第40話 王牛のステーキ
十八階から十五階までは紅蓮の牙と一緒に歩いて上った。
十五階の転移の石に触れて、迷宮の入口まで一気に飛ぶ。光に包まれて、次の瞬間にはすり鉢の底の黒いアーチの前に立っていた。
夕暮れだった。
入口のまわりに人だかりができていた。その真ん中でミナがエマに支えられながら、ずっとアーチの奥を見つめていた。
転移の光の中から赤い髪が現れた瞬間、ミナの顔がくしゃくしゃに崩れた。
「ダリオ……っ!」
ミナは杖を放り出して、走ってきた。ダリオに体ごとぶつかるように抱きついた。
ダリオはよろけながら、それを受け止めた。
「……悪かったミナ。ひとりで行かせて」
「ばか……っ、ばかっ……!」
ミナはダリオの胸をたたきながら、泣いていた。大盾の男も、弓の女も、身軽な男もミナのまわりに集まって、ぐしゃぐしゃの顔で笑っていた。
人だかりの冒険者たちがざわざわとしていた。
「紅蓮の牙が帰ってきた……」
「十八階の王牛を倒したって……?」
「いや、倒したのは灰羽とかいうリンデンの新顔らしいぜ」
「銀牙が群れを咆哮で止めたって……」
ガルムは居心地が悪そうに耳の後ろをかいていた。
ミナがダリオから離れて、ガルムの前に立った。
涙で濡れた顔のまま、深く頭を下げた。
「ありがとうございました銀牙さん」
「……よせよ。ガルムでいい」
「ガルムさん。兄に手紙を書きます。英雄は今でも、英雄でしたって」
ガルムは何も言えずに空を見上げていた。
鼻が少し、赤かった。
その夜、銀の匙亭の裏庭で宴を開いた。
言い出したのはティコだった。
「王牛の肉がこれだけあるんだよ! 宿の中じゃ焼ききれないでしょ!」
宿の主人に頼んで、裏庭を借りた。土の魔法で、石を組んで、大きな焼き台を作る。その上に鉄板代わりの平たい石を乗せる。下で薪を燃やす。
王牛の肩ロースを切り分けた。
指二本分の厚さ。赤い身の中に白い脂が細かい網の目のように入っていた。包丁を入れるだけで脂がとろりと指についた。
焼く前に肉をしばらく外の空気に置いておく。冷たいまま焼くと、中まで火が通らない。そのあいだにたれを作った。
小鍋にガーリ草を薄く切って、王牛の脂でじっくりと炒める。香りが立ったら、魚醤を少し。それから、ハンスの荷の中にあった南の国の果実酒をどぼどぼと注ぐ。煮つめる。とろみが出るまで。甘くて、しょっぱくて、香ばしいにおいが、裏庭に広がっていく。
石の板が十分に熱くなった。
肉を置いた。
じゅわあああああっ。
音が裏庭じゅうに響いた。
白い煙がもうもうと立ちのぼった。脂の焼けるにおいが、夜の空気に溶けていく。
表面に焼き色がつくまで触らない。裏返す。また、じゅわあっ、と音が立つ。肉の縁から脂がぷつぷつと泡を立てて、あふれ出す。
焼けたら、すぐには切らない。まな板の上で少し休ませる。肉汁が中で落ち着くのを待つ。
「……大将。まだか」
「もう少し」
「まだか」
「もう少しです」
「まだか……」
ガルムが焼き台の前で尻尾を振りながら、うろうろしていた。その足もとでシラタマも同じようにうろうろしていた。ふたりとも口の端からよだれが垂れていた。
ようやく、包丁を入れた。
切り口はきれいな薄い桃色だった。肉汁がじわりとまな板の上ににじみ出た。
皿に並べて、上からたれをかけた。
となりには土鍋で炊いた白いごはん。
「どうぞ。王牛のステーキです」
裏庭に並べた卓を紅蓮の牙の五人と、エマと、灰羽の四人とハンスとティコが囲んでいた。
誰もすぐには手を出さなかった。
皿の上の肉から立ちのぼる湯気をみんな、ただ、じっと見つめていた。
最初に動いたのはダリオだった。
ひと切れ、口に入れた。
噛んだ。
ダリオの目から涙がぼろっとこぼれた。
「……なんだよ、これ……」
それを合図にみんなの手が一斉に動いた。
「や、柔らかい……っ、噛んでないのに、溶ける……っ」
「このたれ……甘くて、しょっぱくて……ごはんが、止まらない……」
「ガルデアに十年住んでるけど、こんな肉料理、食べたことない……」
エマが眼鏡を曇らせながら、夢中で食べていた。ミナはひと口ごとに目を閉じて、震えていた。大盾の男はごはんを三杯おかわりした。
ガルムは無言だった。
ただ、肉を口に運んでは、目を閉じて、ゆっくりと噛んで、飲みこんで、また肉を口に運んでいた。尻尾だけがぱたぱたと休みなく揺れていた。
リリアは、ステーキをひと切れ食べるたびに、ナイフとフォークを置いて、胸に手を当てていた。
「……レイ殿。騎士として、一生の不覚です。私は今、食べ物のことしか考えられません」
「それで、いいと思いますよ」
アズは、ごはんの上にステーキを乗せて、たれをかけて、黙々と食べていた。いつもより、食べる速さが少しだけ速かった。
そして、シラタマは。
俺が試しに一枚まるごとの焼いたステーキを、シラタマの前の皿に置いてみた。シラタマの体よりもひと回り大きなステーキだった。
シラタマは目を輝かせて、それに飛びついた。
はぐはぐはぐはぐ。
小さな口で、ものすごい速さでかじっていく。
みるみるうちに、ステーキが小さくなっていく。
「え……」
「嘘だろ……」
「タマちゃん、それ、タマちゃんより大きかったよね……?」
最後のひとかけらを飲みこむと、シラタマは皿の上でころんとあおむけに転がった。
お腹がまんまるにふくれていた。
白い、まんまるの毛玉。
ティコがふき出した。
「……白玉じゃなくて、大福になってる」
裏庭じゅうが、笑いに包まれた。
ダリオまで泣きながら笑っていた。
そのときだった。
裏庭の木戸がどん、と乱暴に開いた。
「――何をしているか!」
入ってきたのはでっぷりと太った中年の男だった。上等な白い上着を着て、胸に銀色のしゃもじの形の徽章をつけていた。後ろに同じ徽章をつけた若い男を二人、従えていた。
「わたしはガルデア料理ギルドのフーゴである!」
男は裏庭の卓を見回して、鼻を鳴らした。
「この町では、料理ギルドの許しなく人に料理をふるまってはならん! 屋台も、店も、宴もすべてだ! 許しを得ていない料理はギルドの定めにより罰金だ!」
「え、でも、これ、あたしたちの宴でお金なんか取ってないよ?」
ティコが言い返した。
「金を取るかどうかは関係ない! 許しのない料理は許しのない料理だ!」
フーゴは、焼き台の上の残りの肉を見て、それから皿の上のたれを見た。
鼻がひくりと動いた。
ほんの一瞬、フーゴの目が揺れた。
けれど、すぐに咳払いをした。
「……よいか、余所者。十日後、この町では年に一度の大食祭が開かれる。大陸じゅうから、料理人と食通が集まる祭りだ。その祭りの屋台は、すべて、料理ギルドの長、ボッシュさまがお決めになる。余所者が勝手に店を出せると思うな」
フーゴはそう言い捨てて、若い男たちに顎をしゃくった。
出ていく前にもう一度だけ焼き台の肉を、名残惜しそうに振り返った。
木戸が閉まった。
裏庭がしんとなった。
ティコが卓の上で拳を握りしめていた。
「……お兄さん」
「はい」
「大食祭、出よう」
ティコの目がたき火の光を映して、ぎらぎらと光っていた。
「シラタマ商会の屋台で。料理ギルドがなんて言おうと、絶対、出る」
ハンスが額を押さえていた。けれど、止めなかった。
――裏庭の塀の外。
夜の坂道にひとりの少女が立っていた。
深くフードをかぶっていた。フードの端から黒に近い深い緑色の髪がこぼれていた。その髪のあいだから、とがった耳の先がのぞいていた。
少女は、塀の向こうから漂ってくるにおいをじっとかいでいた。
ガーリ草を脂で炒めたにおい。魚醤と果実酒を煮つめたにおい。
少女の肩が震えていた。
「……この匂い……」
フードの下で唇がかすかに動いた。
「……し――」
少女ははっと自分の口を両手で押さえた。
言いかけた言葉を飲みこむように。
しばらく、そのまま、動かなかった。
指のあいだから、涙がぽたぽたと坂道の石畳に落ちていた。
やがて、少女は、フードをさらに深くかぶり直して、夜の坂道を駆け下りていった。
第40話 了
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