第30話 灰の一文字
手紙が熱かった。
ポケットの布越しに手のひらが焼けるほど。
俺は手紙を取り出そうとした。
その瞬間、頭の中に白い光がはじけた。
――背中だった。
誰かの背中に両手を当てていた。
燃えさかる炎の中だった。空が真っ白に塗りつぶされていた。白い何かが上からゆっくりと降りてきていた。
俺はその背中を押していた。
逃げろ、と叫んでいた。
手のひらにその背中の感触がはっきりと残っていた。硬い鎧。その下の熱い体温。それから、もうひとつ。俺の腕の中にある、ふわふわとした温かいもの。大きな、大きな銀色の――。
光が消えた。
俺は家の前の草の上に片膝をついていた。
息が荒かった。
額から汗がしたたっていた。
「大将! おい、大将!」
ガルムが俺の肩を揺さぶっていた。
「……大丈夫、です」
声がかすれていた。
そのときだった。
足もとの地面が揺れた。
最初は小さな揺れだった。草がかさかさと鳴った。
すぐに大きくなった。
ごごごごご、と地の底からうなり声のような音が響いた。木々がざわざわと揺れた。家の柱がみしみしと鳴った。家の中からティコとマルタの悲鳴が聞こえた。
「地揺れだ!」
ガルムが叫んだ。
揺れは長かった。十を数えても、二十を数えても、止まらなかった。
やがて、ゆっくりとおさまっていった。
森が静まり返った。
鳥も、虫も鳴いていなかった。
ガルムが空を見上げて、動かなくなった。
「……おい。大将。あれ、なんだ」
俺も見上げた。
まるい白い月のすぐ横。
夜空に線が一本、走っていた。
黒い夜空の上にそれよりもさらに黒い細い線。まるで夜空という一枚の布に刃物で切れ目を入れたように。その切れ目の縁がかすかに白く光っていた。
ひびだった。
空にひびが入っていた。
ガルムの尻尾がぶわっと逆立っていた。
「……空が割れてる……?」
俺は何も言えなかった。
ひびの奥から何かがこちらを見ている気がした。
白い何か。
顔も目もない。ただ、白い。
さっき、記憶のかけらの中で空から降りてきていた、あの白。
そのとき、ひびの奥から声が降ってきた。
耳ではなく頭の中に直接。
さっき消した、あの幻影の男の声だった。
『――思い出してください』
穏やかな声だった。
『思い出してください灰の賢者様』
声はそれきり、聞こえなくなった。
空のひびは消えなかった。
白い月のとなりに細く黒く、そこにあり続けた。
目の前に半透明の板が勝手に浮かんだ。
【名前】レイ
【種族】人族(?)
【レベル】――(測定不能)
【称号】灰■■■(閲覧不可)
称号の欄。
四つの黒い四角のうち、ひとつ目が消えていた。
そこに一文字だけ浮かんでいた。
――灰。
灰の賢者。
幻影の男は俺をそう呼んだ。
俺は板を見つめたまま、動けなかった。
怒った。
怒りの底で何かが口を開けた。
記憶のかけらがひとつ、戻った。
地面が揺れた。
空にひびが入った。
――思い出すな。
手紙の一行目が今になって、はっきりと意味を持って聞こえた。
過去の俺が自分に思い出すなと書き残した理由。
俺が思い出すと、世界が壊れるのだ。
――夜が明けた。
リリアが目を覚ましたのは、朝日が居間の窓から差しこんできたころだった。
居間の長椅子の上でゆっくりと目を開けた。天井を見た。それから、そばの椅子でうたた寝をしていた俺を見た。
「……レイ、殿?」
俺ははっと顔を上げた。
「リリア。……気分は」
「……背中が少し重いです。でも、痛くはありません」
リリアはゆっくりと体を起こした。それから、自分の背中に手を回して、傷がないことを確かめて、目を丸くした。
「私……影の熊に……」
「治しました。もう大丈夫です」
リリアの足もとで丸くなっていたシラタマが目を覚ました。リリアの顔を見るなり、きゅうきゅうと鳴きながら、リリアの胸に飛びこんだ。リリアは、シラタマを抱きしめて、そのふわふわの毛に顔をうずめた。
「……よかった。シラタマ殿も無事で」
台所からティコとマルタが飛んできた。ティコはリリアに抱きついて、また泣いた。マルタも泣いた。ガルムは戸口の柱にもたれて、鼻をすすっていた。
騒ぎが少しおさまったころだった。
居間の隅にアズが立っていた。
ずっとそこにいた。昨夜から一睡もせずに。
アズはゆっくりと居間の真ん中へ歩いてきた。
そして、床に膝をついた。
両手を床についた。
額を床につけた。
「……わたしは想起教団の刺客です」
居間が静まり返った。
アズの声は震えていた。いつもの平らな声ではなかった。
「記憶がないというのは本当です。でも、森で倒れていたのは嘘です。この傷は自分でつけました。あの方に拾ってもらうために」
アズは、懐から黒い石のかけらを取り出して、床に置いた。黒い目の紋章が刻まれた欠けた石。昨夜、光を失って、ただの石になったもの。
「結界の内側にこれを置いたのもわたしです。昨夜、結界が破られたのはこれのせいです」
それから、黒い短剣をその横に置いた。
「わたしが受けた命令はあなたの仲間を傷つけることでした。あなたを怒らせて、記憶を呼び覚ますために」
アズは額を床につけたまま、言った。
「五日前、わたしはリリアさんの背中にこの短剣を向けました」
リリアの体がぴくりと動いた。
「シラタマさんに止められました。……止められなければ、刺していました」
誰も何も言わなかった。
「昨夜、リリアさんが傷ついたのはわたしのせいです。ティコさんが泣いたのも。マルタさんが怖い思いをしたのも。全部、わたしのせいです」
アズの肩が震えていた。
「……ごめんなさい」
床にぽたぽたとしずくが落ちた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
アズは何度も、何度も繰り返した。
ガルムが戸口で低く言った。
「……俺は気づいてた。嬢ちゃんの手のにおいで。言わなかったのは俺の落ち度だ。すまねえ、大将」
俺は椅子から立ち上がった。
アズの前にしゃがんだ。
アズは顔を上げなかった。
「アズ」
アズの肩がびくりと跳ねた。
「昨夜、影の熊の前に立ったのは誰だった?」
アズは答えなかった。
「ティコとマルタさんと倒れたリリアの前に、両手を広げて立ったのは誰だった?」
ティコが泣きはらした目でアズを見た。
「……アズ、だよ」
ティコが小さな声で言った。
「アズがあたしたちの前に立ってくれた。影を止めてくれた。あたし、見てた」
マルタがエプロンで目元をぬぐいながら、うなずいた。
俺はアズの頭にそっと手を置いた。
「命令は果たさなかったんだろ」
「……っ」
「五日前も、昨夜も。アズは自分で選んで、やめたんだろ」
アズの喉からしゃくり上げるような音がもれた。
「だったら、いい」
俺は笑った。
「アズ。おにぎり、また作るよ」
アズがゆっくりと顔を上げた。
紫色の目が涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「……な、んで」
「塩むすび、おいしいって言ってくれたから。作った人間はそれがいちばんうれしいんだ」
アズの顔がくしゃりと崩れた。
声を上げて、泣いた。
子どものように泣いた。
リリアが長椅子から下りて、アズのそばに膝をついた。シラタマを抱いたまま。
「アズさん」
アズがびくりとした。
「あなたは、最後にティコさんとばあやの前に立ってくれました。私が倒れたあとで」
リリアは少しだけ笑った。
「私の決闘をあなたが引き継いでくれた。……それで、おあいこです」
シラタマがリリアの腕からアズの膝の上に移った。
くるりと丸くなって、アズの腕に頭をこすりつけた。
アズはシラタマを抱きしめて、泣き続けた。
その日の昼、縁台でひとりになったとき、俺はポケットから手紙を取り出した。
昨夜、燃えるように熱くなっていた手紙。
開いた。
一行目。俺へ。思い出すな。
二行目。銀色の狐を見つけたら、今度こそ守ってやれ。
その下。これまで黒く焦げていた場所に。
新しい文字が浮かび上がっていた。
――グランツの家の者に会ったら、礼を言え。
俺はその一行を何度も読んだ。
それから、居間の窓の向こうを見た。
長椅子の上でリリアがアズとティコに挟まれて、シラタマをなでていた。
金色の髪が昼の光に揺れていた。
礼を言え。
何の礼なのか、俺にはまだ分からなかった。
ただ、胸の奥であの背中の感触がまだ温かく残っていた。
第30話 了
◆ 第一部 目覚めの森と、銀色の子狐 終
__________________________________________________________
♡と☆での評価、フォローの方、よろしくお願いします。
励みになりますので、高評価ブックマークをよろしくお願いします。
毎日6:30に更新します。




