第26話 影の命令
――アズは影の声を黙って聞いていた。
『賢者の仲間を傷つけよ』
影の中の声は穏やかだった。いつもと同じように。
『あの方はまだ本当には怒っておられない。記憶の扉を開くには深い怒りがいる。大切なものを傷つけられたときの底の見えない怒りが』
「……はい」
『まずはあの騎士の娘だ。グランツの血を引く者。あの方のそばにいちばん長くいる』
アズは膝の上で手を握った。
「……殺すのですか」
『いいや。殺してはならない。死んでしまえば、怒りは悲しみに変わる。悲しみは扉を閉ざす。深く傷つけるだけでいい。あの方の目の前で血を流させるだけで』
穏やかな声が少しだけ低くなった。
『次の満月までに果たしなさい、アズ。それがお前の務めだ』
「……はい、司教さま」
影がゆらりと揺れて、ただの影に戻った。
アズは長いあいだ、動かなかった。
月の光の中で自分の手を見ていた。
短剣を握るためのたこのある手。
それから、今夜、塩むすびを持っていた手。
アズには記憶がなかった。
それは嘘ではなかった。
司教さまに拾われる前のことをアズは何ひとつ覚えていなかった。気がついたときには、東の塔の地下にいて、黒い衣を着て、短剣の使い方を教わっていた。名前は司教さまがくれた。命令は司教さまがくれた。それ以外のものは何も持っていなかった。
だから、あの人が「仲間だな」と言ったとき、アズは何と答えればいいのか、分からなかった。
それから、五日がたった。
アズは森の家の毎日の中にいた。
朝、マルタと豆のすじを取った。昼、ティコと荷物置き場の帳面をつけた。ティコはアズの字がきれいだとほめた。夕方、あの人が作ったものを食べた。煮込み。焼き魚。卵を甘く焼いたもの。どれも塩むすびと同じように胸の奥がじんとした。
そして、ずっとあの騎士の娘を見ていた。
リリア・グランツ。
朝、家の前で剣を振っている。昼、あの人と一緒にリンデンへ行く。夕方、帰ってきて、銀色の獣をなでて、顔をゆるませる。夜、老婆と一緒に光る円の上から町へ帰っていく。
隙はいくらでもあった。
騎士の娘は強い。けれど、この家の中では気を抜いている。特にあの人がそばにいるときは。
満月まであと三日。
その日の午後、あの人はひとりでリンデンへ出かけていった。ギルドに依頼の報告をしに行くのだと言っていた。ティコは父親の店に戻っていた。マルタは台所で夕食の仕込みをしていた。
騎士の娘は朝の稽古のあと家の前の縁台で眠っていた。
剣を膝に立てかけたまま。背中を少しだけこちらに向けて。暖かい日差しの中ですうすうと寝息を立てていた。
アズは家の角からそれを見ていた。
手のひらの中に短剣があった。
森で拾われたとき、衣の下に隠していたものだ。誰にも見つかっていなかった。
今だ、と思った。
足音を消して、歩いた。
草の上を。影の上を。東の塔で何百回も練習した歩き方で。
縁台まであと五歩。
四歩。
三歩。
騎士の娘はまだ眠っていた。
金色の髪が日差しに光っていた。
アズは短剣を持ち上げた。
背中の肩甲骨の下。深く刺せば、しばらくは剣を握れなくなる。命には届かない場所。司教さまが教えてくれた場所。
二歩。
刃先が騎士の娘の背中に向いた。
そのとき、袖を引っぱられた。
アズは息を止めた。
足もとを見た。
銀色の小さな獣がアズの袖の端を口にくわえていた。
いつの間にそこにいたのか。気配がまったくなかった。
シラタマ。
あの人がそう呼んでいる獣。
アズが家に来てから、ずっとアズにうなっていた獣。
アズは動けなかった。
獣はうならなかった。
牙もむかなかった。
ただ、袖の端をそっとくわえていた。引っぱる力はとても弱かった。噛みつくのではなく、ただ行かないで、と言うように。
金色の目がアズを見上げていた。
怒っている目ではなかった。
怖がっている目でも、なかった。
その目はただ、悲しそうだった。
アズの手が震えはじめた。
短剣の刃先が揺れた。
獣は袖をもう一度くい、と引いた。
それから、袖から口を離して、アズの足にそっと体をすり寄せた。
温かかった。
ふわふわだった。
アズの手から短剣がすべり落ちた。
草の上に音もなく落ちた。
獣はそれをちらりと見た。それから、前足で草を少しかけて、刃を隠した。
そして、アズの足をよじ登りはじめた。
アズはどうしていいか分からず、しゃがみこんだ。
獣は、アズの膝に乗り、胸に前足をかけ、それからアズの腕の中にすっぽりと収まった。
くるりと丸くなって、目を閉じた。
アズは腕の中の小さな温もりを見下ろした。
鼓動が伝わってきた。とくとくと速い小さな鼓動。
温かい。
どうして。
どうして、この獣はわたしの腕の中で眠れるのだろう。
今、わたしが何をしようとしていたのか、知っているはずなのに。
頬に何かが伝った。
アズは指でそれに触れた。
濡れていた。
目からあふれていた。
止まらなかった。
アズは声を出さずに泣いていた。
なぜ泣いているのか、分からなかった。
東の塔では一度も泣いたことがなかった。
「……アズ、さん?」
声がして、アズはびくりと顔を上げた。
縁台の上で騎士の娘が目を覚ましていた。
眠そうな目でアズを見ていた。アズの腕の中の銀色の獣を見ていた。アズの頬の涙を見ていた。
「シラタマ殿が……アズさんに?」
騎士の娘の目が大きく見開かれた。
アズは答えられなかった。
ただ、首を横に振った。
「……分かりません。なぜ、涙が出るのか」
声が震えていた。
騎士の娘はしばらく黙ってアズを見ていた。
それから、縁台から下りて、アズのとなりの草の上に腰を下ろした。
何も聞かなかった。
ただ、となりに座って、アズの腕の中で眠る獣の背中をそっとなでた。
「……シラタマ殿は人を見る目がありますから」
騎士の娘は小さく言った。
「この子が安心して眠れる人なら、きっと悪い人ではありません」
アズはうつむいた。
涙が獣の毛の上にぽたぽたと落ちた。
草の中に隠された短剣が日差しを受けて、かすかに光っていた。
騎士の娘はそれに気づかなかった。
――夕方、リンデンから帰ってきた俺は家の前で足を止めた。
縁台の前の草の上にリリアとアズが並んで座っていた。
アズの腕の中でシラタマが眠っていた。
あれほど、アズにうなっていたシラタマが。
リリアが俺に気づいて、口の前に指を立てた。
静かにと。
アズは、シラタマを抱いたまま、うとうとと舟をこいでいた。その頬に涙の跡がうっすらと残っていた。
俺は何があったのかは分からなかった。
ただ、なんとなく、いい日だったのだろうと思った。
夕日が二人と一匹の影を長く、長く伸ばしていた。
アズの影だけがほんの一瞬、風もないのに、揺れた気がした。
第26話 了
__________________________________________________________
♡と☆での評価、フォローの方、よろしくお願いします。




