第32話 ありがとう
その夜、俺は居間のテーブルにみんなを集めた。
リリア。ティコ。マルタ。ガルム。アズ。それから、いつもの丸い敷物ではなくリリアの膝の上に、シラタマ。
大きな木のテーブルには椅子が三脚しかない。ガルムは床にあぐらをかき、ティコとアズはひとつの長椅子を引き寄せて、並んで座った。
「話しておきたいことがあります」
俺は、ポケットから焼け焦げた手紙を取り出して、テーブルの真ん中に置いた。
みんなの目がそれに集まった。
「俺が石の部屋で目を覚ましたとき、持っていたものです。俺の字で書いてあります」
手紙を開いた。
読める三行を指でなぞった。
「俺へ。思い出すな。……銀色の狐を見つけたら、今度こそ守ってやれ。……グランツの家の者に会ったら、礼を言え」
リリアがはっと顔を上げた。
「グランツの……?」
「はい。三行目は満月の夜のあとに読めるようになりました」
俺はそれから全部を話した。
石の部屋で目を覚ましたこと。ステータスの称号が塗りつぶされていること。休息のスキルだけがLv1だったこと。ユーグの肖像画を見たときの頭の痛み。洞窟で見た中庭の光景。灰羽という名前。満月の夜の背中の感触。空のひび。灰の賢者、という声。称号に浮かんだ灰の一文字。
それから、今日、ロザリンドから聞いた先々代の日記の話。
話し終えたとき、居間はしんとしていた。
最初に口を開いたのはティコだった。
「……お兄さんが、灰の賢者?」
「分かりません。そう呼ばれた、というだけです」
「でも、日記には、灰色のローブの青年って……銀色の大きな狐って……ダイフクって……」
ティコは、俺のローブとリリアの膝の上のシラタマを交互に見た。
「……お兄さん、常識ないどころの話じゃなかったんだ」
「ティコ」
マルタがティコの頭を軽くこづいた。けれど、マルタ自身も目を丸くしたまま、俺を見ていた。
ガルムが床の上で腕を組んだ。
「灰の賢者っていやあ、子どもでも知ってる、おとぎ話の英雄だぞ。百年前、空から来た白い化け物を追っ払ったっていう。……その本人がうちの大将だってのか」
「本人かどうかは分かりません。俺には記憶がありませんから」
「記憶がなくても、指一本で俺を風呂まで飛ばすやつはそうそういねえよ」
ガルムはがりがりと頭をかいた。
リリアはずっと黙っていた。
膝の上のシラタマをなでる手が止まっていた。
その目はテーブルの上の手紙の三行目を見つめていた。
グランツの家の者に会ったら、礼を言え。
「……アズ」
俺は長椅子の端に座っていたアズに声をかけた。
アズはびくりと肩を揺らした。
「教団のことを知っている範囲で教えてもらえますか。無理にとは言いません」
アズはしばらく膝の上で手を握っていた。
それから、小さくうなずいた。
「……想起教団。アナムネシス、とも呼ばれています。わたしは東の果ての窓のない塔で育ちました。塔の上に司教さまがいます。名前は知りません。わたしたちはただ、司教さまと呼んでいました」
アズの声はまだ少し平らだった。けれど、満月の夜の前よりもほんの少しだけ揺れがあった。
「教団は神さまを待っています。百年前に空から来て、眠ってしまった神さまを」
「神さま」
「はい。その神さまは、つらいことを全部、忘れさせてくれるのだと教わりました。悲しいことも。痛いことも。忘れてしまえば、誰も苦しまなくなる。それが教団の教えです」
アズは少しだけうつむいた。
「神さまは、ある人の記憶の中で眠っているのだと司教さまは言っていました。その人が全部を思い出したとき、神さまは目を覚ます。だから、教団はその人に思い出させなければならない。どんなことをしても」
居間の空気が重くなった。
「そのある人というのが……」
「……あなたです。レイ、さん」
アズは俺の名前をぎこちなく呼んだ。今まで一度も名前で呼ばれたことはなかった。
「空のひびは、神さまが目を覚ましはじめている、しるしだと思います」
ガルムが低くうなった。
「……つまり、大将が思い出せば思い出すほどその神さまってのが起きてくる。空が割れる。で、教団のやつらは、大将に思い出させるために、俺たちを襲いに来る」
「……はい」
「最悪じゃねえか」
ガルムは床をこぶしでたたいた。
「思い出さなきゃいいんだろ。だったら、大将は、ずっとここで畑耕して、風呂入って、飯作ってりゃいい。教団のやつらが来たら、俺たちが追い返す」
「ガルムさん」
「なんだ」
「満月の夜、俺がいなかったとき、何が起きましたか」
ガルムは黙った。
リリアの背中の傷。ティコの涙。倒れたシラタマ。
「教団はまた来ます。今度はもっと強い相手を連れて。そのたびに、俺が怒って、何かを思い出して、空が割れていくなら。……ここで待っているだけでは何も変わりません」
俺はテーブルの上の手紙をそっと指でなぞった。
「過去の俺は思い出すなと書きました。でも、ガルデアの底に何かを残していきました。名前を忘れた俺のために」
俺はみんなの顔をひとりずつ見た。
「俺はガルデアに行こうと思います。過去の俺が何を残したのか、確かめたい。それが思い出さずにみんなを守る方法なのか。それとも別の何かなのか。分からないけど、ここで待っているよりはましだと思うんです」
しばらく誰も何も言わなかった。
最初に動いたのはリリアだった。
シラタマを膝から下ろして、立ち上がった。
「お供します」
迷いのない声だった。
「私はレイ殿のパーティの仲間です。それに――」
リリアはテーブルの上の手紙の三行目を見た。
「グランツの家の者、と書いてあります。私はグランツの家の者です。その手紙の続きがどうなるのか、私にも知る理由があると思います」
ガルムが立ち上がった。
「おう俺も行くぜ、大将。置いていくって言っても、ついていくからな」
アズがおそるおそる、手を挙げた。
「……わたしも。わたしは教団のことを少しだけ知っています。役に立てるかもしれません」
ティコがばん、とテーブルをたたいた。
「ガルデアに行くなら、お父さんの商隊と一緒に行けばいいよ! ちょうど、来月、ガルデアに仕入れに行く予定だったから! 護衛料ももらえる!」
「ティコちゃん……」
マルタがため息をついた。それから、ぐいと背筋を伸ばした。
「ではばあやはこのお家を守ります。お留守のあいだ畑とお風呂の番をいたします」
シラタマが床の上できゅう、と鳴いた。
俺はみんなの顔を見回した。
胸の奥が熱くなった。
「……ありがとうございます」
声が少し、震えた。
その夜、みんなが寝室へ引き上げたあと俺は縁台に出た。
月が少し欠けていた。そのとなりに黒いひびが細く光っていた。
しばらくして、背後で扉の開く音がした。
リリアだった。今夜は、マルタと一緒に森の家に泊まることになっていた。
「……眠れませんか」
「少し」
リリアは俺のとなりに少し間をあけて、座った。
二人で空のひびを見上げた。
「レイ殿」
「はい」
「手紙の三行目のことですが」
リリアは膝の上で手を組んだ。
「グランツの家の者に会ったら、礼を言え。……レイ殿にはその意味が分かりますか」
「分かりません」
正直に答えた。
「何の礼なのか、俺にもまだ分からないんです。ユーグさんと何か、あったのだと思います。でも、それが何だったのか、思い出せない」
「……そうですか」
リリアは少しだけ寂しそうに笑った。
俺はしばらく空のひびを見ていた。
それから、リリアのほうを向いた。
意味は分からなかった。
でも、過去の俺が言えと書いたのだ。
それに分からなくても、言いたいことはあった。
「リリア」
「はい」
「ありがとう」
リリアがきょとんとした顔で俺を見た。
「……何のお礼ですか」
「分かりません」
「分からないのに、お礼を言うのですか」
「はい」
俺は笑った。
「でも、決闘のとき、怒ってくれたこと。守られる覚悟をしろって言ってくれたこと。洞窟で約束を守らせてくれたこと。満月の夜、ティコをかばってくれたこと。……今夜、お供しますって、真っ先に立ち上がってくれたこと」
リリアの目が大きく見開かれた。
「たぶん、百年前の礼はまだ言えません。だから、今の分だけ。ありがとう、リリア」
リリアは何も言わなかった。
しばらく固まったように俺を見ていた。
それから、月明かりの中でも分かるほど顔が真っ赤になった。
「……っ、そ、そういうことは急におっしゃらないでください」
「すみません」
「謝らないでください」
「……はい」
リリアはぷいと反対側を向いた。
耳まで赤かった。
しばらくして、背中を向けたまま、小さな声で言った。
「……どういたしまして。レイ、殿」
月のとなりで空のひびが静かに光っていた。
今夜はそれほど怖くなかった。
第32話 了
__________________________________________________________
♡と☆での評価、フォローの方、よろしくお願いします。




