第31話 先々代の日記
満月の夜から三日がたった。
空のひびは消えなかった。
昼間は青空に溶けて、ほとんど見えない。けれど、夜になると、月のとなりに黒い細い線がはっきりと浮かび上がる。
リンデンの町ではその話で持ちきりだった。
あの夜、ロウェル王国じゅうで地面が揺れたらしい。いや、王国だけではない。東の聖王国でも、南の獣人の国でも。大陸のどこにいても、同じ夜に同じように揺れて、同じように空のひびが見えたという。
白の災いの再来だ、と年寄りたちは言った。
百年前、空が白く染まり、村がいくつも消えたという古い言い伝え。
俺はその話を聞くたびに、胸の奥が冷たくなった。
あの夜、石に閉じこめた黒衣の男はゲオルクに引き渡した。男は何を聞かれても、ひと言も答えなかった。ただ、ときどき、空のひびを見上げて、うっとりとした顔をしていたという。
森の家の結界は張り直した。今度は内側からも破れないように。アズが置いた石のかけらのようなものが二度と効かないように。
四日目の朝、転移の陣から珍しい客がやってきた。
「……なるほど。これが名無しの魔導師の庵ですか」
杖をついた銀髪の老婦人。
ロザリンドだった。オットーとゲオルクを後ろに従えていた。
「りょ、領主さま!?」
マルタが洗濯物を放り出して、平伏した。
「お楽にマルタ。今日は私用です」
ロザリンドは家の中をゆっくりと見回した。修復した壁。四つの椅子の大きなテーブル。丸い敷物の上の、シラタマ。
それから、居間の隅に座っていたアズに目を留めた。
アズがびくりと肩をすくめた。
ロザリンドはしばらくアズを見ていたが、何も言わなかった。ゲオルクから話は聞いているはずだった。それでも、何も言わなかった。
「レイ殿。少し、二人でお話しできますか」
縁台に並んで座った。
ロザリンドは膝の上に古びた革表紙の冊子を置いていた。
「これは、わたしの祖母、エレオノーラ・ヴェステンの日記です。百年前、先々代の辺境伯だった人です」
ロザリンドは冊子を開いた。
黄ばんだ紙に細い、きれいな字が並んでいた。
「一族の者以外には見せたことがありません。ですが、あの夜の空を見て、あなたにお見せするべきだと思いました」
ロザリンドはあるページを指でなぞりながら、読み上げた。
「――秋の終わり。聖王国の騎士、ユーグ・グランツと名乗る男が館の門をたたいた。深手を負っていた。連れが二人いた。ひとりは灰色のローブの青年。もうひとりは家ほどもある銀色の大きな狐」
俺は息を止めた。
「――青年は名を名乗らなかった。ユーグは彼を『友』とだけ呼んだ。聖王国の追手がかかっているという。わたしは王に使いを出し、三人をかくまうことにした」
ロザリンドはページをめくった。
「――青年は西の森に庵を結んだ。弟子だというエルフの娘と人族の少年があとからやってきた。狐は青年のそばを離れなかった。青年は狐をダイフクと呼んでいた。変わった名だと言うと、故郷の甘い菓子の名だと笑っていた」
ダイフク。
白くて、丸くて、中に甘い餡の入った、やわらかい菓子。
なぜ、それを知っているのか。俺はもう、考えるのをやめていた。
縁台の足もとでいつの間にか来ていたシラタマが、じっとロザリンドの声を聞いていた。
「――冬のあいだ青年は森で静かに暮らした。ときどき、館に来て、わたしの子どもたちに菓子を作ってくれた。白くて、丸い、もちもちした菓子だった」
ロザリンドはほんの少しだけ声をやわらげた。
「わたしの母は、その菓子の味を死ぬまで忘れなかったそうです」
それから、またページをめくった。
字が少し乱れていた。
「――春。空が白くなりはじめた。村がひとつ、消えた。誰もその村の名を思い出せない。地図からも消えていた」
「――青年が館に来た。これから、白いものと戦いに行くと言った。そして、こう言った」
ロザリンドはそこでいったん、言葉を切った。
それから、ゆっくりと読んだ。
「『迷宮都市ガルデアの底に預けてきたものがある。いつか、名前を忘れた俺が取りに来るだろう。そのときは黙って、行き方だけ教えてやってほしい』」
風が縁台の前を吹き抜けていった。
「――青年は帰らなかった。ダイフクも帰らなかった。ユーグはひとりで戻ってきた。空は青に戻った。人々は名もなき青年を灰の賢者と呼ぶようになった。わたしは、ユーグとの約束により青年の本当の話を誰にも語らない」
ロザリンドは日記をそっと閉じた。
しばらく、何も言わなかった。
俺も何も言えなかった。
「……わたしはあなたが誰なのか、あなたに尋ねません」
ロザリンドは森のほうを見たまま、言った。
「祖母はユーグとの約束を守りました。わたしも祖母の約束を守ります。ただ、祖母が書き残した言葉だけは伝えておかなければならないと思いました」
「……行き方だけ、教えてやってほしい」
「ええ」
ロザリンドはうなずいた。
「迷宮都市ガルデアはここから東へ馬車で十日ほどの町です。大陸でいちばん深い迷宮の上に建っています。祖母の日記にはそれ以上のことは書かれていません」
俺は自分の手のひらを見た。
「領主さま。……ひとつだけ、お話ししてもいいですか」
「どうぞ」
「あの夜。空にひびが入る前に、俺の頭の中に昔の光景が少しだけ戻りました。それから、空から声が聞こえました。灰の賢者様、思い出してください、と」
ロザリンドの目がわずかに見開かれた。
「……それで、あなたはどう思われたのですか」
「怖いと思いました」
正直に言った。
「俺が何かを思い出すたびに、空にひびが入るのなら。俺は思い出してはいけないのかもしれない。でも、思い出さなければ、また誰かが俺を怒らせるために、仲間を傷つけに来る」
ロザリンドは黙って聞いていた。
「過去の俺は手紙に思い出すなと書きました。それなのに、ガルデアの底には名前を忘れた俺のために、何かを残していった。……矛盾していますよね」
「そうでしょうか」
ロザリンドは杖の先で地面を軽くたたいた。
「思い出すな、というのは、全部を背負いこむな、ということかもしれません。そして、底に残したものは、それでも、いつか、背負わなければならなくなったときのための杖なのかもしれません」
ロザリンドは立ち上がった。
「年寄りのたわごとですよ」
帰り際、ロザリンドは転移の陣の手前で振り返った。
「レイ殿」
「はい」
「祖母の日記にはもうひとつ、書かれていました。青年が作った白くて丸い菓子の名前です」
ロザリンドの口もとがほんの少しほころんだ。
「シラタマ、というのだそうです」
転移の陣が光った。
ロザリンドの姿が消えた。
縁台の足もとでシラタマがきゅう、と小さく鳴いた。
俺はしゃがんで、その銀色の毛をなでた。
百年前の俺はダイフクという狐と一緒にいた。
今の俺はシラタマという狐と一緒にいる。
名前のつけ方が同じだった。
記憶がなくても、同じだった。
「……ガルデア、か」
東の空を見上げた。
昼の青空にあのひびはほとんど見えなかった。
けれど、そこにあることを俺は知っていた。
第31話 了
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