第29話 百の魔法陣
頭の中が冷たかった。
怒りで熱くなると思っていた。けれど、違った。
窓の向こうでリリアが倒れているのを見た瞬間、頭の中から音が消えた。色が消えた。考えが一本の線だけになった。
まず、リリアだ。
俺は歩いた。
影の狼が何匹か、俺の前に立ちふさがった。
俺は止まらなかった。
影の狼は俺に触れる前に消えた。霧になる間もなく、ただ、消えた。俺が何をしたのか、自分でも、よく分からなかった。
破れた窓から家の中へ入る。
リリアはティコの上に覆いかぶさるように倒れていた。背中の傷が深い。影の爪は鎧ごと肉を裂いていた。血が床に広がっていた。
顔が白かった。
息が細かった。
「お、お兄さん……っ、リリアさんが、リリアさんが、あたしをかばって……っ」
ティコがしゃくり上げながら、俺の袖をつかんだ。
「分かってる」
俺はリリアの背中に両手を当てた。
治癒の魔法。
加減はしなかった。
手のひらから光があふれた。淡い緑色ではなかった。まぶしいほどの白い光だった。光がリリアの背中に吸いこまれていく。裂けた肉がつながっていく。流れ出た血が傷口へ戻っていく。砕けた鎧の破片が床からふわりと浮いて、元の形に組み上がっていく。
リリアの顔に血の色が戻った。
息が深くなった。
目は開かなかった。けれど、その寝息は穏やかだった。
「……大丈夫。眠ってるだけだ」
ティコがわっと泣きだした。マルタがティコを抱きしめて、自分も泣いていた。
俺は立ち上がった。
アズがまだ短剣を握ったまま、みんなの前に立っていた。影の熊を自分の影で縛りつけたまま。その腕がぶるぶると震えていた。額に汗が浮いていた。
「アズ」
アズの肩がびくりと跳ねた。
「もういい。放して」
アズは振り返らなかった。
「……でも」
「大丈夫だから」
アズの影がほどけた。
自由になった影の熊がアズに向かって、爪を振り上げた。
その爪が届く前に熊は消えた。
アズはその場に膝から崩れ落ちた。
俺は、倒れているシラタマを抱き上げて、ティコの腕に預けた。シラタマは目を閉じたまま、すうすうと寝息を立てていた。力を使い果たしただけだ。
「ティコ。マルタさん。リリアとシラタマを頼みます。家から出ないでください」
「お、お兄さん……」
ティコが俺の顔を見上げて、息をのんだ。
自分がどんな顔をしているのか、分からなかった。
俺は破れた窓から外へ出た。
月の光の中に影の群れがうごめいていた。
三十、四十。いや、もっと。黒衣の男が首から下げた徽章を握りつぶすたびに、森の暗がりから次々と湧き出してくる。
黒衣の男は家の前の草の上に立っていた。フードの下の口がにやりと笑っていた。
「お目にかかれて光栄です。あなたさまが――」
「喋るな」
男の口が止まった。
俺は空を見上げた。
まるい白い月が森の真上に浮かんでいた。
右手を上げた。
ほんの少し、ではなかった。
蛇口をひねった。
空に光の円がひとつ、浮かんだ。
複雑な模様が幾重にも重なった、魔法陣だった。
ふたつ。みっつ。
十。二十。五十。
百。
森の上空を光の魔法陣が埋めつくした。
月の光よりも明るかった。夜の森が真昼のように照らされた。木々の影も、草の影も消えた。
影の獣たちが動きを止めた。
光に照らされて、その黒い体がじりじりと薄くなっていく。
黒衣の男の顔から笑いが消えた。
「な……なんだ、これは……っ、百……? 同時に百……?」
男があわてて、首の徽章をいくつもまとめて握りつぶした。
影がさらに湧いてくる。巨大な影。家よりも大きな竜の形をした影。
俺は右手を下ろした。
百の魔法陣から光が降った。
雨のように。
滝のように。
光の柱が森じゅうに突き刺さった。影の狼を、影の熊を、影の竜を一匹残らず、貫いた。
音はなかった。
影は悲鳴を上げる間もなく光の中に溶けて消えた。
光の柱は木々を傷つけなかった。草も焦がさなかった。家にも触れなかった。
ただ、影だけを消した。
光がやんだとき、森の中に影の獣は一匹も残っていなかった。
黒衣の男の首から下がっていた徽章が全部、砂のように崩れて、地面にこぼれていた。
男は立ち尽くしていた。
口をぱくぱくと動かしていた。
俺は男のほうへ歩いていった。
「ひっ……」
男が後ずさった。足がもつれて、尻もちをついた。
「く、来るな……っ、わたしは司教さまの……っ」
男の足もとの地面が盛り上がった。
石が男の手足を包みこんだ。首から下をすっぽりと。男は、石の中に閉じこめられて、顔だけを出した格好で動けなくなった。
殺しはしなかった。
殺したら、話が聞けない。
それだけの理由だった。今の俺にはそれ以外の理由を考える余裕がなかった。
「お前に命令したのは誰だ」
男はがちがちと歯を鳴らしていた。
答えなかった。
代わりに、男の影がゆらりと揺れた。
月の光を浴びて、地面に落ちていた男の影。それがひとりでに立ち上がった。
影は人の形になった。
背の高い痩せた男の形。
影の表面に少しずつ色がついていった。黒い衣。銀色の髪。それから、顔。穏やかな細い顔。
銀縁の眼鏡。
半透明の幻影だった。本人はここにはいない。影を通して、姿だけを映している。
幻影の男はゆっくりと俺を見た。
眼鏡の奥の目が細められた。
その目に浮かんでいたのは敵意ではなかった。
懐かしさだった。
泣き出しそうなほどの。
「……ああ」
幻影の男はため息のように声をもらした。
「お久しぶりです。本当にお久しぶりです」
俺は答えなかった。
知らない顔だった。
知らないはずの顔だった。
なのに、胸の奥がぎしりと軋んだ。
「その目。その怒り方。……何もお変わりにならない。仲間を傷つけられたときだけあなたはそういう静かな顔をなさる」
「リリアを傷つけたのはお前の命令か」
「ええ」
幻影の男はあっさりとうなずいた。
「申し訳ありません。ですが、必要なことでした。あなたに怒っていただくために」
「……何のために」
「思い出していただくためです」
幻影の男は一歩、前に出た。
月の光の中でその姿が揺らいだ。
「あなたが眠っておられた百年、わたしはずっとお待ちしておりました。ずっと。ずっとです。師――」
俺は右手を振った。
幻影が光に包まれた。
男の言葉は最後まで聞こえなかった。
幻影はほどけるように消えていった。
消える寸前、男の口もとが笑っていた。
満足そうに。
石に閉じこめられた黒衣の男が白目をむいて、気を失っていた。
森に静けさが戻った。
月が白く光っていた。
百の魔法陣がひとつ、またひとつと、空から消えていった。
林道の向こうから、誰かが全速力で走ってくる足音がした。
「大将おおおっ!!」
ガルムだった。息を切らして、大剣を抜いたまま、家の前に飛びこんできた。
「町で森の上の空が光ってるのが見えて……っ、なんだ、何があった!?」
ガルムはあたりを見回した。消えた影の跡。砂になった徽章。石に閉じこめられた男。破れた窓。
それから、俺の顔を見た。
ガルムの耳がぺたりと伏せられた。
「……大将。お前、今、すげえ顔してるぞ」
俺は自分の手を見た。
右手が震えていた。
怒りがまだ体の中に残っていた。冷たくて、重たくて、底の見えない怒りが。
その怒りの底で何かがゆっくりと口を開けようとしていた。
――思い出すな。
ポケットの中で手紙が燃えるように熱くなっていた。
第29話 了
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