には、白い上着の料理人が十人も並び、巨大な銅の鍋から湯気がもうもうと立ちのぼっていた。
のぼりには金の字でこう書かれていた。
――迷宮竜の王宮風煮込み。一杯、銀貨五枚。
「銀貨五枚……」
ティコが目をむいた。
「うちのカレーの三十杯分……」
広場の西側に俺たちの屋台があった。
木の骨組みに白い布の屋根。手書きの看板。リンデンの広場に出したものと同じ造りだった。ボッシュの店と比べると、小屋と宮殿くらいの違いがあった。
――シラタマ商会。
――カレーライス 一杯、銅貨十五枚。
――カツ丼 一杯、銅貨二十枚。
看板の横でシラタマがリリアの腕に抱かれて、あくびをしていた。
勝負は昼から日が沈むまで。
そのあいだの売り上げと、三人の審査員がつける味の点数で勝ち負けを決める。
昼の鐘が鳴った。
鍋のふたを開けた。
カレーの香りが広場にぶわっと広がった。
近くを歩いていた人たちが足を止めた。鼻をひくひくさせた。こちらを見た。
けれど、誰も近づいてこなかった。
広場の真ん中に白い上着の男たちが何人も立っていた。料理ギルドの者たちだった。そのうちのひとりが大声で言った。
「おい、みんな聞いたか! あの余所者の屋台の料理は茶色くて、どろどろしてて、泥みたいなんだとよ! 食ったら、腹を壊すぞ!」
「香辛料を山ほど使ってるって話だ! 舌が焼けて、使いものにならなくなるぞ!」
人々が顔を見合わせた。
足を止めていた人たちが、ボッシュの店のほうへぞろぞろと流れていった。
「……汚え」
ガルムが屋台の横でうなった。
「大将。あいつら、黙らせてくるか」
「いいえ」
俺は首を振った。
「においは口で消せません」
鍋をかき混ぜた。
香りがさらに広がっていった。
カツを油に落とした。
じゅわあああっ、と音が立った。揚げた衣と甘じょっぱい出汁の香りがカレーの香りと混ざり合って、広場の隅々まで流れていった。
ボッシュの店の前に並んでいた人たちがひとり、またひとりとこちらを振り返りはじめた。
最初に来たのは小さな男の子だった。
母親の手を振りほどいて、屋台の前まで駆けてきて、背伸びをして、鍋をのぞきこんだ。
「……いいにおい」
「ぼうや、食べてみる?」
ティコが小さな木の器にほんの少しだけカレーとごはんを盛って、差し出した。
「お代はいらないよ。味見」
男の子は器を受け取って、匙でひと口、食べた。
目がまんまるになった。
「……おかあさん! おかあさん、これ、すごい! からい! でも、あまい! すごい!」
母親があわてて駆け寄ってきた。男の子から器を取り上げて、残りをひと口、食べた。
母親の手が止まった。
「……二つ、ください」
それが始まりだった。
リンデンの広場と同じだった。ひとりが食べると、声が上がる。その声を聞いて、人が集まる。集まった人が食べて、また声が上がる。
一刻もしないうちに、行列は広場の端まで伸びていた。
料理ギルドの男たちがまた何か叫ぼうとした。
その前にダリオが紅蓮の牙の四人を連れて、行列の横に立った。
「おう腹壊すって話は嘘だぜ! 俺は、この人たちの料理を食って、十八階の王牛から生きて帰ったんだ!」
ダリオの声はよく通った。紅蓮の牙が十八階から帰ってきた話は町じゅうに広まっていた。人々がざわざわとした。
料理ギルドの男たちは、ガルムににらまれて、すごすごと引き下がっていった。
屋台の中は目の回るような忙しさだった。
俺がカレーを盛る。カツを揚げる。卵でとじる。ハンスがごはんをよそう。宿の主人が手伝いに来てくれて、どんぶりを洗う。アズがお金を受け取る。
「……銅貨、十五枚。ちょうど、です。……ありがとう、ございます」
アズの声はあいかわらずぎこちなかった。けれど、ほんの少しだけ口の端が上がっていた。
ティコは行列に向かって、声を張り上げ続けていた。リリアはシラタマを抱いたまま、行列を整えていた。シラタマは、リリアの腕の中から並んでいる子どもたちに前足を振っていた。子どもたちがきゃあきゃあと喜んでいた。
日が傾きはじめたころ。
広場の北側に大きな卓が運びこまれた。
審査員の席だった。
三つの椅子が並んでいた。
ひとつ目の椅子に座ったのは白いひげをたくわえた、恰幅のいい老人だった。上等な服を着て、胸に勲章をいくつも下げていた。
「美食家のヴァレリオ伯爵だ。大陸じゅうの料理を食べ歩いてきた人だよ」
ダリオが小声で教えてくれた。
ふたつ目の椅子に座ったのは、がっしりとした体つきの片目に眼帯をした男だった。迷宮ギルドの長、グスタフ。エマの上司だという。
三つ目の椅子に座ったのは――。
フードを深くかぶっていた。
細い体。灰色がかった地味な外套。フードの端から黒に近い深い緑色の髪が、ほんの少しだけこぼれていた。
「三人目は森の賢者さまだ。毎年、この祭りのときだけどこからかやってくる、エルフの学者さんらしい。顔は誰も見たことがねえ」
深い緑色の髪。
俺の胸がどくん、と鳴った。
夢の中で大きな狐の足もとで泣いていた小さな女の子。あの子も同じ色の髪をしていた。
審査はボッシュの店から始まった。
ボッシュ自らが銀の盆に金の器を三つ乗せて、うやうやしく、審査員の卓に運んだ。
「どうぞ、お召し上がりください。迷宮の四十階に棲む、竜の肉を七日七晩かけて煮こんだ王宮風の煮込みでございます」
器の中には赤黒い、とろりとした煮込みが入っていた。上に金の箔がひらひらと乗っていた。
ヴァレリオ伯爵がひと口、食べた。
「……ふむ。濃厚だな。さすがは竜の肉だ」
グスタフがひと口、食べた。
「……うまい。うまいが……」
グスタフは少しだけ首をかしげた。
森の賢者が匙を取った。
ひと口、食べた。
しばらく、黙っていた。
それから、匙を静かに置いた。
「……ボッシュさん」
フードの下から澄んだ、静かな声がした。少女の声だった。
「これは竜の肉ではありません」
広場がしんと静まり返った。
ボッシュの顔が引きつった。
「な、何をおっしゃいますか、賢者さま。わたしどもは確かに四十階の――」
「竜の肉は煮こむと、脂が青く光ります。これにはそれがありません。それにこの歯ごたえ。このかすかな泥のにおい」
森の賢者は器をそっと卓の上に押しやった。
「岩トカゲの肉です。二階や三階にいくらでもいる、ありふれた魔物の。それをほんの少しの竜の脂で香りづけして、ごまかしています」
ざわっ、と広場が揺れた。
「い、岩トカゲ……!?」
「銀貨五枚も払ったのに!?」
ボッシュの店の前に並んでいた人たちが、手の中の金の器を呆然と見下ろしていた。
ボッシュの顔が赤くなり、それから青くなった。
「で、でたらめだ! 賢者さまといえど、証拠もなく、そのような――」
「証拠なら、あります」
広場の人ごみの中から声がした。
フーゴだった。
白い上着を脱いで、ふだんの服に着替えていた。胸に分厚い帳面を抱えていた。
「……料理ギルドの仕入れの帳面です。わたしが十年、つけてきたものです」
ボッシュが目をむいた。
「フーゴ、貴様……!」
フーゴはボッシュのほうを見なかった。震える手で帳面を審査員の卓に置いた。
それから、ひとつ、深く息を吸った。
「わたしは料理人になりたかったんです」
それだけ言って、フーゴは頭を下げた。
グスタフが帳面を開いて、中を読んだ。眼帯のないほうの目がみるみるうちに、険しくなっていった。
「……岩トカゲ、五百匹。竜の脂、小瓶ひとつ。……ボッシュ。これはどういうことだ」
ボッシュは何も答えられなかった。
広場じゅうの視線がボッシュに突き刺さっていた。
審査は続いた。
俺たちの屋台の番だった。
俺は、カレーライスを三皿とカツ丼を三杯、盆に乗せて、審査員の卓に運んだ。
ヴァレリオ伯爵はカレーを見て、眉をひそめた。
「……茶色いな。なんとも見慣れぬ料理だ」
それでも、匙を入れた。
ひと口。
伯爵の白いひげがぴくりと動いた。
ふた口。
伯爵は匙を持ったまま、天を仰いだ。
「……なんと。わたしは七十年、何を食べてきたのだ……」
グスタフはカツ丼を無言でかきこんでいた。どんぶりの底が見えるまで一度も顔を上げなかった。
森の賢者はカレーの皿をじっと見つめていた。
なかなか、匙を取らなかった。
フードの下で細い肩がかすかに震えていた。
やがて、匙を取った。
ごはんと茶色いものを少しだけすくった。
口に運んだ。
森の賢者の手から匙が落ちた。
からん、と卓の上で音がした。
賢者は両手で自分の口を覆った。
肩が大きく震えていた。
フードがするりと背中に落ちた。
深い緑色の髪が夕日の中にこぼれ出た。とがった耳。白い小さな顔。十七、八歳くらいに見える、少女の顔だった。
その大きな瞳から涙が次から次へとあふれ出していた。
少女は口を覆ったまま、ゆっくりと顔を上げた。
俺を見た。
まっすぐに俺を。
涙に濡れた唇が手のひらの下でかすかに動いた。
「……かれー」
小さな、小さな声だった。
「やっと……分かりました……」
第44話 了
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