第28話 満月の夜
「お月見、ですか?」
満月の日の朝、台所で俺が言うと、リリアが首をかしげた。
「はい。満月の夜に月を眺めながら、お団子を食べるんです。……たぶん、俺のいたところの習わしだと思います」
また、どこで覚えたのか分からない知識だった。けれど、ティコが仕入れてきた米を石臼で挽いて粉にしたとき、自然とそうしたくなったのだ。
米の粉にぬるま湯を少しずつ足して、耳たぶくらいの柔らかさにこねる。小さく丸めて、真ん中を指でちょっとへこませる。沸いた湯に落として、浮いてきたら、冷たい井戸水にとる。
白くて、丸くて、もちもちした小さな玉。
ざるの上に並んだそれを見て、ティコがぷっとふき出した。
「お兄さん、これ……」
「はい」
「タマちゃんにそっくり」
居間の丸い敷物の上でシラタマが自分の名前を呼ばれて、耳をぴくりと動かした。
「……白玉、です」
「やっぱり!」
ティコが腹を抱えて笑った。マルタも口もとを押さえて、肩を震わせていた。リリアは、ざるの上の白玉と敷物の上のシラタマを真剣な顔で見比べていた。
アズだけがざるの上の白玉をじっと何も言わずに見ていた。
その日は、リリアもマルタもリンデンの屋敷には帰らず、森の家に泊まることになった。ティコも週に三日のうちの一日だった。ガルムは昼過ぎから、「ちょっと町に用がある」と言って、林道を歩いてリンデンのほうへ出かけていった。マルタは「一杯まででございますよ」と、その背中に言った。
夕方、縁台に敷物を広げた。
白玉を三角に積み上げて、皿に盛る。ティコが森で摘んできた、すすきに似た穂を壺に挿す。
準備が整ったころだった。
家の前の転移の陣がぼうっと光った。
光の中から出てきたのはリンデンの衛兵の若い男だった。息を切らしていた。
「レイ殿! ゲオルク隊長からの伝言です! 東の街道で大型の魔獣の群れが商隊を襲っていると! 衛兵だけでは手に負えないと!」
俺は立ち上がった。
「すぐ行きます」
「レイ殿、私も」
リリアが剣を取ろうとした。
俺は首を振った。
「リリアはここにいてください。ガルムさんも出かけているし、家に誰もいなくなるのは困ります。俺ひとりなら、すぐに片付けて、すぐに帰ってこられます」
「……分かりました」
リリアは少し不満そうな顔をしたが、うなずいた。
「お団子、残しておいてくださいね」
「はい。……お気をつけて」
俺は衛兵と一緒に転移の陣に乗った。
光に包まれる直前、縁台のほうを振り返った。
リリアがシラタマを抱いて、こちらを見ていた。ティコが手を振っていた。マルタが白玉の皿にふきんをかけていた。
アズが縁台の端に座って、うつむいていた。
その肩がなぜか、小さく震えているように見えた。
――リンデンの東の街道には何もいなかった。
魔獣の群れも。襲われた商隊も。
ゲオルクは詰所で首をかしげていた。
「伝言? わたしはそんなものを出しておりませんが……」
俺はとなりの若い衛兵を見た。
衛兵はぼんやりと宙を見ていた。
その目の奥に黒い何かがゆらりと揺れていた。
鑑定の板が浮かんだ。
【リンデン衛兵 トマス】
【状態】影による操り(解除済み)
衛兵の足もとの影がほどけるように消えていくところだった。
背筋が凍った。
同時に胸の奥で何かがぴんと鳴った。
遠く西の森のほうから。
家の四隅に埋めた結界の石。その石が悲鳴を上げていた。
――森の家では月がのぼりはじめていた。
まるい大きな白い月だった。
その光が家の前の草を銀色に照らしていた。
最初に気づいたのはシラタマだった。
リリアの腕の中で急に全身の毛を逆立てた。
「シラタマ殿?」
次の瞬間、家の中から黒い光が噴き上がった。
アズの寝室からだった。
枕の下に隠されていた黒い石のかけら。それが満月の光に呼応するようにどす黒く脈打っていた。
家のまわりの空気がみしりと鳴った。
目に見えない結界の膜にひびが入る音だった。
内側から。
「な、何ですか、これは……!」
リリアが剣を抜いて、立ち上がった。
結界が割れた。
ガラスが砕けるような音が森じゅうに響いた。
森の暗がりから影があふれ出してきた。
狼の形をした影。熊の形をした影。十、二十、三十。ミルト村の洞窟で見たものと同じ黒い煙の体。その額に黒い目の紋章が光っていた。
そして、影の群れの後ろから一人の男がゆっくりと歩み出た。
黒い衣。フードを目深にかぶっていた。首から黒い目の徽章をいくつも、いくつも下げていた。
「ばあや、ティコさん、中へ!」
リリアが叫んだ。
マルタがティコの手を引いて、家の中へ駆けこむ。
リリアは扉の前に立ちふさがった。
影の狼が跳んだ。
リリアの剣が一閃した。影の狼が二つに割れて、霧になった。
すぐに次が来る。二匹、三匹。リリアは扉を背にして、一匹ずつ斬っていく。灰羽の型で上を見せて、下から。
けれど、影は次から次へと湧いてきた。
黒衣の男が徽章をひとつ、握りつぶすたびに。
シラタマがリリアの足もとから跳んだ。
全身が銀色に光る。
「きゅうううううっ!」
月の光の筋が影の群れを薙ぎ払った。十匹以上の影が一瞬で消えた。
けれど、その一撃でシラタマは力を使い果たした。
着地すると同時にこてんと倒れた。
「シラタマ殿!」
リリアがシラタマに駆け寄ろうとした。
その隙に影の熊が家の窓を破った。
中からティコの悲鳴が聞こえた。
リリアは迷わなかった。
窓から家の中へ飛びこんだ。
居間の隅でティコが腰を抜かしていた。マルタがほうきを構えて、ティコの前に立っていた。その二人に影の熊が爪を振り上げていた。
リリアはその前に飛びこんだ。
剣を構える間もなかった。
ティコとマルタを両腕で抱きこむようにして、背中を熊に向けた。
影の爪がリリアの背中を深く引き裂いた。
「――っ、あ……」
リリアの体から力が抜けた。
ティコの上に崩れ落ちた。
金色の髪が赤く染まっていった。
「リリアさん! リリアさんっ!」
ティコが泣き叫んだ。
影の熊がもう一度爪を振り上げた。
その前に小さな影が立ちふさがった。
アズだった。
黒い短剣を逆手に握って。紫色の髪を月の光に揺らして。ティコと、リリアとマルタの前に両腕を広げて。
影の熊の爪がアズの目の前で止まった。
影がアズの影に絡め取られていた。
窓の外から黒衣の男が家の中をのぞきこんだ。
フードの下で口の端がつり上がった。
「……ご苦労だった、アズ。楔はよく効いた」
ティコが泣き顔のまま、アズを見上げた。
マルタが息をのんだ。
アズは振り返らなかった。
ただ、短剣を握る手が白くなるほど力をこめていた。
「……この人たちには指一本、触れさせません」
「裏切るか」
「……はい」
黒衣の男は鼻で笑った。
「影使いの出来損ないが、ひとりで何ができる」
男がまた、徽章を握りつぶした。
影の群れが家を取り囲むようにうごめいた。
そのとき、家の前の転移の陣が光った。
まばゆい光だった。
夜の森が昼のように白く照らされた。
光の中からひとりの男が歩み出た。
灰色のローブが風もないのに、はためいていた。
男は家の破れた窓を見た。
その向こうで血に染まって倒れている、金色の髪を見た。
泣き叫ぶ、赤毛の女の子を見た。
草の上に倒れた、銀色の小さな獣を見た。
月の光の中で男の顔から表情が消えた。
「……誰だ」
静かな声だった。
あまりにも静かな声だった。
森じゅうの影がその一言でぴたりと動きを止めた。
第28話 了
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