第27話 酔いどれの狼
その男は朝っぱらから酔っていた。
「おおおい! ここかあ! 闘技場で魔剣を折ったっていう魔導師の家はあ!」
家の前の林道から割れ鐘のような声が響いてきた。
ちょうど、朝めしを食べ終えたところだった。俺とリリアとアズとマルタがそろって窓から外をのぞいた。シラタマはアズの膝の上から耳だけを立てた。昨日からシラタマはアズの膝の上にいることが増えていた。
林道の真ん中に大柄な男が仁王立ちしていた。
ただの男ではなかった。頭の上に灰色のとがった耳が二つ。腰の後ろからふさふさした灰色の尻尾。顔の半分は、無精ひげに覆われていて、その下から鋭い牙がのぞいていた。
狼の獣人だった。
背は俺より頭ひとつ半は高い。肩幅は俺の倍はある。擦り切れた革の鎧を着て、背中に使いこまれた大剣を背負っていた。
そして、右手に酒の瓶を握っていた。
「……獣人の方、ですね」
リリアが剣の柄に手をやりながら言った。
「結界を越えてきています」
「悪意はないみたいです」
結界は悪意を持つ者を通さない。あの男は通ってきた。つまり、少なくとも誰かを傷つけに来たわけではないらしい。
俺は扉を開けて、外に出た。
「おはようございます。何かご用ですか」
狼の男は俺を見た。
上から下までじろじろと見た。灰色のローブ。細い体。武器なし。
それから、酒の瓶をあおって、げっぷをした。
「……あんたが、噂の魔導師か?」
「噂はよく分かりませんが。この家に住んでいるのは俺です」
「ほんとにか? リンデンの酒場じゃとんでもねえ化け物みてえな話になってたぞ。指二本で魔剣をへし折った。ギルドマスターの悪事を一晩で暴いた。灰から帳面を作り直した。……で、出てきたのがこんなひょろっこい兄ちゃんかよ」
狼の男はがははと笑った。
「俺は、ガルム。昔はちっとは名の知れた冒険者だった。強えやつがいるって聞くと、じっとしてられねえ性分でな。――というわけで兄ちゃん、俺と勝負しろ」
「お断りします」
「即答かよ!」
「朝ですし。けがをすると、困りますし」
「誰がけがするって?」
ガルムの目がすっと細くなった。
酔っているはずなのに、その目つきは急に鋭くなった。空気がぴりっと張りつめた。背中の大剣には手をかけていない。それなのに、全身から重たい圧が押し寄せてきた。
後ろでリリアが息をのむ気配がした。
「……この圧、ただの冒険者ではありません。Aランク、いえ、それ以上……」
「嬢ちゃん、いい目してるな」
ガルムはにやりと笑った。
そして、酒の瓶を放り投げると、拳を握って、踏みこんできた。
速かった。
大きな体からは想像もつかないほど。地面を蹴った音が遅れて聞こえた。一瞬で目の前に岩のような拳が迫っていた。
俺はその拳に人差し指をちょんと当てた。
当てただけだった。
ほんの少しだけ風を乗せて。
ガルムの体が宙に浮いた。
「――お?」
ガルムは、自分の体が浮いたことにきょとんとした顔をした。
そのまま、きれいな放物線を描いて、家の屋根を越えていった。
家の裏手でざっぱあああん、と大きな水音がした。
露天風呂の方角だった。
俺は放り投げられた酒の瓶を空中で受け止めた。中身はこぼれていなかった。
しばらく、静かだった。
窓からマルタがぽかんと口を開けて、家の裏手を見ていた。アズは、表情を変えなかったが、膝の上のシラタマを抱く腕に少しだけ力が入っていた。リリアは額を押さえていた。
「……レイ殿。お風呂はまだ掃除の前でした」
「すみません。ちょうど、柔らかい場所だったものですから」
家の裏に回ると、湯船の中でガルムが仰向けにぷかぷかと浮かんでいた。
ずぶ濡れの灰色の毛。ぽかんと開いた口。空を見上げる目。
「……大丈夫ですか」
声をかけると、ガルムはゆっくりと首を回して、俺を見た。
それから、突然、腹を抱えて笑いだした。
「がっはっはっはっは! なんだ今の! 指だぞ! 指一本だぞ! 俺が指一本で屋根の上を飛んだぞ!」
湯船の中でばしゃばしゃと手足をばたつかせて、笑い転げている。
「いやあ、参った! 参った参った! 完敗だ! こんな負け方、生まれて初めてだ!」
ガルムは、湯船の中で起き上がると、縁に両手をついて、俺を見上げた。
その目はきらきらと輝いていた。子どもみたいに。
「兄ちゃん。いや、兄貴!」
「……はい?」
「兄貴と呼ばせてくれ!」
俺はガルムの顔を見た。
無精ひげ。目尻のしわ。白髪の混じった灰色の毛。
「……いや、ガルムさんのほうが、年上ですよね」
「おう。三十八だ」
「俺はたぶん、二十代です」
「たぶん?」
「記憶がないんです」
「……そりゃあ、難儀だな」
ガルムは湯船の中で腕を組んで、しばらく考えた。
「じゃあ、大将だ。大将と呼ばせてくれ」
「……普通にレイでいいんですけど」
「それはなんか、落ち着かねえ。大将だ」
ガルムは一人で満足そうにうなずいた。
それから、湯船の湯を手ですくって、においをかいだ。
「……ところで、大将。これ、何だ? ただの水たまりにしちゃあ、ずいぶんあったけえが」
「お風呂です。温泉の」
「おんせん」
ガルムはしばらく湯の中でじっとしていた。
それから、目を閉じて、肩まで沈んだ。
「……ああ、こりゃあ、いいな……骨にしみる……」
そのまま、出てこなくなった。
昼過ぎ、湯から上がったガルムは、居間のテーブルでマルタの出した塩むすびを両手に一個ずつ持って、泣いていた。
「なんだこれ……なんだこれ……うめえ……」
「泣くほどでございますか」
「ばあさん、俺はな、十年、酒場の固いパンと酒しか口にしてねえんだ……こんな、あったけえもん……」
マルタは、あきれた顔をしながら、ガルムの皿に三つ目の塩むすびを置いた。
「お酒はこのお家では一日一杯まででございます」
「一杯!?」
「一杯でございます」
「……へい」
ガルムはしゅんと耳を垂らした。元はちっとは名の知れた冒険者だという狼が、腰の曲がった老婆にあっさりと負けていた。
それから、ガルムは自分のことを少しだけ話した。
昔、銀牙のガルムと呼ばれていたこと。Sランクの冒険者だったこと。十年前、ある依頼でパーティの仲間を全員失ったこと。それから、冒険者をやめて、各地の酒場を渡り歩いていたこと。
「強えやつの噂を聞くたびに、腕試しに行った。勝ったら、酒を飲んだ。負けたことはなかった。……負けたら、どうなるのか、試してみたかったのかもしれねえな」
ガルムは窓の外を見ながら、ぽつりと言った。
「で、負けた。そしたら、なんか、すっきりした」
ガルムは俺のほうを向いた。
「大将。しばらく、ここに置いてくれねえか。薪割りでも、狩りでも、見張りでも、何でもやる。寝るのはそこの荷物置き場の隅でいい」
俺はリリアを見た。リリアは少し考えてから、うなずいた。マルタは「お酒は一日一杯でございますよ」と念を押した。
「よろしくお願いします、ガルムさん」
「おう! よろしくな、大将!」
ガルムは大きな手で俺の背中をばしばしとたたいた。痛かった。
その夕方。
アズが井戸で水を汲んでいると、背後に大きな影が立った。
ガルムだった。
アズは振り返らなかった。桶を持つ手だけがわずかに止まった。
「……嬢ちゃん」
ガルムの声は昼間とは違って、低く静かだった。
「影のにおいがするな。それと、鉄のにおい。短剣をずいぶん長く握ってきた手のにおいだ」
アズの肩がぴくりと動いた。
「何を抱えてるのかは聞かねえ。俺にも人に言えねえことは山ほどある」
ガルムはアズのとなりに立って、井戸の底を見下ろした。
「ただ、ひとつだけ言っとく。――ここの連中を泣かせるなよ」
アズは何も答えなかった。
ガルムは、それ以上何も言わずに薪小屋のほうへ歩いていった。
その夜。
月はほとんど、まるくなっていた。
寝台の上でアズは影に向かって、座っていた。
『――明後日が満月だアズ』
影の声は穏やかだった。
『果たせぬのなら、別の者を送る。お前の代わりに』
アズは顔を上げた。
「……待ってください」
自分の声が震えていることにアズは気づいた。
「別の者とは誰ですか。何をするのですか」
影は答えなかった。
ゆらりと揺れて、ただの影に戻った。
アズは暗い部屋の中でひとり、膝を抱えていた。
窓の外でまるい月が静かに光っていた。
第27話 了
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