第43話 カレーとカツ丼
銀の匙亭の台所を祭りまでのあいだ、丸ごと借りることになった。
宿の主人は最初、渋い顔をしていた。料理ギルドに目をつけられたら困る、と。けれど、試しに作った迷宮猪の角煮をひと口食べさせたら、黙って台所の鍵を渡してくれた。
「……ボッシュの野郎には前から腹が立ってたんだ」
主人はそう言って、自分も前掛けをつけた。
まずはカレーだった。
十二階で摘んできた香辛料を台所の卓の上にずらりと並べる。
黄金根。香り種。すっと莢。茶色い丸い実。黒い粒。火炎唐辛子。それから、香木の皮。
「……これ、全部、使うの?」
ティコが目をまるくしていた。
「全部、少しずつ使います」
香り種と、茶色い丸い実と黒い粒を乾いた鍋でから炒りする。焦がさないように鍋をゆすりながら。ぱちぱちと種がはじける音がした。香りがふわっと立ちのぼる。
台所じゅうに香りが広がった。
リリアが思わず、鼻に手をやった。
「……何でしょう、この香りは。いい香りなのに、どこか、落ち着かない気持ちになります」
「お腹がすくんです。たぶん」
炒った種を石の鉢に移した。
「アズ。これを細かくすりつぶしてもらえますか。粉になるまで」
「……はい」
アズは、石の鉢を抱えて、すりこぎでごりごりと種をすりはじめた。無表情のまま、驚くほど手早く正確に。あっという間に鉢の中の種が茶色い粉になっていった。
黄金根を薄く切って、干して、すりおろす。鮮やかな黄色い粉。唐辛子も同じように粉にする。すっと莢は割って、中の黒い小さな種を取り出す。香木の皮を削る。
全部をひとつの鉢で混ぜ合わせた。
黄色と、茶色と赤の粉が混ざり合って、深い黄土色になった。
鉢に鼻を近づけた。
胸の奥がきゅっとなった。
この香りだ。
「――カレー粉です」
次は鍋だった。
ハンスの荷の中にあった玉ねぎを薄く切って、猪の脂でじっくりと炒める。透き通って、それから茶色くなって、ねっとりと甘くなるまで。しょうがに似た根とガーリ草をすりおろして加える。
そこに迷宮猪のばら肉をひと口大に切って入れる。表面に焼き色がついたら、カレー粉をぱらぱらと振り入れる。
じゅわっ。
香りが爆発した。
台所の戸口にいつの間にか、ガルムが立っていた。鼻をひくひくさせていた。
「……大将。なんだ、このにおいは。腹の底がぐるぐるするぞ」
「もう少し、待ってください」
水を加えて、ことこと煮こむ。迷宮の茸を干して取った出汁を足す。肉が柔らかくなるまで。
そのあいだに別の小鍋で小麦粉を猪の脂でゆっくりと炒める。焦がさないように。淡い茶色になるまで。そこに残りのカレー粉を加えて、よく混ぜる。
それを煮こんだ鍋に少しずつ溶かし入れた。
鍋の中身がみるみるうちに、とろりとしていった。
茶色い。
とろりとしている。
スパイスの香りが湯気と一緒に立ちのぼっている。
最後に魚醤をほんの少しと、ティコが隠し持っていたエルフの国の蜂蜜をひとさじ。隠し味だ。
木べらでひと混ぜした。
土鍋で炊いた白いごはんを皿に盛る。その横にとろりと茶色いものをかける。
白と茶色。
湯気が立ちのぼった。
しばらく、何も言えなかった。
皿を持つ手が少しだけ震えていた。
「……できました」
声がかすれていた。
「カレーライスです」
台所の卓をみんなが囲んだ。
リリア。ティコ。ハンス。ガルム。アズ。宿の主人。それから、卓の上に、シラタマ。
みんな皿の上の茶色いものをじっと見ていた。
「……これ、食べ物?」
ティコがおそるおそる聞いた。
「食べ物です」
最初に匙を入れたのはガルムだった。
ごはんと茶色いものを一緒にすくって、大きな口に放りこんだ。
噛んだ。
ガルムの耳がぴーんと立った。
尻尾がぶわっとふくらんだ。
それから、ガルムは天井に向かって、吠えた。
「――アオオオオオオオオンッ!!」
宿じゅうが、揺れた。
「が、ガルム殿!?」
「うめえええええっ!! なんだこれ!! 辛え! でも甘え! 熱い! 腹の底から熱いのが湧いてくる!!」
ガルムはものすごい勢いで、匙を動かしはじめた。
それを見て、みんなが一斉に匙を入れた。
「……っ、辛い! でも、止まらない……!」
「肉がとろける……。この茶色いものがごはんに絡んで……」
「香りが鼻から抜けていく……。さっき、落ち着かないと言ったのは撤回します……」
リリアが額に汗を浮かべながら、夢中で食べていた。
アズはひと口食べて、固まった。
それから、ゆっくりともうひと口。もうひと口。
目の端に涙がにじんでいた。辛いからなのか、そうでないのか、分からなかった。
シラタマはひと口なめて、「きゅっ!」と跳び上がった。舌を出して、はふはふとあえいでいた。
それでも、皿から離れなかった。
もう一度、なめた。また、跳び上がった。また、なめた。
「……タマちゃん、辛いのに、やめられないんだ」
ティコが笑いながら、シラタマに水を差し出した。
俺もひと口、食べた。
辛かった。甘かった。熱かった。
そして、なつかしかった。
どこで食べたのか、分からない。誰と食べたのか、分からない。
それでも、胸の奥がじんわりと温かくなった。
――カレー食べたい。
森の家の台所の壁の落書き。
百年前の俺はこれが食べたかったのだ。
「……やっと食べられたよ」
小さく、つぶやいた。
となりでリリアが匙を止めて、俺の顔を見ていた。
何も聞かなかった。
ただ、自分の皿のカレーをもうひと口、すくった。
次はカツ丼だった。
迷宮猪の背中の肉を指一本分の厚さに切る。筋に包丁の先で切れ目を入れる。塩と黒い粒の香辛料を振る。
小麦粉をまぶす。岩鶏の卵を溶いたものにくぐらせる。それから、ハンスの荷の中の固く焼いたパンを、すりおろした粉をたっぷりとまぶす。
猪の脂を熱した鍋にそっと沈める。
じゅわあああっ。
細かい泡が肉のまわりにぶくぶくと立った。きつね色になるまで。からりと音がするまで。
揚げたてをざくざくと食べやすい大きさに切る。
小さな平たい鍋に茸の出汁と、魚醤と、果実酒と蜂蜜を少し。薄く切った玉ねぎを入れて、ひと煮立ち。そこに揚げたカツを並べる。溶いた卵を上からぐるりと回しかける。
ふたをする。
ほんの少しだけ待つ。
卵が半熟にふるふると固まったところで火から下ろす。
どんぶりに盛ったごはんの上につるりとすべらせる。
湯気。黄色い卵。その下からきつね色の衣がのぞいている。甘じょっぱい出汁の香り。
「カツ丼です」
今度は誰もためらわなかった。
みんながどんぶりを抱えこんで、無言でかきこんでいた。
ざくっ。とろっ。じゅわっ。
音だけが台所に響いていた。
ハンスがどんぶりを空にして、長いため息をついた。
「……レイ殿。わたしはこれまで三十年、商いをしてまいりました。大陸じゅうの料理を食べてきたつもりです」
ハンスは空っぽのどんぶりを両手で持ったまま、言った。
「こんなものはどこにもありませんでした」
ティコが口のまわりを出汁で光らせながら、拳を突き上げた。
「勝てる! これなら、絶対、勝てる!」
そのときだった。
台所の裏口の戸がほんの少しだけ開いていることに俺は気づいた。
戸の隙間から誰かがのぞいていた。
太った体。白い上着。胸に銀のしゃもじの徽章。
フーゴだった。
目が合った。
フーゴはあわてて戸を閉めようとした。
俺は、手もとにあったカツ丼のどんぶりをひとつ持ち上げた。まだ、湯気が立っていた。
「フーゴさん。よかったら、どうぞ」
戸の向こうでフーゴが固まった気配がした。
しばらく、何の音もしなかった。
やがて、戸がゆっくりと開いた。
フーゴはうつむいたまま、台所に入ってきた。おずおずとどんぶりを受け取った。
ひと口、食べた。
フーゴの手が止まった。
それから、フーゴはどんぶりを抱えたまま、ぼろぼろと泣きだした。
「……わたしは……わたしは料理人になりたくて、この町に来たんです……」
しゃくり上げながら、フーゴは言った。
「でも、料理ギルドに入ったら、毎日、帳面をつけて、ボッシュさまの言うとおりに店を脅して回るだけで……。もう十年、包丁を握っていない……」
台所の中がしんとなった。
フーゴはどんぶりの中身を最後のひと粒まで食べた。
それから、袖で顔をぬぐって、顔を上げた。
「……ひとつだけ、お教えします。ボッシュさまが祭りで出す料理。『迷宮竜の王宮風煮込み』」
フーゴの声が震えていた。
「あれは――竜の肉ではありません」
第43話 了
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